表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/32

第十九話 眠れる竜、誘惑する狐 前編

挿絵(By みてみん)

 白み始めた地平線、どこまでも続く草原に浮かぶ飛空艇。その内部から、威勢のいい喇叭の音が響き渡った。音色に驚き草影から飛び立つ小鳥達。その姿を、超硬質硝子を何重にも接着した丸窓から視線で追う者が居た。夜明けの光が手のひらほどの大きさの丸窓から注ぎ、彼の橙がかった金髪を照らす。その目のまわりは、一晩中泣き通したようで真っ赤に腫れていた。


「よぉエミール、またひどい顔してるな。昨日は眠れなかったのか? 」


 頭上から急に声が聞こえて、エミールと呼ばれた青年は一瞬だけ視線を船内へ戻した。呼ばれたほうへ向けた顔を、慌てて窓のほうへ戻してしまう。べつに、と、これもまた泣きすぎて炎症を起こしたのかすっかり鼻に詰まった声が返された。拳で涙のあとを乱暴に拭い消そうとするエミールの横、三段ベッド備え付けの梯子を、さっき声を掛けてきた青年が降りてくる。エミールと青年がいる場所は、ロザリア空軍所属飛空戦艦ヴィースの一室だった。もとは倉庫だった場所を、扉以外の壁部に三段ベッドをつけることで居住空間に改造したものだ。もちろんそんな場所にいるのはエミールと彼だけのはずがなく、先程の起床の合図である喇叭にたたき起こされた他の兵たちも、続々と自分の寝床から這い出してきていた。総勢九名、皆エミールと同じ班の兵士たちだ。

 窓の外を見たまま出てこようとしないエミールに、さきほどの青年は何か察したようなしたり顔で、茶化す声を出す。


「ははー、さてはまた故郷が懐かしくて泣いてたな? 」


「……」


 半分はその通りだから、エミールは肯定も否定もできず沈黙を貫いた。よりいっそう窓へ首をよじるその姿を見て、青年はやれやれと肩をすくめてみせる。ま、そんなに沈んだ顔すんなよ、と、いかにも砕けた口調で、青年は同僚を慰めた。二人の後ろでは、てきぱきと班員たちが着替えている。普段通りの光景も、どこか皆浮き足立っているようだった。明るい顔で今日の任務にまつわる雑談に花咲かせる班員たちを肩越しに眺め、青年も嬉しそうな調子で話しかけてくる。


「ほら、さっさと着替えて朝飯食いにいこうぜ。久しぶりに地面を歩けるんだ、落ち込んでる暇なんかないぞ」


 言われて、昨日上官から命令されたことを思い出したエミールは、渋々寝床から出た。暗い表情の彼とは対照的に、他の班員は明るく朝の挨拶をする。もごもごとそれに返事をして、死にかけの粘菌のごときのろまさで着替えると、エミールは彼らとともに食堂へ向かった。途中の廊下で他の班員が合流して、エミールたちの班に任された仕事について若干羨ましそうに、けれどこちらも楽しそうに話をした。が、一晩経ってもまだ昨日の出来事を整理できていなかったエミールには、それらの会話はすべて右から左へと素通りして全く内容をきけなかった。


『明日は、部隊の食料と消耗品を調達する仕事があったな。おまえはそれに紛れてミランダ達のところへ行って、公爵とミランダ間の取引内容を探ってくるんだ。――頼んだぞ』


 頭の中で、昨日の夜上官に言われた命令が再生される。――けれど。


――そんなこと言われたって、僕にそういう大それたことなど出来るわけが――


 あのあと部屋に戻ってしばらく冷静に考えてみたが、どう考えても無謀すぎる。任務中に班から勝手に離脱して、しかもその後単身敵の懐に飛び込んで情報を盗んで来いということなのだ。正直、無茶苦茶な話だ。班員にも、敵方にも気づかれずにそんな離れ業ができるだろうか。いや、できない。やれそうにない。考えただけで今も足が小刻みに震えているし、額には冷や汗だ。

 立ちくらみがしたので、エミールは腫れぼったい瞼を一度ぎゅっと閉じた。どうやら寝不足が祟っているようだ。ますます今後の行動と展望に自信をなくす。普段なら、と、エミールは胸中で独り言を呟いた。……普段なら、首都に居たときなら、そもそも上官のような人物や、持ちかけられた話に興味など抱かなかったはずだ。彼は自他共に認める臆病な人間だった。それなのにほいほい誘われるがまま部屋に行って、聞いただけでもただじゃ済まされない話を全部聴いてしまったのは――。

 多分、家族のことが心配だったからだ、と、胸に渦巻く不快な感情を押し殺して、エミールは一人結論づけた。表層意識で決めつけた自分の行動理由は、けれど陽光すら届かぬ深層意識へ沈もうとして激しい反発を受けた。その微妙な違和感、自分で自分を騙しているような感覚に、エミールは僅かに顔をしかめたが、すぐにそれは目の前のことに押し流されてしまった。食堂についたのだ。


 食堂は、何年も放置された炭鉱にテーブルと椅子を備え付けたと言ったほうがふさわしいその設備は、辛うじて食べ物が発しているのだと理解できるにおいで充満していた。思わず換気口を見て正常に作動しているか確かめてしまうエミールの横で、同じ班員たちは飯が用意された席に腰を下ろす。今日の朝食は、光沢のある白いケースの中に全て収められていた。落としても割れにくく、金属と比べて圧倒的に軽量な新素材で作られた弁当箱だ。エチレンとか言う気体が重合した構造を持つ高分子であり、重合の意味を持つポリという言葉をエチレンの頭につけてポリエチレンと呼ぶらしい。新兵訓練の一環として教えられた、曖昧な記憶がなぜか急に思い起こされ、エミールは目の前の白い箱をしげしげと見つめた。箱は、純白と言うには日焼けして、小さな傷もいくつか見受けられた。新素材、と言っても、これが初めて軍に採用されたのはもう八年も前のことなのだ。……八年経っても新素材と言われるくらい、画期的な発明だったとも言えるけれど。班員の一人が蓋を開けると、中は同じ素材の板で仕切られていて、少し隙間ができるくらいの――つまり肉体労働をする成人男性が必要とする食事量としては不十分な――朝飯が詰められていた。蓋の裏には、これまた同じ素材の白いナイフとフォークがくぼみにぴったりはまりこんでいる。柄の部分を押すとその分先が飛び出してくるので、そうやって取り出して使うのだ。

 エミールも他の兵たちの例に漏れず同じようにしてナイフとフォークを取り出し、今日初めての食事を胃袋にしまう作業に取り掛かる。随分と味気ない説明になるのは、弁当箱の中に詰められているものが人間の食事と呼ぶにはあまりにもみすぼらしく、かつ単純に不味いからだった。メニューは湯でもどした粉ミルクと乾燥押し麦の混合物と、えぐみしかない謎の緑の流動体の上に、ミミズと言われたら信じてしまいそうなレベルに切り刻まれた何かの肉数本が乗っているものだった。相変わらず家畜の餌以下の食事を目の当たりにして、予想も理解もしていたものの、思わずエミールは天井を仰ぎ見ていた。錆と油染みで描かれた複雑な模様をじっと眺めるエミールの耳に、少し遠い席から嬉しそうな声がする。


「あ、緑虫苔のパテだ! 俺これ好きなんだよねー、おふくろがよく作ってくれたんだ」


 視界の端のほうで喜んでいる兵に何の罪もないのだが、その言葉を聞いてエミールの食欲は一段と下がった。緑虫苔とは、極寒の大地ロザリアにおいて数少ない樹木の根元に蔓延り栄養を吸い取ってしまう困りもののことだった。その見た目は、虫とつく名にふさわしく、緑色でいやらしい光沢があり、細太を繰り返す線が幾重にもなって、何かの幼虫が大量発生して蠢くが如し、だ。糸を絡め取るように素手で簡単に取れるが、寄生先の植物の根に身を残すので、薬品を使って駆除しない限り何度でも生えてくる。乾燥にやたらと強く、採取して天日干ししたあとも水さえあれば元通りになるという。そのため北極に近い地域では貴重な保存食料となるらしいが、首都で生まれ育ったエミールにとっての緑虫苔は、暖かくなると大量発生して庭の草木を枯らす厄介者でしかなかった。妹の誕生日に贈ろうと手塩にかけた薔薇を全て枯らされた、胸のむかつく思い出もある。

 なんともいえない顔のまま押し麦だけ食べると、エミールは弁当箱の蓋を閉めた。塩その他調味料が全く使われていないので、飲み下すのも大変だった。口の中に残るかび臭い後味に辟易しつつ任務について考えていると、部屋で話しかけてきたあの青年がこちらを見て首を傾げる。食べないのか? と尋ねられ、食べてもいいよ、と返事をすると、青年は微妙な笑顔を浮かべ首を振った。彼の口にも合わなかったようだ。隣に座った班員は意外にもこれが好物だったらしく、エミールは半分だけ中身の入った弁当箱を彼に譲った。お礼に、と、隣の班員が真新しいネジを一つ手の中に落とす。


「……何だいこれは」


「見りゃーわかるだろネジだよ。あっ、型番のことか? それなら――」


 胸ポケットから大分使い込んだ小冊子を取り出して、ページを捲る班員の視線を、エミールが手で遮る。


「そうじゃなくて、何でネジなんか渡すんだってことだよ」


「ああ……」


 実に不可解そうな顔で尋ねるエミールへ、緑虫苔が好きな班員は納得したと同時に珍しいものでも見るような視線を向けた。他の班員たちも、なんだか妙に生暖かい微笑みを浮かべて二人のやり取りを見ている。


「そうか、エミールはまだ知らないんだな」


「初めてマキナリーに行くんだもんなぁ」


 気持ち悪い表情と声で感慨にふける彼らを一瞥して顔をしかめるエミールに、部屋で話しかけてきた青年が説明をしてくれた。


「――マキナリーじゃ、機械の部品は高く売れるんだよ。そうだな、そのネジ一本だったら……女を買うには足りないが、美味い果実酒を二、三本買うには十分すぎるくらいだ」


 へぇ、と、エミールは生返事をして手のひらで転がるネジを見つめた。酒はあまり飲まないし春を買ったことなどないので、どのくらいの相場で取引されているのか、いまひとつぴんと来なかった。それに気付いた年配の班員が、腹いっぱい美味い飯食ってもお釣りがくるぞ、と説明を付け足す。ようやく自分が握る物体の価値を理解したエミールは、驚いた表情のまま目をしばたいた。


「これが? こんなちっぽけなネジ一本で? 」


 とても信じられない、といった顔で疑問符を飛ばすエミール。その様子をみて、ははは、と年配の班員は笑った。その通りだ、と、部屋で話しかけてきた青年が頷いている。感嘆の声を漏らしネジをしげしげと眺めるエミールに、青年はただし、と続けた。


「ロザリアの国境を出たら、俺たちがいつも使ってる紙幣はただの紙クズになる。向こう(マキナリー)で遊びたかったら、出発前に手持ちの金を機械部品に変えておいたほうがいいぜ」


 とりあえずネジを大事に懐に仕舞ったエミールが、不思議そうな顔を説明してくれた青年へ向けた。どうしてロザリア紙幣が紙クズになるんだ? とか、ロザリアとアガシャは貿易もしてるじゃないか、とか言っている班最年少の兵エミールを、他の先輩たちは苦笑しながら見守った。なぜって言われても、なぁ、と、説明してくれた青年は後頭部をかきつつ周囲を見回して声量を落とす。


「紙幣ってのは、その国の信用で価値が決まるもんなの。ロザリア・アガシャ間で行われてる貿易だって、ロザリア紙幣換算ではなく機械部品とアガシャの輸出品の物々交換でやってるんだ。たまーに食料援助してくれる共和国マリーノも、援助の返済はあっちの金で返せって言ってくるし。――つまり、俺たちの国の信用は周辺国に対して塵も同然ってわけなのよ」


 青年の説明を聞いて、班員たちは激しくうなずいている。隣の班の兵士が、そうだよなぁ、と沈んだ声で呟くのが、エミールの耳に入った。それは南方の小国群に対しても同じか、とエミールが尋ねると、当たり前だ、と青年が返す。そもそもあそこは貨幣経済が発達してないしなぁ、と、年配の班員が苦笑混じりに付け加えた。ご理解いただけたかな? と、おちゃらけて顔を覗き込んでくる青年に向けて、エミールはさらに質問を向ける。


「でもどうして、そこまでロザリアの信用が――」


 生真面目な表情で訊いてくるエミールの前に、人差し指を立てた手がついと出される。面食らって口をつぐんだ彼の目の前で、その人差し指は手を伸ばした本人の元に戻って唇に触れた。さっきから親切に説明してくれている青年が、静かにしろと合図を送っているのだ。和やかに班最年少兵の様子を見守っていた同僚たちも、少し緊張した雰囲気でいそいそと食事をかきこんでいる。困惑して眼を泳がすと、食堂に目を引く一団がやってきたのが視界に映った。豪華な肩章、糊の効いたシャツ、きっちり撫で付けられた頭髪。将校たちだ。そのなかに昨日任務を言いつけられたあの上官が混じっているのを見て、エミールは目を合わせないように床をみつめた。砂埃がこびりついている床を一心に見ていると、青年が将校たちに聞こえないよう小声を出した。


「この話は、もうやめておこう。エリートの奴らに睨まれたらただじゃ済まないからな」


 その声音がこわばっていることに気づき、エミールは俯いたままうなずいた。

 ちら、と、目の端から一瞥すると、あの上官はほかの将校とおなじく一段上にある食卓についていた。一般兵より多少ましな朝食を見て様々な表情を浮かべる将校らに混じって、ただ一人、眉すら動かさず非の打ち所がない所作で食物を摂取している。なんとも異様な光景に、エミールは血の気が引くのを感じながら生唾を飲み込んだ。喉元まで出かけた、自分だけが知っている秘密も、一緒に。






 真皮を貫くような陽射しの下、申し訳程度に敷石が散らばる大地の上。草原の端に作られたアガシャ王国の検問所で、エミールと彼の所属する班は入国審査を受けていた。皆、船で着ていたロザリア軍の作業服から、入隊の時に持ってきた私服に着替えてある。何も知らないマキナリーの民を刺激しないように、との配慮だと言って、上官命令で着替えさせられたのだ。しかし入国時に提出する書類には自分たちがどんな組織に属しているか嘘偽りなく書かなければいけないので、検問官や書類を見ることのできるその他の役職者には正体がばればれである。

 今、隊の前で書類に目を通していた検問官の一人も、職業の欄を見て思い切り顔を顰め、刺を感じる視線をこちらに送っていた。


「ふぅん、観光と食料調達ねぇ。そう。ま、お気を付けて楽しんでくださいよ。尊大な態度とったりして住民と喧嘩とかしないでくださいね。用心棒の斡旋とかしてませんので、安全は各自でってことで」


 まぁそちらさん方には余計な忠告かもしれませんがね。冷え切った声でそう言うと、検問官は手のひらほどある判子を書類に押した。ばん、と、大きな音をたてて真っ赤なインクが紙面に染みる。かなり乱暴な押し方に、エミールは隊の後ろのほうで身をすくめた。さっきから、検問のまわりにいる住民の視線が気になる。濃い茶髪に象牙色の肌の民の中に、エミールたち金髪白肌の集団がいるのは眼をひくことだろう。……だが、彼らの視線には好奇心以外の感情が混じっている。なんとも言えない居心地の悪さに、エミールは昨日訪れた空賊の飛空艇アジリタスの雰囲気を思い出した。あれと同じだ。


 エミールが一人そんなことを思っている間に、入国審査は終わった。許可を受けた証書を班長が受け取ると、一団はそのまま検問をくぐる。


「……なんだったんですか、さっきの検問官。入国の審査を任されるにしちゃ、態度悪すぎますよ」


 しばらく朽ちかけた家屋がぽつぽつと建つ平野を歩き、検問から遠ざかったところでエミールは口を開いた。班の中で苦笑が聞こえ、年配の班員が目尻にしわを寄せて振り返る。なぁに、いつものことさ、と班員は言って笑った。すれ違うぼろをまとったアガシャ人の母子おやこが、今度ははっきりとした敵意を持ってこちらを眺めていった。それにも眉をひそめるエミールに、食堂で色々説明してくれたあの青年が、また話しかけてくる。


「いくら八年前って言ったって、アガシャとロザリアは戦争した仲だからな。……それにマキナリーは、飛空艇による空爆も受けてるし……家族親族を亡くした人も多いだろうよ。ロザリア人ってだけで心象悪いのさ。俺らが軍人だってばれたら――場所によっちゃ、ただで帰してはくれねーだろうな」


 そう語る青年の表情は一応笑みの形をつくっていたが、声のほうは暗かった。平野に建つ廃墟が見せる朽ちた骨組みに焼け焦げたあとがあるのをみとめて、エミールは視線を落とした。赤茶けた地面に反射された日光が眼底に突き刺さる。それと同時に、先ほどの母子らの眼差しが胸に傷をつけた。彼女らも戦争で亡くしたのだ。夫を、父親を――。子供が着ていた擦り切れた麻布の下に、一瞬だけ白い器を持つ手が見えた。器はひび割れ、それを掴む両手もあかぎれて、血が滲むほど荒れていた。稼ぎ手を亡くすということが、彼女らにどのような影響を与えたか、エミールにはよくわかっていた。彼女たちは住む家すら戦火で失ったのだろうか、と、鬱々とした疑問を抱える脳裏に、自分の家族の姿がぼんやりと浮ぶ。作戦が失敗すれば、家族が同じ状況に放り出される。しかし、成功したら、マキナリーに住む多くの人間が先程の母子のような――


「……ル、おいエミール! 」


 青年が名を呼ぶ声に、はっと我に返る。夢想から現実に直った眼の先には、自分たちと同じ色の髪と肌をもつ男性が一人立っていた。その人物の前で、班員たちは止まっている。あれは誰、と一団に駆け寄ったエミールが訊くと、これから街を案内してくれる通訳だ、と青年が返した。なるほど、よく見れば彼は自分たちと違い、マキナリー風の衣服を身にまとって全身錆と埃にまみれている。短い上着に白い背当てを着た通訳の男性は、班員達に囲まれて不安そうな視線を周囲にとばしていた。


「ちょ、ちょっと――こんな大人数で来るとは聞いてませんよ」


「船に待機してる奴らの食料を買いに来たんだ。二、三人じゃ運びきれないだろう」


「しかしですねぇ……困るんですよ……。なにもこんなにガタイのいい野郎ばっかり揃えて連れてこなくても……。せめて一人か二人女を連れてきてくださいよぉ。せっかくロザリアからの団体観光客だって話つけてあるのに、これじゃどうみても軍人の集団か何かじゃないですか」


 すっかり弱り果てて頭を掻いている通訳が、ふと眼を上げた。はたとエミールと眼が合い、ああ、と暗かった顔が若干嬉しそうに明るくなった。


「なんだ子どもも連れて来てるんじゃないですか。ほら君、そんな後ろのほうじゃなくて前に出ておいで」


 にこにこと手招きされて、エミールはむっと顔を顰めた。最年少とは言っても、隣に立つ青年とたった一つしか歳が違わないのだ。昔から顔が情けないとか頼りがいのない身体だとか、首都の女の子たちに馬鹿にされていた記憶が蘇る。確かに班員たちと比べたら背も低くて筋肉もついていないが、もうとっくに成人している。

 それでも子どもに見えるのなら仕方ない、と、内心重い溜息をつきつつエミールは前に出た。近づいてみると、猫背の通訳も自分より背が高かった。


 不愉快ここに極まれりという表情で突っ立っているエミールを見て、ロザリア首都から来たのかな、と通訳が一人言とも質問ともつかない声を出した。それを聞いてエミールが驚く。が、すぐにその理由に気がついた。班の中で、自分だけ服が上等なのだ。それも傍から見てわかるほどに。皆擦り切れたり色あせた服を着るなか、一人だけ凝った裁断と模様の服を着ている。言われるまで別に何とも思っていなかったが、もう少し着古した服を持ってくるんだった、とエミールは後悔した。

 ぱん、と通訳が手を叩き、皆の注意を集める。


「はい、それじゃあまず、持ってきた機械部品をアガシャの貨幣に替えに行きましょう」


 そう言って、通訳は前方右手を指した。暑い陽射しを遮る巨木の向こうに、大小さまざまのテントと活気ある人々の姿が見える。班員達から嬉しそうなどよめきが上がった。エミールの胸にも期待と興味が湧いたが、それと同時に奇妙な違和感を覚えた。


「……? 」


 ちくりと胸を刺す違和感に首をかしげつつ、通訳のあとをついていく。テントのある一帯に着くと、通訳から、持ってきた第一種魔動機械操縦者免許証を出すように言われた。入隊のときレクリエーションが終わったあと発行されたもので、とくに機械を操縦する場面に遭遇したこともないエミールにとって、まさに無用の長物、記憶の片隅にうもれた存在の一つだった。そんなものを持っていけと上官に命令されたことも意外だったが、換金するために必要だというのにはもっと驚いた。ほかの班員たちは、通訳に言われる前からいそいそと免許証を取り出している。もらったときはただの薄い紙切れだったのだが、班員達のそれは紙が痛まないよう丁寧に補強されていた。

 不思議な光景にまた首をかしげていると、あの青年が隣にやってきて、親切にも説明してくれた。


「アガシャじゃ、機械の部品を売買するにも免許証か許可証が必要なんだ」


「そうなのか……。でも、どうしてロザリアで発行された免許がアガシャ王国で有効なの? ロザリアの紙幣は、国境を越えると使えなくなってしまうのに」


 疑問に思った事をそのまま尋ねると、青年は補強した免許証に眼を落とし、続いて周りにいるアガシャ人たちへ顔を向けた。


「どうしてって、ロザリアは八年前の対戦で実質勝利したよな」


 うん、とエミールがうなずく。青年が続ける。


「それで共和国マリーノの仲介を得て、ロザリアとアガシャは停戦協定を結んだ」


「うん。……それが機械操縦免許証が有効なこととどんな関係が? 」


 鈍いなぁ、と青年は呆れた様子でエミールをみおろし、自分の頭を掻いた。


「あのさぁエミール。ロザリアの主な輸出品は何か、これくらいは知ってるよな? 」


 あまりの無知ぶりに少し失礼な訊き方をする青年に、エミールは素直にうなずいた。それぐらいは、図書館で閲覧が許されていた。カエレスティス湖などから発掘された機械とそれを複製した機械や部品だ、と答えるエミールに、青年はやっと話が通じたと満足気だ。そうそう、と肯定して、話を続ける。


「アガシャじゃ、機械のマキナリーと鉄のアイアンウィエストを除いてそういった機械が発掘できる遺跡が無いんだ。で、アガシャ国内の機械とその部品は、ほとんどロザリアからの輸入に頼っているというわけだ」


 最近じゃアガシャの首都ガイアでも機械の複製が作れるようになったみたいだけどな、と付け加える。そうだったんだ、とひたすら感心するエミールに、青年はやっと本題を話し始めた。


「――で、ここからが重要だ。遺跡から発掘できる機械には限りがある。複製をつくるにしても、ロザリアには鉱山がほとんど無いから、アガシャから材料を輸入しなきゃならない。燃料も、だ。さらに、アガシャはロザリアから輸入するものが機械しか無いわけだが、ロザリアはアガシャから食料、衣料品、疫病の薬、嗜好品などありとあらゆるものを輸入している。両者の間で交わされる貿易の額は釣り合わない。これを放っておくとどうなると思う? 」


 青年に尋ねられ、エミールは少し考えたあとに口を開いた。


「うーん、アガシャから食料を買うお金が無くなってしまうのかな」


 まぁそんなところだ、と青年は若干めんどくさそうに言って、説明を続けた。

  

「ロザリア・アガシャ間貿易は、常にロザリアが赤字の状態だ。赤字は税で補填してるから、それだけ俺たちの生活が苦しくなる。赤字解消のため機械の値段を釣り上げたりもしてるが、そんなことばかりしているとアガシャの商人からの心象が悪くなってものを売ってもらえなくなっちまうんだな」


 そうなんだ、とエミールが呟いた。ここ数年増税が続いているのは知っていたが、首都暮らしの彼にとってそれは微々たるもので、目の前の青年のような首都以外で暮らす人々の苦労など全く初耳だった。いや、そもそも正しい外界の知識に触れる機会が無かったのだ。ただ、首都の外は恐ろしいところだという噂だけが降り積もる雪のように繰り返され、それがこごった、歪んだ認識が彼の外の世界に対する理解の根幹を成していた。

 この青年がこのような知識を身につけるに至った経緯はどんなものだろうと、ふと疑問を感じたエミールの前で、青年は何も気付かず話している。


「赤字貿易を続けるわけにはいかない、しかし機械の値段を上げ続けるのにも限度というものがある。この問題をなんとか解決しようとして、ロザリアはアガシャ有数の鉱山地帯に攻め込んだ。そしたら偶然飛空艇を見つけちまったんだよ。――で、何を勘違いしたのか、国の上層部は飛空艇さえあればアガシャ全土をロザリアの支配下に置けると思った。そしてさらなる飛空艇と動力源を発掘しようとして、カナン砂漠でアガシャの調査隊と衝突した……」


 抜けるような青空を仰ぎ、馬鹿だよなぁ、と青年は己の感情を漏らした。


「……まだ、戦をするような段階じゃなかったんだ。確かに飢饉で国は疲弊してた。だから上の連中は焦ったのかも知れない。でも、民が飢えているなら、一旦退いてまず先に英気を養うべきだったんだ。なんて言ったっけ、南方の小国からぶん捕った古文書にも書いてあったじゃないか」


 『腹が減っては戦ができぬ』だったかな、と、青年は空からエミールに視線を戻して苦笑した。それを見たエミールも曖昧な笑みを顔に浮かべる。確かに先の大戦に勝利はしたが、失ったものも多かった。手に入れた飛空艇を、争うためでなくもっと別のことに使ったら、飢饉から起こった一連の被害を少しでも食い止められたかもしれない。――だが、それらは全て過去のこと。


 俺はさ、と、青年が呟いた。


「俺は、今も思ってるよ。そんな時期じゃないって」


 風が吹いた。砂と錆を含んだ、乾いた熱風が。首都では浴びたことのない温度の塊が、片眉上げているエミールを包み込む。


「今戦わなかったら、国は滅んでしまうよ」


 熱砂が頬を掠めたが、エミールの眼には故郷の冷たい景色が浮かんでいた。動力源不足で雪解装置が動かせず、一面白銀に塗り替えられた世界。飢餓と貧困が足音高らかに近づいてくるあの感覚。まず外部の情報を伝える街の掲示板が撤去された。自由だった首都の出入りが制限された。次々と閲覧禁止指定される本、検閲される郵便物。閉鎖されたいちの横で、配給を受け取るためできた長いながい列。

 こんなに暖かい場所にいるのに、うなじを汗が伝っているのに、あの光景を思い出しただけで、エミールの心は凍えてしまいそうだった。戦う時期ではない? 英気を養う? 勝機が来るのを待っていたら、家族が住居を追い出され寒空の下に放り出されてしまう。この暖かい土地を手に入れたら、全ての心配は解消されるというのに。志願兵を募る政府の広告で、新兵訓練で、幾度も繰り返し刷り込まれた思想が、いつの間にか自分の願望と同化していることに、彼は気付かなかった。


 大真面目に返したエミールの一言を聞いて、青年は再び苦笑した。

 怪訝そうにエミールが眉根を寄せると、テントのほうから別の班員が青年と彼の名を呼ぶ声が聞こえた。見ると、班員達は革袋にいっぱいの銀貨銅貨を手にしている。俺たちもさっさと換金しようぜ、と、毒気の無い声で言われ、エミールは釣られてうなずきそうになった。が、あることを思い出して前に出しかけた足を引っ込めた。


 振り返って疑問符を浮かべる青年に、まだなぜ免許証が国境を越えても使えるのか聞いてない、とエミールが口を尖らせる。ああ、と申し訳なさそうに青年は頭を掻いた。


「だからさ、貿易赤字を埋めるために、停戦の条件としてロザリアがアガシャに機械免許制を押し付けたんだ。もちろん、免許を取るための試験料をふんだくるためにな」


 青年の言葉に、エミールは目を円くした。それってどれくらいの額なの、と尋ねる。さぁ……、と、青年は少し言い淀んだ。


「アガシャ人が第一種魔動機械操縦者免許証をとるための費用は、アガシャの一番小さな金貨二十枚くらいだったかな。農民にはちょっと出せない額だ。試験も厳しくて、落ちることもあるんだとよ。取引許可証は中判銀貨三十枚。これぐらいの金額なら出せるやつも多い。免許証なしで機械を操縦した場合の罰金は金貨二十枚、許可証なしで機械の売買をした場合の罰金も同上。免許・許可証取得者は、年に一度銀貨十枚を支払うことで証書の更新が行える――。これで巻き上げた金の二割はその都の統治者に、残りは全部ロザリアのものだ。でも全部でどんだけロザリアに金が行ってるかは、俺もよく知らないな」


 金貨銀貨と聞きなれない単語を聞いて、エミールはひたすら目をまるくして話に相槌をうつだけだった。紙幣に慣れている自分にとっては銀貨も相当価値があるような気がするが、ただ機械の取引許可を得るだけでそれが三十枚も必要だというのだ。手に握ったぺらぺらの免許証を一瞥して、エミールは新兵レクリエーションが終わったあとのことを思い出した。軍で使う作業服、軽武装一式、それに携帯食糧と一緒に渡された、機械操縦者免許証。ほんの数分の講義を受けて、試験もなしに受け取った。もちろん金など払わなかった。そんなものを、アガシャの人々は大金と時間を搾り取られた上でやっと受け取ることができるというのか。


 ふたたび目眩がしてきたエミールは頭を抑えながら、青年の後をついてゆき、機械部品を換金した。たった一本のネジが、革袋にはちきれそうなぐらいの銀貨と少しの金貨にかわる。ずっしりとした重量感に呆然としていると、青年が横で忠告した。


「アガシャの通貨は、王国外持ち出し禁止だ。残った金で機械部品買おうとしても半分以下の価値になっちまうから、それは今日中に使い切ったほうがいいぜ」


 親切に教えてくれた青年に、エミールはまた疑問を抱いた瞳を向けた。なんでと口にする間もなく、表情を読み取った青年が口を開く。たった一本のネジで一度にこんな大量の金属かねを国外に持ってかれちゃ、アガシャ王国も困るだろ、と。


「……そうかぁ……」


 片手に余るほどの大きさの財布をみつめ、エミールは納得した声を出した。確かに銀は機械の材料として重宝されている。純魔動機械の魔力漏出を防ぐ装甲や、伝導率がいいとかで、準魔動機械の配線などによく使われているのだ、と。中央図書館で友人が教えてくれた知識を、彼は思い出した。


 革袋から眼を上げると、他の班員たちも全員部品をアガシャの通貨に換金しおえていた。皆、ぱんぱんに膨らんだ財布を嬉しそうに持っている。なかには一つの財布では足りなくて、二つ三つと持っている者もいた。班長は、商人から何やら契約書のようなものを一枚受け取っている。あれは、と横にいる青年に尋ねると、契約手形だ、と答えが返ってきた。


「あの手形を持ってるやつが商人のところへ行くと、手形に書かれた金額を受け取ることができる。ありゃ相当貴重な部品を売ったんだろうなぁ。なんせ手形を発行するってのは、硬貨じゃ重くて持ちきれないってことだから」


 あれはきっと船にいる皆の食糧を買う金だろうなぁ、と、青年が予想を口に出しているのを聞いていると、通訳が班員たちを呼ぶ声が聞こえた。テント群のはし、煉瓦を積み上げただけの外壁が見える。


「はい皆さん、換金し終わりましたね? じゃあ次は東の市に行きますよ」


 野太い歓声が上がり、エミールの身に緊張が走った。東の市が立つ広場裏、二階建て廃墟にアガシャの時計で午後三時。盗聴した無線の内容が、記憶のなかを駆け巡る。顔色が悪いと青年に指摘され、エミールは緑が混じった青い目をきょろきょろと動かした。


「そ、そうかな。……僕にはここは少し暑すぎるみたいだ。喉が渇いてきたよ。――それに、買いたいものがあるんだ」


「買いたいもの? お、酒か? うまいのを教えてやるよ」

 

 嬉しそうに歯を見せる青年に、エミールは首を振ってみせた。時計が買いたいんだ、と、歩き出す班員たちについていきながら話す。それを聞いた青年は、怪訝そうに眉を寄せた。


「時計? たしかおまえさ、すげー高そうな金の懐中時計持ってただろ。ほら、妹から貰ったとか言って自慢してたやつ。あれはどうしたんだよ。まさかなくしちまったのか」


 違うちがう、と、エミールが首を振る。


「ちょっと異国情緒に浸りたいだけだよ」


 船を降りて、ロザリアの首都とは違う時を刻む時計を見てみたい、と、自分でも胡散臭いと感じる嘘を口からでまかせに言う。意外にも、青年は人の良さそうな顔で納得してしまった。たしかにそうだよな、とか、首都にいる妹へのいい土産にもなるな、とか返してくる。砂埃が舞い上がり、地面ばかり見ていたエミールは目を手で覆うと顔を上げた。まぶたを開いた先に広がる光景が目に飛び込んできて、思わず感嘆の声があがる。


「これが、機械のマキナリー――」


 見渡した街並みは、熱気と活気に満ち溢れていた。目で数えきれないくらい多くの行き交う人々。客寄せに張り上げた呼び声。所狭しと露店が並び、道には積み上げられた商品が色とりどりに輝いている。時折風にのって届く香辛料の食欲をそそる素晴らしい匂い。生まれてから今まで、これだけ沢山の色彩を一度に見たのは初めてだった。

 圧倒されて声すら失くしたエミールを、白亜の土壁が反射した陽光が照らしている。どこもかしこも光に満ちている。


 紗の上着を何枚も重ね着した町娘が、長い茶髪を風になびかせ目の前を通りすぎていった。瑞々しく張った象牙色の肌と艷やかな髪から、ふわりと甘い匂いが漂う。何か果物からつくった香水だろうか。脳髄を蕩かすような良い香りを振りまく少女は、ただ景色を眺めることしかできないエミールに向けて妖艶な笑みを浮かべて人ごみのなかへ去っていった。軽そうな木綿のスカートの縦にはいった切り込みから、一瞬だけ太腿が覗くのが見えた。鮮やかな花の刺青が、網膜に灼きつく。首都にいる妹のような儚げな美貌とは正反対の、生命力に溢れた魅力を目の当たりにして、つっ立っていることしかできなかったエミールの心中にも湧き上がる情動があった。――あったが、要するにただしばらくの間だらしなく口をあけて棒立ちしているだけだった。

 危ないぞ、と、青年に肩をゆすられてようやく我に返るも、道を譲った相手を見上げてまた固まってしまう。


 眩しい日光を浴びて、搭乗型の準魔動機械が道を闊歩していた。その肩に人間には到底持ち上げられない丸太を担ぎ、その両端に魚がいっぱいに入った水槽をくくりつけている。頭上を通る水槽を見上げていると、魚が暴れて飛沫が上がった。頬に雫があたり、火照った肌の上ですぐ蒸発してひんやりと心地よかった。

 魚を担いだ機械が通り過ぎると、今度は木材を満載した機械が近づいてくる。その後ろにもまだまだ多くの機械たちがやってくるのをみて、青年がエミールの手を引いた。


「ほら行くぞ。列が途切れてるうちに通らないと、班長たちとはぐれるから」


「う、うん――」


 機械と人の波が切れた瞬間を狙って、通りへ突っ込んでいく青年。それに引っ張られるエミールは、通りを横切りながら近くを過ぎる準魔動機械に目を奪われていた。決して、ロザリアのものより精巧だとか意匠が美しいとかだからでは無い。灼熱の陽光を浴びて輝く彼らが、ロザリアのそれとあまりに違いすぎて絶句していたからだ。曇天の下、鈍い日光に照らされ凍てつく躯体を動かす機械と比べ、砂塵にまみれ錆に汚れ、朱く熱された彼らは、まさに人の手によって生命を与えられた創造物だった。


――こうも、こうも違うものなのか……。ただ山脈を越えただけなのに……。


 見せつけられた繁栄に、圧倒された。


 視線を縫い付けられたように機械の行列を見送ったエミールは、彼らが群衆の中へ姿を消して、やっと前を向くことができた。目にした光景に、エミールはもう驚かなかった。東の市。そこかしこに露店が広がり、開けた空には色鮮やかな旗が何本もはためいている。むっと鼻をつく人のにおいと熱気。突き刺す陽射しの中で、人々は目まぐるしい経済活動を続けていた。売り買いされる様々な物品と、硬貨の勢いよく触れ合う音が賑やかなざわめきを作っている。その様子はあまりにも、対照的すぎた。


 エミールの網膜に、目の前の喧騒ではなく寒々しい故郷の映像が表象として投影される。色の少ない世界、凍える吹雪、身を寄せ合う家族たち。

 ふと、金髪碧眼の家族の上に、街壁の外で見た貧しい親子の姿が重なった。茶髪に茶色い瞳の彼女たちは、姿かたちこそ違うものの、完全に同じ印象をもって記憶と重合していた。


――ああ、――


 胸に感じた疼痛の正体を悟って、エミールは一人晴天を仰いだ。ちくちくと刺すような痛みは消えたが、今度は沁みるような絶望感が彼を襲った。


「おーいエミール、こっちに時計を売ってる出店があるぞー」


 いつの間に離れていたのか、人ごみの隙間から青年が名を呼んで手を振った。ふらつく足取りで近寄るエミールに、青年は冷たい飲み物を渡して目的の店を指す。


「ちょうど日陰だ。おまえも少し疲れてるみたいだし、時計をみるついでに冷たいものでも飲んで休憩してこうぜ。あ、班長とはさっき話したんだけど、十五時までは市の中なら自由に行動していいってさ」


 雰囲気に呑まれているのか、気のいい青年は上機嫌だった。少年のように好奇心に溢れた眼差しで品物をみている青年の横で、エミールはじっと器に入った飲み物をみつめている。どうした? と軽い調子で尋ねる青年に、エミールは青白い唇を開いた。


「……僕は、恵まれていた――」


「ん? なんだって? 」


 怪訝な顔をしてききかえす青年に、エミールはしばらく沈黙した後、話を続けた。


「アガシャは、いや、ここマキナリーは、こんなに栄えているのに、食べ物もそれ以外の品物も溢れているのに――それでも街壁の外には廃墟が広がっていて、飢えに苦しんでる人たちが居た……。これだけ豊かであっても、その恩恵は全ての人には行き渡らない――むしろ、一部の人間は自分で使い切れないぐらいの富を独占している――」


 マキナリーですら、アガシャですらそうなのなら、ロザリアは。


 器を持つ手が震えていた。首都で何不自由ない生活を送っていた、何も知らなかった自分に恥じているため、自分よりもっと過酷な境遇を経験してきた仲間に申し訳がないと思ったため。その両方もあったが、それだけではなかった。活気に満ちた異国の地で目の当たりにした貧富の差は、エミールの心の中で肥大した甘い幻想を打ち砕くには十分だった。


――軍部が富を掌握するから困窮が広がったと思っていた――だが実際は――科学省が実権を握ったとして、果たして本当に適正な富の分配が行われるのだろうか? 上層部の首をすげ替えるだけでは解決できない、もっと深部に、問題を生む病巣があるのでは――


 太陽に背き思案するエミールの手が、音もなくひとつの時計を指した。拙い通訳で彼の売買の代行をしている青年は、横からエミールが消えたことに気付かなかった。後ろめたい気持ちに駆られながらも、振り返ることなくエミールは市の中を縫うように歩く。


 どこにも楽園などありはしない。アガシャを落とせばロザリアの民全てが救われるなど、戯言でしかない。でも、それでは弱者はどうすればいいのだ?自問自答の果てに核心めいたものがちらりと見えたが、ただの一個人でしかないエミールには、直視する勇気がなかった。悶々とした気持ちを抱え、故郷にいる家族のことにだけ意識を集中すると、エミールは目的の場所に身を隠した。東の市の裏に立つ廃墟、その崩れかけた裏口のかげに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ