第十七話 夜霧
満天の星空の下、朽ちかけた長屋が並ぶ貧困街のはずれ。ぬるい風が錆と埃を巻き上げる、むせる空間で、バートは襟元の通信器をいじっていた。斜め後ろには、機械宮からここまで乗ってきた馬車が停まっている。そしてさらに近くには、自分を監視する男性の姿が。
「……厄介なことになっちまったぜ」
鼻にしわを寄せ、舌打ちをする。背後に立つ男性にこれから通信する内容を聞かれないよう、バートは一応距離をとった。男性はそれを生気の無い目でみているが、その場から動く気配はない。このまま逃げてやろうか、という考えがバートの頭を過ぎったが、男性に弾倉回転式銃を取り上げられていることを思い出すと、踏みとどまった。じゅうぶんに距離が開いたところで、今にも倒れそうな木造の建物に寄りかかり、通信器の電源を入れる。僅かな雑音の後、聞き慣れた女性の声がした。
『――こちらミランダ』
「あ、俺だよ。バートだ」
名乗った声に応えてこちらも名を告げる。通信器のむこうにいる女性が、数秒の沈黙の後、言葉を返してきた。
『連絡が取れてなによりだわ。通信ができなかったから、また捕まったかと……』
「あー、すまん……。まさに今その状況なんだ」
額にかかる金髪を無造作にぐしゃぐしゃとかきあげる。機械のむこうで、ミランダが絶句していることを知らせる静かな雑音が流れる。が、すぐに気を取り直したのだろう。軽い咳払いが聞こえ、続けてある質問がバートに投げかけられた。
『今、どこにいるの? 機械宮の監獄の中かしら? もう一度ウィルをそっちに向かわせることもできるわよ』
ミランダの憶測を、いや、とバートが否定する。スラムにいる、と伝えると、意外そうな声が聞こえた。
『結構近いじゃない。それに馬の鳴き声や犬の遠吠えがクリアに聞こえるわ。もしかして外に繋がれてるの? だったら自力で脱出してこれるわね』
少し突き放したような言い方に、バートは襟元を緩めつつ顔をしかめた。公爵から監視がつけられてんだよ……、と溜息と共に口にする。
「それに武器も取り上げられちまった。――そのうえ、『右心の道標』は奪還できたんだが、機能停止してやがるし。『意思を持つ壁』が俺たち以外のやつと契約しちまって――」
洗いざらい正直に話し終えると、すまない、とバートは目を閉じた。ミランダはというと、呆れて声も出ないのか、只々沈黙している。しばらく双方無言で虫の音や犬の鳴き声だけが夜空に響いていた。ええと、と、ミランダが少々言い淀みながら口を開く。
『よろしければ、どうしてそんな窮状に陥ったのか、教えていただけるかしら? 』
とってつけたような慇懃な問い。それを聞いたバートが不機嫌そうな半目で星瞬く空を仰ぎ、口角を下げて低い声を出す。
「どうしてって――あいつのせいだよ! おまえから『右心の道標』を盗んだガキのせい! 」
うんざりした口調で内心に溜まった不満を吐き出すと、通信器から、ミランダがはっと息を飲む音がした。今までのような呆れたための沈黙ではなく、期待がこもった吐息の漏れる音も聞こえる。
『ジフト=クレイバー……。やっぱりあの子が関わってきたわね』
「あ? 何で名前知ってんだ? 」
考え事をしつつ呟くミランダに、バートがやや乱暴に質問を投げかけた。今日一日無駄に骨を折った疲労と、虫の居所が悪いことが相まって、すっかり地が出てしまっている。が、ミランダにとっては日常茶飯事らしく、態度に反応することもなかった。調べたのよ、と淡白な調子でバートの疑問に答えている。色々とね、と続き、さらに紙の擦れる音。どうやら卓上に広げた資料を読んでいるらしい。そこに書かれているものが件の少年のことだろうと想像して、バートはますます声音を低くした。
「……随分あのクソガキにご執心じゃねぇか」
『バートこそ、あの子のことになるとやけに突っかかるわね。妬いてるの? 』
反対に明るい声を出して、ミランダがくすくすと茶化してくる。それを聞いたバートの中で今日ずっと我慢してきた忍耐の糸がぷつんと切れた。通信器が音を拾いやすくするため緩めた襟を握る手に力が入り、機械の向こうのミランダに吠える。
「断じて違うッ! 俺はなぁ――昨日から今の今まで、散々あのガキと不愉快な仲間に振り回されてイラついてんだよォ! あいつが『壁』と契約してなけりゃあ、とっくにコメカミ撃ち抜いて、冥王に地獄で再教育してくれるよう頼んでたところだよ! 」
途中で力みすぎて裏返ったのか、甲高い声に通信器が耳障りな音をたてた。すぐに背後で人が動く気配がして、バートが振り返る。旋棍を構えた監視役の男性と視線がかち合った。武器は構えているものの、様子をうかがっているだけのようだ。相変わらず感情の読めない監視役の目をしばし観察したバートが顔をしかめ、悪態をつく。
相槌も打たず黙って聞いていたミランダが、そこに人がいるのね、と確認した。バートが近くにいる男性を横目で見る。
「ああ。だけど距離はとってるから、内容はわからないと思うぜ。なにより、俺たちの言葉を普通のアガシャ人は理解できないだろ」
母国語で話してるんだから、と、バートが付け加えた。機械の向こうで、ミランダが声を一段ひそめてこたえる。
「リオナードがつけた監視役、と言ったわね。あの男は先代の公爵とは違うわ。配下の者にもロザリア語を覚えさせて、街中に潜ませていたほどですもの。アンタの隣にいる男だって、アタシたちの話してることを訳して紙に書きとっているかもしれないわ」
うぐ、と、バートが声を詰まらせた。つい昨日、下町の市で情報提供者と接触しているときに、警吏がすぐ駆けつけたことを思い出したからだ。ミランダの話が本当だとすれば、追手の登場があまりに早すぎたのにも、合点がいく。冷や汗の出てきた額をぬぐい、バートは生唾を飲み込んだ。
「……すまん、ミランダ。俺、今――」
知られてはまずい情報を喋ってしまった、と言おうとしたが、ミランダがそれをとめた。
「いいのよ、これで。むしろ交渉役を立てる手間が省けたわ」
通信器の向こうから聞こえてきた台詞に、バートは我が耳を疑った。何だって? と聞き返すと、ミランダの口からさらに信じがたい言葉が告げられる。
「今日の昼頃、飛空戦艦ヴィースの艦長がロザリア軍上層部の意向を伝えに来たわ。そのとき、ロザリア軍の小型艇がアタシたち空賊の船になんの障害もなく乗り付ける様子を、公爵の放った諜報員は見ていた。軍の小型艇が船を離れたあとすぐに、無線が入ったの。公爵の側近からね。これは侵略行為だ、すぐに国境付近から撤退しなければ、共和国調停委員会に介入の要請をしたうえで、こちらも迎撃体制に入る、って」
額を抑えたまま、バートは無様にも大口を開けて絶句していた。何故そんな失態を、と、やっとのことで喉から声を絞り出す。
「事を荒立てるなって、ミランダ、おまえ自身が散々言ってたじゃないか。……おい、まさか」
数瞬の思案の後、彼女がある計略をめぐらせたことに気づいたバートが苦い表情で向こう側にいる空賊頭領の名前を呼んだ。途中で声音を低くするバートの耳に、ミランダがくすっと笑う声が聞こえる。それを聞いて推測が真実だと確信したバートが、金色の頭を抱えて唸る。
「どうして、どーしておまえはいっつも無謀なことばっかりするんだよ! それも何の相談も無しに! クルーの命が懸かってんだぞ、ちゃんとわかってんのか? 下手したら公爵とロザリア軍の両方から挟み撃ちにされちまうぞ。そんなことになったら――」
失敗したことなんてないでしょう? と、ミランダが楽しそうに鈴を転がすような声でのたまった。抱えた頭を左右に振ってうめいていたバートが、文句を途中で遮られてがっくりと肩を落としている。そーいう問題じゃない、と犬歯あらわに、わずかばかりの反抗をしてみせた。また小言を吐こうと息を吸うが、それさえミランダの声で止められてしまう。
『続きを聞いて、バート。日没してすぐ、今度は公爵本人から連絡があったの。なんて言ってきたと思う? 』
まるで酔っ払って正気を失ってしまったように、快楽愉悦の極みとミランダが笑い混じりの問いをバートに投げ掛ける。おそらく明るい飛空艇司令室の中に居るミランダとは対極な、暗く、さらに肌寒くなってきた貧困街のぼろ屋の軒下にいるバートは額を抑えていた手で血の気が引いた顔を撫でおろした。おまえがそんなに上機嫌ってことは、そういうことだろ、と、もう毒を吐く気力すらなくなっている。ええ、そうよ、と、ミランダが楽しそうに返した。
『思惑通り、リオナードは取引を持ちかけてきたわ。アタシたち『双頭の黄金竜』がマキナリー側につくなら、公爵が今持っている、アガシャの財宝に関する情報を全て共有してもいい、ですって』
「……ふん、それっぽっちかよ。俺達もみくびられたもんだな」
ぼそりと呟いたバートのひとりごとを、ミランダは聞き逃さなかった。もちろんこのままじゃ条件を呑む気はないわ、と若干落ち着いた様子で付け加える。何を要求するつもりなんだ? と、バートが通信器越しに尋ねた。右手が拳銃嚢に伸び、そこに何もないことを思い出して舌打ちする。とりあえず手だけでもいつものように、虚空に振り上げて、存在しない銃をくるくる回す仕草をした。
「まぁ細かいことはいいや。俺は愛しのハイウィンドがこの手の中に帰って来れば満足だ」
天を仰いでぼやくバート。それも要求に入れておくわ、とミランダが言う。とにかく、とさらに続けた。
『一つ二つ条件を追加したいと言ったら、公爵は交渉の場所と時間を提示してきたのよ。場所は東の市が立つ広場裏の、二階建て廃墟。時間は明日、アガシャの時計で午後三時。そこでバート、頼みたいことが二つあるの』
随分と急じゃねぇか、とバートが眉を顰める。
「ミランダ、これはどう考えても罠だ。なにせ用意周到すぎる。さっき交渉役、って言ってたから、俺にその場へ行って欲しいんだろーが、冗談じゃない。縄がぶら下がってる死刑場に自分からのこのこ歩いていくなんざごめんだ。こういうのは撃たれても死なないウィルに任せろよ」
苦々しげな表情で断ろうとするバートの耳に、ウィルも廃墟に向かわせるわよ、と聞こえた。そして、アタシも行くんだけどね、とも。思わず目を剥くバート。しかし音声だけ伝える機械の向こうにいるミランダにはそれがわかるはずもない。本気で言ってんのか、と、どもりながら尋ねるぐらいしか動揺を伝える手段が無かった。肯定の声がする。
「軍の飛空戦艦が小型艇で行き来できる距離にいるんだろッ。おまえが船を降りてる間に背後から攻め込まれたらどうするつもりなんだ! 」
一寸は考えろ、と眼帯に爪を立ててがりがりと掻きむしっている。ミランダはというと、まるで他人ごとのように聞き流している。てこでも動かないと悟ったのか、せめて保険としてウィルを残していくことにしよう、とバートが言う。しかしながら提案は悲しいことに却下された。
『だめよ。それじゃうまくいかない』
「……なにが上手くいかないって」
海溝の底へ沈んで行きそうな低い声音で、バートがオウム返しに問う。鈴を転がすような笑い声の後、ひと呼吸おいて、ミランダが作り物の甘ったるい声を通信器越しに吹き込んだ。
『機械に夢中な男の子を一人、アタシたちの仲間に加えることよ』
再び、沈黙が二つの空間をつなぐ。絶句して虚空を仰いでいるバートの耳に、細い鎖状の金属が触れ合う音が聞こえた。出処はもちろん、通信器からだ。これが役に立つときがついに来たみたいね、と空賊頭領が感慨深そうに独り言を口にする。それが何の音か気づいたバートが、右目の下瞼に皺をつくった。遺物の力で誘惑する気か、とやや冷静を取り戻した声が出る。これも肯定する頭領に、バートは上手くいかないと思うぜ、と率直な意見を述べた。青い目の視軸は小汚い長屋の裏に固定されている。
『あら、どうして? 昨日、街で財布をすられたとき、あの子どうみてもこの遺物の虜になってたじゃない。こっちにはウィルだっているんだし』
疑問符を飛ばすミランダの台詞を、ふん、とバートは相槌だかなんだかわからない声で止めた。片方しかない目に、長屋の裏で誰か知らない少女を抱きしめているジフトの姿が映し出されている。マセガキめ……、と音にはせず口だけ動かしてバートが毒づく。
「あのガキ、女がいるんだよ。しかも他の女にも手ぇ出してたな。一日後をつけてたが相当の誑しだぞ、あれ。それも無自覚なやつ。遺物の力に惹かれてたとしても、あいつを意のままに操るのは難しいだろう」
あらそう、と特に驚いた様子もなく返すミランダ。それに、と、バートが眉間の皺を深くする。引っかかってることがあるんだ、と。
「リオナード=セシル、か……。おまえの言うとおり、奴がぼんくら領主じゃないってのは理解した。でもな、それだけじゃねぇんだよ。あいつは――何かが、決定的に他の人間と違ってる。おまえはリオナードを手玉に取るつもりらしいが、逆に足元すくわれないように気をつけろよ」
妙に歯切れの悪い口調で、バートが忠告した。何かって何よ、と、ミランダは笑い混じりに尋ねている。どうも本気と受け取っていないようだった。合流したら詳しく話す、と、横目で監視の様子をうかがいながらバートが答えた。その言葉に短く相槌をうって、ミランダが話を締めくくる。
『わかったわ。それじゃ最後に、さっき頼みたかったことを二つ言うわね。一つ目は、明日の交渉の場にジフト=クレイバーを連れてくること。そして二つ目、明日の交渉以降も、機械宮に留まってアタシと公爵の交渉を仲介すること。……お願いしても、いいかしら? 』
要望だけを明確に伝えた後、少し間を置いて甘えた声を出す。そんなミランダの問い掛けに、バートは渋々しい顔で仕方なく了承するしかなかった。その旨を伝えると、ミランダの声が一転して明るくなる。軽い調子でありがとうと言うと、機械のむこうの女空賊はさっさと通信を切ってしまった。態度の変わりようにバートが苦言を呈するより、ほんの一瞬はやい行動だった。無意味な雑音が襟元についた通信器から流れる。
しばらく呆れて声も出なかったバートの耳に、長屋裏からジフトたちが馬車へ向かってくる足音が聞こえた。あわてて首周りを元に戻し自分も帰ろうとする。と、こちらをじっと監視していた公爵の部下が一歩寄ってきた。警戒して半歩間を開くバートの前に、すっと手のひらが向けられる。
「いえ、あなたを攻撃しようとしているのではありません。――先ほどの話、すべて聞かせていただきました」
やっぱりか、と、落胆して項垂れるバート。そんなことはお構いなしと、男はさらに近寄った。さっきまで旋棒を構えていた手には、青い躯体の弾倉回転式銃が握られている。怪訝そうな顔をするバートへ、それが差し出された。意図を察しきれず眉根を寄せて、バートが男の顔を見る。夜だから当たり前なのだが、全く光の無い目をした男は、バートに銃を握らせると身を退けた。
「双頭の黄金竜頭領ミランダの意思によると、あなた方はいまのところ、セシル様に友好的でないにしろ敵対するつもりはないようなので。わたしはこれから任務があるため、あなた方と馬車に乗って機械宮に帰ることができません。この銃はお返しします。もしも機械宮へ戻る途中、何者かに襲われるようなことがあったら、あなたに子ども達を守っていただきたい」
返してもらったハイウィンドを見つめていたバートが、視線を上げて男に向けた。その顔には相手を小馬鹿にした気味の悪い笑みが張り付いている。
「おいおい、さっき話を全部聞いたんじゃなかったのか? 俺がミランダに頼まれたのはジフトっていうガキだけだ。他の奴らを護衛する義理なんか無ぇよ。――そうだな、泣き喚いたりしてうるさいようなら、この銃で撃ち殺しちまうかもしれないなぁ」
口の端を片方だけ上げて、くくくと愉快そうな忍び笑いが漏れた。相手がどう出るか無遠慮に探っているバートの前で、しかし、男は表情を変えず微動だにしない。ただ、機械で測ったように一定の呼吸を続けるその口が、あなたは無闇にあの子たちを撃ったりはしないでしょう、と言った。出てきた言葉が意外だったのか、バートが金色の眉を上げて口角を下げる。どうだか、と突っぱねようとすると、公爵の部下はさらに根拠を続けた。
「あなたが悪戯に人を殺すような輩でしたら、あの子たちは機械宮の地下でとっくに殺されていたでしょう。いいえ、それでなくても、傷の一つも負っていなければおかしいのです。空賊のあなたから見て、あの子たちは秘密を知ってしまった邪魔者以外の何者でもないでしょう。口封じをするなら、死体を闇に葬るなら、機械宮の地下は絶好の場所だったはずです。それなのにあなたは何もしなかった。その後あなた方の前に現れたセシル様には、すぐ発砲したのに」
指摘されて、バートは言葉に詰まった。確かに『考えた』のだ。機械宮の地下で護衛機械に追われているとき、ジフト達の足を撃って機械をひきつける囮とし、その隙に逃げようと。一番最初に護衛機械に接触したときこそ、子どもたちのほうが先に逃げ出したものの、あの時点でのバートの脚力なら彼らを追い越して先程の考えを実行するには十分なはずだった。しかし、それを実行に移すことは『できなかった』。
静寂が、場を支配する。
おおい、と、遠くから呼び声が聞こえた。御者だ。ジフトとその連れの少女が馬車に乗ったので、公爵の部下とバートを呼んでいるのだ。月は、もう真上まで迫っていた。
反論しないのを同調と受け取ったのか、公爵の部下は左踵に重心を移動して九十度身をよじり、バートに道を譲った。風が吹いた。冷たい風だ。国境付近にある、ロザリアとアガシャを隔てる自然が造った巨大な山脈から降りてくる、冷気の塊だ。空気に含まれる湿気が、機械の都を漂う錆と埃を核にして凝る。宵闇の中現れた夜霧が風と共に押し寄せ、バートの身体を包んだ。黒い天地を灰色の靄が覆うさまに、男は表情を険しくして目を細くする。霧が出てきましたね、と、口から出た声音は硬かった。
「これ以上視界が悪くなる前に、機械宮へお戻りください」
表情こそ変わらぬものの、男は緊張しているようだった。その姿を、夜霧のなか浮かぶ、ぎらついた青い点が凝視している。怪訝そうな顔でバートを馬車へ促す公爵の部下へ、地の底から響くような低い声が問いを投げた。
「一つだけ訊きてぇことがあるんだが……俺があのガキどもを『撃たない』と判断したのは、おまえか? それともあのいけすかない公爵様とやらなのか? 」
絡みつくような口調の問いに、男はかすかに眉を動かした。
「――何故、そのようなことをお尋ねになるのです」
「警戒するべき人数がどれくらいなのか、知りたいだけだ」
慎重に問い返す男へ、バートは乱暴に答えた。風が吹く。霧に押されるように一歩、進む。間合いを詰められた公爵の部下は、ただ静かに一礼して答えなかった。夜霧に飲み込まれ輪郭がぼやけていく男の隣を、バートは横目で睨みながら通り過ぎていく。
「……名前は」
真横にまで進んだとき、バートの足が止まり、その口から短い問いが投げられた。ヌワジと申します、と、男は軽く会釈しつつ答えた。男の返した名を聞いて、覚えといてやる、と不遜な台詞が霧の中から放たれる。触感を覚えるほど濃くなる霧に押され歩き出すロザリアの青年の背中へ一礼し、公爵の部下は旋棒を再び構えた。
バートの視線が馬車に移る。男の姿が灰色の闇に完全に溶け込んだそのとき、何かが空を切る音がした。鋭く短い音の後、鈍くこもった音が。二つの音を皮切りに夜霧の中を正体不明のものたちが暗躍する気配を察して、バートは走り出した。一度も振り返らなかった。
「……」
受信機から聞こえてきた会話を聞いて、青年は硬直していた。ただでさえ白い顔は、いまや蒼白になっている。怖れと驚きで見開いた目は、青に少し緑が混じっている。
青年が居る場所は、ロザリア空軍所属飛空戦艦ヴィースの、将校用居室だった。一人の将校に対し一つの居室と定められているその部屋は、今、二人の人間を内部に抱えている。一人は蒼い顔で頬を痙攣させている青年。そしてもう一人は、ここの主であり彼の上官である男だった。二人は、軍の備品にしては贅沢な装飾が施された机を挟み、同じような装飾の椅子に腰掛けていた。どれも戦艦内部の一将校の部屋に置くには、不釣り合いなものである。
気絶でもしそうな顔色の青年を前に、彼の上官はいたって平静だった。陶器製のカップになみなみ注がれた茶色の液体を、実に優雅な仕草で口元に運び、中身を飲んでいる。非の打ち所がない、定められた礼儀作法そのままの動きだった。液体が喉を通っていくさまに、あちら側へいきそうだった青年の視線がだんだん定まってくる。やっと落ち着いてきた青年は、体に溜まった恐怖を吐き出すように長々と溜息をついた。拳を握った下の膝あたりの、制服の色が汗で変わっている。
「――こ、これは……」
最初に口を開いたのは青年のほうだった。彼からみて正面からやや右にずれた場所に掛けていた上官が、カップを置いて青年に注目する。硝子のような目だった。感情の無い瞳を直視できず、顔をそむけて青年が続ける。
「これは重大な軍規違反です! 今すぐ本営に報告しないと――! 」
血の気がひいた次は滝のような汗をかき、青年が立ち上がろうとした。それを上官が制止する。
「上に伝えるな」
「何言ってるんですか? 気でも狂ったんですか! 放っておいたらどんな惨事になるか知れませんよ! 下手すれば今回の作戦だって――」
上官の一言に神経を逆撫でされたらしく、青年は血走った目を見開いて食ってかかった。が、無表情な上官が静かにしろと仕草であらわすのを見て声量をしぼった。それでも納得がいかず、眉間に深い皺を刻んで両の拳を握ったり開いたりしている。掛けたまえ、と、改めて椅子をすすめられ、青年は渋々浮いていた腰を下ろした。未曾有の事態を知りながらもどうにもできないせいで憤っているのか、青年はいかり肩になっている。それを目にしてもなお、眉一つ動かさず、上官はもう一口カップから液体を飲んだ。
作法通りの動きでカップを皿の上に戻す上官を眺め、青年が嫌味をつぶやく。
「軍と科学省ってのは、ずいぶんと仲が悪いんですね」
出来うる限りの怒りの面相をしてみせるけれど、汗で髪がはりついているし唇も血の気が戻っていなくて情けなさが拭えない。『双頭の黄金竜』がマキナリー側につこうとしているのに、と、批難の色を隠せずに青年が言う。ああその通りだ、と、上官は全く悪びれもせず彫刻のような容貌のまま答えた。本来ならば協力こそすれ、いがみ合うべきではないのだがな、とも。だったら、と青年が食い下がる。
「権力争いなんてくだらないことはやめましょうよ。十四年前の飢饉からここまで、いったいどれだけの市民が食料を得られず死んだと思ってるんです? ロザリアから近くて土地も肥沃なマキナリーを植民地化すれば、軍と首都以外にも食べ物が行き渡る。飢えずにすむんですよ。これ以上死人を出さなくて、済むんですよ――! 」
青年はいつのまにか椅子の肘掛を握っていた。それほど熱くなっていたのだ。青白かった頬は今や紅潮していた。そして今度はマキナリーの民が飢える、と、上官は表情を崩さず呟いた。暗い炎を灯していた青年の青緑の瞳が、上官からそれて床へ向く。
「……アガシャはマキナリー以外にも農業が盛んな土地があるでしょう」
ウィンドとかライトとか、と名前を挙げる青年の口調が弱々しくなっていった。どこもマキナリーから遠い土地だった。当然、上官からも指摘が入る。
「それらの土地はアガシャの首都ガイアを養うための場所だ。国の最果て、しかも人口が首都並みのマキナリーを養うための余力はない」
「――それでも! 今回の作戦でマキナリーを手に入れなければ――。ロザリアはもはや一刻の猶予も無い状態でしょう」
自分の口で言っておいて、青年は項垂れた。そういえば、と、上官が青年に尋ねる。
「おまえは首都に家族がいるんだったな。たしか、姉と妹が一人ずつと、年老いた親か」
これだけ青年が喚いても会話の主導権は上官にあるようだった。切り替わった話を聞いて、青年の手がわずかに痙攣した。頷く青年に、彼女たちも緑が入った目なのか、と疑問をなげかける上官。その質問を、青年は曖昧に首を振って答えた。
「母と姉は見事な金髪に混じりけのない青い目です。でも、――でも妹は」
僕と同じ緑がかった青い目だ、と、青年は両手で顔を覆って呻いた。震えを殺そうとする青年へ、あと四半月か、と上官が無感動に言った。残酷な言葉に、青年は左手を下ろす。まだ顔半分が隠れたまま、青年は苦しそうな声でそれを否定した。
「兵役のために男子を提供した家庭は、色素検査の猶予が与えられるんです。……でもそれも、あと二ヶ月で終わりだ。それまでにマキナリー陥落が叶わなかったら……」
金髪青目でない者は首都を追放される、か。視線を青年から空中へ動かして、上官はそう追い打ちをかけた。息を詰まらせた青年が、耐え切れなくなって立ち上がった。
「こ――こんなのっておかしいですよ! 首都を一歩出たら、荒地しかない。盗賊に狼が跋扈してる世界だ。そんなところに身一つで放り出されて、生きていけるわけがない! それなのに、髪が金じゃないから、目が青でないから、そばかすがあるから――たったそれだけの理由で、どうして住む家を追い出されなきゃならないんですか! 」
溜まりに溜まった心情を吐露する青年を、上官は黙って見ていた。まばたきすらしない上官の青い目にみつめられ、青年は己の口を拳で押さえた。また蒼白になって唇を噛む青年に、上官の姿をしたものは語りかける。
「なあ、エミール。おまえの言うとおりだ。この国は狂っている。そんな無茶苦茶な理由をつけて首都の人口を減らさなければならないほど窮地に陥っているんだ。しかし上の連中は何をした? 食料を自国でまかなえるように農業政策をすすめたか? ……そんなことは一切しなかった。それどころか、食料の輸入元であるアガシャに対して戦争をふっかけた。国民が飢餓に苦しむなかで、兵士と技術者が血反吐をはきながらやっと手にした勝利を、アガシャから奪った富を、中央の人間は独占して民に分け与えなかった。――エミール、よく考えろ。マキナリーを陥落できたとして、あんな非道な働きをする連中の下で、民に富が行き渡ると思うか? 」
急に饒舌になり、しかし表情は相変わらず彫刻のように微動だにしない上官を、青年は血の気の引いた顔で見下ろした。わなわなと震える唇から、やっとのことで言葉を紡ぎ出す。
「あ、あなたのやろうとしていることは、は、反逆だ」
エミール、と、諭すように上官が青年の名を呼んだ。
「これはわたしだけの見解ではない。おまえだってロザリアの在り方には疑問を抱いてる、そうだろう? 」
呼ばれた青年は、上官の姿をしたものから遠ざかるために後退りした。見すくめられてそらせない視線はそのまま、何度もなんども首を横に振る。背後の空間をまさぐっていた手が取手に触れ、青年は一瞬で身を翻した。戸を開けようとする青年の背中へ、上官の言葉が降りかかる。
「そういえば、おまえの父親はどうしているんだ? 」
震える手で戸を開けようと躍起になっていた青年が、動きをとめた。長いながい沈黙の後、かすれた声で答えが返った。
「先の戦争で、死にました」
扉をみつめる青年の耳に、上官が小さく息を吐く音が聞こえた。
「――何故、おまえは軍に志願した」
押し殺した声だった。短い問い掛けの真意を理解して、青年は取手から手を離した。かわりに、震える拳を戸に押し付ける。額をその上にあずけると、青年は聞き取れないほどの声で、全部分かってたんですね、と呟いた。乾いた笑いが聞こえた。それは、青年の喉から出ていた。笑い声はやがて嗚咽にかわり、沈黙へと変化し、最後に青年は上官へ尋ねた。
「……教えてください。僕があなたに協力して、あなたの計画が成功したとき、妹は助かるのでしょうか」
僅かな静寂があった。
「それはわたしには分からないことだ。しかし、これだけは言える。終焉へ向かって歩く民の苦痛を減らし、絶望から救うことはできる。……その中におまえの妹がいることを、願っているよ」
上官の言葉を、青年は黙って聴いていた。背を向けたままの青年へ、上官が指示を下す。
「明日は、部隊の食料と消耗品を調達する仕事があったな。おまえはそれに紛れてミランダ達のところへ行って、公爵とミランダ間の取引内容を探ってくるんだ。――頼んだぞ」
念を押す声に、青年は背中越しにかすかに頷いた。しかしそれ以上振り返ることはせず、橙がかった金髪を揺らして、青年は部屋を出て行った。