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第十六話 反転

 夕暮れの橙色が夜の群青とまざりはじめた空の下。たくさんの馬がひづめと鼻を鳴らす音が聞こえる。干し草と獣の匂いが混じる機械宮の馬場で、シュウはアールと共にジフトの帰りを待っていた。彼らのすぐ横には、シュウが普段使っているものとは別の、六人乗りの古い大きな馬車が出立の準備を終えて待機している。空賊の青年は、さきに搭乗していた。

 もうすぐ日が落ちそうなのをみて、シュウはふところから金の鎖がついた懐中時計を出して時刻を確認した。針をみつめるシュウの耳に、ゆっくりと歩く足音が聞こえる。眼を上げるよりはやく、隣にいたアールが、やってきた人物の名前を嬉しそうに呼んだ。


「ジフト――」


 呼ばれた本人も俯いていたようで、はっとした様子でこちらへ駆けてきた。


「ごめん、待った? 」


「馬車の準備に手間取ってたし、それほどでも。ただ、月が昇りきるまでには帰らなきゃいけないから、そう寄り道はできないよ」


「寄り道っていうか――俺の住んでる長屋に戻りたいんだけど、いい? 機械宮に連れてきたい奴がいるんだ」


「いいけど、それなら尚更急がなくちゃ。ほら、はやくはやく」


 頭を掻いてあやまるジフトと、すぐにその隣へ移動したアールを、シュウが急かす。全員が乗り終えると、馬車は静かに動き出した。三人掛けの席が二列、縦に向かい合っている車内をジフトが見回す。進行方向からみて右側にジフトとアール、左側にシュウとバート、そして男性が一人座るかたちになった。口角を下げていかにも不満そうな顔をしたバートの隣に、見たことのない男性が一人座っている。いったい誰なのかと、ジフトが向かい側に座るシュウに尋ねると、セシル公爵がつけてくれた護衛だ、と返答された。


「ぼくたちだけだと危ないから、だって」


 何が、とは明言しないものの、敵意を含んだ視線がバートへ向けられる。それを受け止めたバートが顔を顰め、前面の窓へ体ごと捩って悪態を吐く。眉をひそめるシュウの隣で、質素な服を着た男性が軽く会釈した。よろしくお願いします、と挨拶され、ジフトもたどたどしく頭を下げる。かしこまった挨拶になれていないジフトの態度を怯えているとでも勘違いしたのか、男性はすこし顔を右に傾けて表情をやわらげた。


「貧困街では高価な武器を所持していると、武器の奪取を目的に狙われて危険なので、バート様がお持ちの弾倉回転式銃や刃物は預からせていただきました。代わりに私めがお供いたしますので、どうぞご安心を」


 にこやかにそう言うものの、目が死んでいる。服の上から見てもわかる屈強な体つきを一瞥して、はぁ、とジフトは曖昧な声を出した。男性のほうもそれ以上とくに話すことが思い浮かばないらしく、顔の傾きを戻すと後は静かになった。

 石畳の段差にあわせて床の上を踊る小石たちをみつめるジフト。その右腕に、アールが触れる。


「ジフト、なんだか浮かない顔をしているわ。……それに、手袋はどうしたの? 」


 尋ねられて気づいたのか、シュウも不思議そうに首をかしげている。眉間にうすく皺を寄せるジフト。


「――手袋は、公爵が持ってる」


 絞り出した声に反応する音があった。車内の端の席で、バートが愕然と見開いた目をこちらに向けている。


「おまえ、渡しちまったのかよぉッ? バカ野郎、ふざけんな! あれがなきゃ――」


「渡したんじゃない……! 」


 怒涛のように罵声を浴びせようとしたバートが、ジフトの押し殺した声を聞いて止まった。俯くジフトの、膝の上で握り締めた拳が、ぶるぶると震えている。深い影からのぞくきつく歯を食いしばった口元をみて、バートは溜息をつきながら窓の外に広がる夜空を見上げた。うまく丸め込まれやがって、などと、ジフトの気持ちなど知らず減らず口をたたいている。


 陰険な雰囲気の空間で、シュウとアールの視線がジフトとバートの間をおろおろと行き来した。息するたびに肺が焼かれるような居心地の悪い空気だ。その中で、シュウがぽつりと言葉をもらした。


「巻き込んで、ごめん」


 感情を潰した、硬い声だった。うつむいたジフトの視界上端ぎりぎりに、青い制服をきた膝の上で両手を組むシュウの姿がうつる。組んだその手は、甲に指が食い込むほど力がはいっていた。

 ほんと、とんだ迷惑かけられたぜ、と、人一人越しに嫌味を言うバート。それには一切反応を返さず、視線を落としたままシュウが続ける。


「空賊を捕まえて、王国の秘宝を献上して、功を上げようと思ってた。家名についた泥をすこしでもすすぎたかった。……そう、思ってた。思い込んでた。でも――それだけじゃなかったんだ。ぼくは――」


 綺麗に切りそろえられた爪がますます肌に深く刺さる。力みすぎて指が白む。


 苦渋に満ちた顔で何か言おうとしたが、シュウは言いかけた言葉を飲み込んで息を吸った。


「ジフト、やっぱりぼく、もう一度セシル公爵とお話してみるよ。いまならまだ、引き返せる――これ以上きみを巻き込まなくてすむと、思うんだ」


 引き返せる、か。ジフトが床をみつめたままぽつりと呟いた。自然、口端が上がってゆく。それは自嘲の笑みだった。キアラのことや、意識の奥底に触れられて、浅薄な判断を下してしまった先刻の自分へ向けられた歯がゆいおもいの顕れだった。光のない濁った焦げ茶の目と、曇りない空色の目が視線をぶつける。


「もし俺を巻き込まずに済んだとして、おまえはどうするんだよ」


 あの公爵のことだ。シュウだって、秘密を知って今までどおり過ごせる保証などない。そう頭のすみで考えていたことが、おぼえず口からこぼれ出ていた。澱んだジフトの眼を受けて、シュウはそれを切り開くように答える。


「ミランダ一味よりはやく、秘宝を探し出す。そして、セシル公爵からゼクス王へ献上していただく。これまでの一連の事件は、アガシャ王国全体にも影響が出る危機だ」


「だけど、それじゃゼクス王に秘宝を献上しておまえの家の名誉を取り戻す計画ができなくなるんだぞ? 」


 空色の瞳に一瞬、ためらいの影が過ぎる。だが、シュウは顔を伏せなかった。変声期前の初々しくも芯の通ったその面を、しっかりとジフトに向けていた。


「ぼくは守りたいんだ。家族を、アガシャの民を、そして、機械の都に住む人々を」


 アガシャ王が遺した秘宝をミランダ一味に取られたと国中に噂が飛べば、治安の悪化している水の都で王に対する不満が爆発し、内乱が起こる恐れがある。今、アガシャ王国内部で分裂が起こったら、停戦協定を結んだとはいえ、軍備を増強し続けているロザリアが攻め込んでくる可能性を否定できない。だから、騒ぎが大きくなる前に、戦が起こる前に、秘宝を見つけて安全な場所に保管する、と。

 真剣な口調で語るシュウの、晴天と呼ぶにふさわしい迷いのない表情。黙して耳を傾けていたジフトが、強ばっていた顔の筋肉を緩めた。ふ、と口から気の抜けた声がでて、すぐにそれは豪放な笑い声に変わっていった。驚くシュウへ、ジフトが右拳を突き出す。


「誰かを守りたい気持ちは、俺も同じだ。最後の最後までつきあってやるよ」


 拳を水平にしたまま、にぃっと口端を上げる。呆然としていたシュウの顔が、次第にほころんで嬉しそうな満面の笑みになった。


「あ、ありがとう」


「――けっ、何なんだよこのくっせぇ友情ごっこはよぉー」


 礼を言うシュウの前で、ジフトが拳の先を少し動かす。おずおずとシュウも拳を突き出して、ちょんと触れたその瞬間、じっと横目で様子をうかがっていたバートが思い切り嫌そうに悪態をついた。いきなり声を出したバートが怖かったのか、アールがジフトの腕にしがみつく。次元の低い煽りに火が付いたらしく、シュウがバートに言い返し、さらに煽られて言い合いになっている。仲裁しようと身を乗り出したジフトの身体を、アールが座席に引き戻した。


「またあの人たちと戦うの……? 」


 黄緑の目が涙をたたえ、触れる指先が恐怖に震えている。古びたドレス越しの肩を力を込めて抱くジフト。怯えた眼差しで見上げてくるアールに、そんなことはさせない、と答えた。アールにだけではない、己の中に浮かんでは消える、この機械の都で出会った人々、そしてキアラに向けて、ジフトは静かな宣言をしたのだった。

 遥か遠くを見据えてもう一度同じ言葉を噛み締めるように呟いたジフトの右手を、アールが両手で握り締める。


「そう……そうよね。わたしも……もう二度と、同じ過ちは犯さない」


 意味深なことを言うと、アールは震える身体をジフトの胸へ預けた。大戦中よくキアラにしていたように、ジフトがアールを抱きしめる。――が、数秒固まると、慌ててその手を離した。アールが首をかしげ、耳まで赤くなったジフトが弁解を口にしようとする。外で馬のいななく音がして、馬車が止まった。窓の外に見える廃屋同然の長屋の姿に、ジフトは胸中で安堵の溜息をつく。


「えっと、それじゃ俺、人連れてくるから。悪いけどちょっと待っててくれよ」


「ジフト――」


 名前を呼ぶアールの手をやや乱暴に振りほどき、一目散に昇降口の扉をあける。視界に飛び込んできたのは、崩れかけた長屋の玄関先でうずくまっている少女の姿だった。キアラ、とジフトの口が動く。両足を折り曲げてその間に顔をうずめていたキアラが、声に気づいて眼を上げた。大きな茶色の目に映るのがジフトだとわかると、立ち上がって一直線に駆けてくる。


「ジフト! 」


「どうしたんだよ、こんなところで――おわっ」


 質問を言い終わる前に、勢いつけたキアラが腕の中へ飛び込んできた。息継ぎする間も与えず、キアラがジフトの胸板をぽかぽかとたたく。


「ばか、ばか、ばかっ! こんな遅くまでどこ行ってたのよ! 捕まったんじゃないかって――治安長にひどいことされてるんじゃないかって――」


 心配したんだから、という台詞は、嗚咽で消されてしまってジフトには聞こえなかった。聞き取れない言葉をなおも嗚咽混じりに口走りつつ、キアラはぽかぽかと叩く手をとめない。握った拳で涙を拭くキアラをみおろして、ジフトが薄茶色の頭を掻いた。ごめん、と短く謝る。緊張の糸が切れて泣き出したキアラも、次第に落ち着いて息を整え始めた。小さくしゃっくりしているキアラの華奢な肩を、ジフトがつかむ。首をかしげて名前を呼ぶキアラの目を、ジフトがみつめる。無事だったことをしって安堵したのか、大きな茶色の目は少し呆けていた。大きく開いた瞳孔に、煌めく星々がうつりこんでいる。


「キアラ、頼みたいことがあるんだ」


「……うん、なに? 」


 何も知らない涙に潤んだ目。泣いたせいで朱く腫れたそのまわりを見ることで、胸の奥がちりちりと焼け焦げるように痛む。キアラの笑顔を守ると決めたのに、ここ二日は彼女の泣き顔しかみていないような気がした。八年前とは状況が違う。果たしてキアラは今の自分についてきてくれるだろうか。一抹の不安が頭を過ぎったが、それをかき消すように空気を胸いっぱいに吸い込むジフト。


「俺と一緒に、機械宮に来て欲しい」


 一息に言い切った後、キアラの目が大きく見開かれた。数瞬も経たないうちに、キアラの身体がこわばっていく。肩をつかんでいるはずが、まるで岩にでも触れているようだ。薄くひらいたキアラの唇からでた、話が違う、と呻くような声が耳朶をうつ。奇妙な反応に、ジフトはおもわず眉をひそめて聞き返した。


「なんだって? 」


「……」


 眼をそらしたキアラの手が、ジフトの両腕を握り締めた。がっしり捕まえられて離すことができない。さきほどジフトをぽかぽか叩いていたのとは違う、本気の力。そしてそれは、キアラが心の底からで恐怖や不安を感じているときの癖のひとつだった。わたし……、と、キアラの唇がかすかに動く。


「わたし、ジフトに謝らなきゃいけないことがある」


 唐突な告白に、ジフトは面食らった。いったい何を、と、尋ねようとするも、腕を掴まれたジフトはずるずると長屋の裏のほうへ引きずられていった。


「お、おい、キアラ――」


 困惑するジフトの前で、キアラは地面に膝をつき、腐りかけた一枚の木版を動かす。そこに何があるのかは、ジフトも知っていた。月と星の光に照らされて、土の中から不格好な金属製の箱がでてくる。その一頂点からは、太い鎖が伸びていた。重そうなそれを地面の上へ取り出そうとするキアラを、ジフトが手伝う。その箱は、ジフトが作ったものだった。下町のはずれのほうにある廃材置き場で拾い集めた部品でつくりあげた、即席の金庫だ。扉についたダイアルの、特定の絵柄を合わせなければ開かないというしろものだ。もちろん、その合わせ方はジフトとキアラの二人しか知らない。都の外の秘密基地や小さな泉で二人がみつけたガラクタ――もとい宝物をしまっておくための箱だ。

 そんなものをなぜ今、と疑問符を浮かべていると、キアラが手際良く絵柄を合わせて扉を開けた。その中には、虫の抜け殻や綺麗に磨いた円い石、機械の型番が刻まれたプレート、片方だけの例の手袋、――そしてずっしり重そうな絹の財布があった。今まで自分も盗んだことがないほど大きな絹の財布をみて、ジフトが眼を白黒させている。


「え、っと……これはどーいうこと……? 」


「わたし、どうしてもジフトが喜ぶ顔が見たくて――ジフトは機械が好きでしょ? だから、操縦試験を受けるお金があったら、もう誰にも文句を言われずに好きなだけ機械に触れていられるだろうって思って……。それで……わたし、公爵様のところへ行って、いろんな情報を買ってもらったの。父さんの研究資料とか、他にも――」


 絹の財布を握り締めるキアラが、苦渋の表情を浮かべ口篭った。袋の中で擦れ合う金貨の感触、その中に、公爵から受け取った指輪のものが混じっていたからだ。他にも? と、ジフトが復唱して不思議そうにすると、キアラは慌てて視線を上げた。


「と、とにかく! ……ごめんなさい。黙って勝手なことして――ジフトを巻き込んじゃって」


 しおらしくなって頭を垂れるキアラ。うなじが白く月光を反射して、ぼんやりとした輪郭を描く。それを無意識にみつめながら、ジフトは言葉の意味を自分の中で噛み砕いていた。キアラは相変わらず、胸の前で絹の財布をきつく握り締めている。く、とキアラの真珠のような歯が薄い唇を噛んだ。機械宮にはわたしだけで行くから、と重い声が聞こえた。


「っな、なに言ってんだよ! 一人でなんて行かせるわけないだろ」


「でも、ジフト、約束してもらったんでしょ? おじさん達から、乗り込み型機械の操縦を教えてもらうって」


 こちらを見上げる大きな茶色の眼は、潤んでいた。夜の湖畔の水面のように、うつりこんだ星空が揺れている。たじろぐジフトの前で、キアラは財布の口を開き何かを取り出した。小さな光るそれを手の中に握って隠すと、絹の財布がジフトの前へ差し出される。


「これ……使って」


 操縦試験の費用と、その後で新しい機械を買う資金にして欲しい。そう告げるキアラの目は、これまでに見たことがないほど真剣で、そして思い詰めていた。悲愴な覚悟に縁取られた瞳をジフトが凝視する。

 お互いに見つめ合ったまま、そろそろとジフトの右手が財布へ伸びた。金貨袋を握って震えているキアラの手が、ジフトの手のひらに包まれる。思わず息を止めるキアラを、ジフトはもう片方の手で引き寄せ、腕の中へかかえこんだ。


「じ、ジフト? 」


「……ごめん。少しだけ、このまま抱きしめさせてくれ」


 白い肩に顔を押しつけて頼むジフトの声を聞いて、キアラは黙ってうなづく。頬に感じる人肌の温もりと、腕の中の柔らかい身体。眼を閉じれば、それはおぼろげな記憶と重なった。木漏れ日に照らされて、両親の間で笑っている小さな女の子。

 抱きしめたキアラの体温が次第に上がっていくことに気づいて、ジフトは目を開いた。眼前にあるのは、八年経ってすっかり成長したあの日の少女の姿だった。何も知らずに微笑んでいたあの幼かった子が、今、ジフトのことを心配して胸を痛め、自分の身を挺してまで夢を追いかけることを応援してくれている。


 助けたいと思ったキアラが、自分を助けようとしてくれていた。


 今更理解したその事実が、ジフトの心の中に化学反応を起こす。それはまるで、見えている世界が反転していくような感覚だった。名前を呼んで首を傾げるキアラを正面からみつめて、ごめんな、とジフトがささやく。辛い思いをさせて、こんなに思いつめさせて、――今まで気付けなくて、と。


 謝罪の言葉を聞いたキアラが、大きな茶色の目を円くして瞬かせている。前髪が触れるぎりぎりまで顔を近づけると、ジフトは再び唇を開いた。しかし、今度はささやくよりもしっかりした声で。


「俺も、機械宮に行くよ。キアラを守りたいんだ」


 一回り小さい身体を抱いてそう告げると、見る間にキアラの顔が赤くなった。疑問符を浮かべるジフトの胸に置かれたキアラの手が、服をぎゅっと掴む。


「わ、わたしも」


「ん? 」


 うわずった声が何を言ったか聞き返そうとすると、キアラがつま先立ちして、額と額が触れ合った。


「わたしも、ジフトのこと守りたい」


 はっきり言い切ったキアラの瞳の中で、夜空の星が瞬いている。すとんとキアラの踵が地面に降りて、熱くなった額が離れた。と同時に、硬直していたジフトの口から間の抜けた音が出る。


「――ぇえ? 」


「も、もうっ! 何度も言わせないでよ! ……あ、もしかして、わたしじゃ頼りなくて心配なの? 」


 再び耳まで赤くなったキアラが、ぷうっと頬を膨らませた。そういう意味じゃないけど、と抱いていた腕を離して後頭部を掻くジフト。腕から抜け出したキアラが、ふいと背を向けると、しゃがみこんで箱から片方だけの手袋を取り出した。なに怒ってんだよー、とジフトが膝に手をついて声をかけると、キアラが立ち上がる。


「いいもん、……わたし、強くなるから。ジフトが安心して頼れるくらい強くなるから」


 だから、と、キアラが片方だけの手袋と絹の財布を抱きしめる。見守るジフトへ振り返ると、キアラは口角を上げてみせた。


「あんまり一人で抱え込まないでね、ジフト」


 それは、可憐や綺麗と言うよりもむしろ、凛々しいと感じる笑顔だった。ジフトはというと、キアラの発言と行動に驚いてぽかんと口を開けている。とりあえず、おう、とだけ返して後はまばたきするだけだ。そんなふうに棒立ちしているジフトの手を、キアラが握ってやさしく引っ張る。


「ほら、そうと決まったらはやく行こ? 」


 二つの月と数多の星に照らされたキアラが、上目遣いに微笑んでジフトを促した。ようやく我に返ったジフトが歩みを少々はやくして、キアラと並ぶ。目のすぐ横、すこし下で揺れる栗色の髪を眺め、ジフトがぼそりと呟いた。


「おまえ、いつの間にか背伸びたよな」


 キアラが顔をこちらに向けた。追い抜いちゃうかもね、といたずらっぽい表情で冗談を言う。笑えない冗談にジフトが苦笑する。繋いだ手を強く握り返すと、ジフトはシュウ達が待つ馬車へキアラを導いた。一歩一歩進むたび、心の中に不可思議な感情が湧いてくる。それは木漏れ日の下の食卓を思い出すときの気持ちに似ていたが、ただ優しく暖かいだけではなかった。追い風のように、ジフトの背中を押して、前へ前へと進ませる力が、それにはあった。己の内側から滲み出てくる感情が、公爵との対話でひび割れた仮面の隙間を埋めていく。それに気がついて、ジフトは理解した。キアラと平穏に暮らすために『つくりあげた』はずの『仮面』が、八年の時を経て既に自分の一部となっていたことを。


「……」


「ジフト、どうしたの? 」


 思わず足を止めていたジフトに、キアラから声がかけられる。はっとして軽く頭をふると、なんでもない、と隣にいるキアラに笑いかける。ふーん、と、キアラがあいまいな返事をすると、ジフトは再び歩み始めた。その胸に、普通の人間らしさが萌芽しはじめた心を抱えて。

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