第十五話 欠けた記憶 後編
延々と続く城壁、斜陽と流れ雲がつくった影の中。ジフト達の目の前で、密着していた影は頭から二つに別れた。まだ腰のあたりはくっついている彼らから、ジフトは目線を外す。
なぜなら影の正体が、伝説の双頭竜でもなんでもなく、ただの逢引している男女だったからだ。――ただし、その片方は顔見知りだった。ジフトの数歩前で、シュウが小刻みに震えている。激しく動揺するシュウの背中を、わからなくもない、といった気持ちでジフトがみつめる。知り合いが目の前で熱烈にいちゃついてるのを目撃するのは気まずい。それも立場が上の人物ならなおさら。
「せ、セシル公爵……? 」
肩をこわばらせたシュウから、引きつって裏返った声が出た。再び一つになっていた影のうち、背の高い方がそれに反応して、壁から身を起こす。気障な仕草で取ったフードの下から出てきたのは、ほかでもないリオナード=セシルの顔だった。
「やあ、シュウ。それにジフト――だったかな? こんなところで会うなんて奇遇だね」
「――! 」
逢瀬を見られたことなど、リオナードは微塵も気にしていないようだった。揺らぎもしない自信と余裕にあふれた返答に、問いかけたシュウのほうがたじろいでいる。しかし、彼が発した言葉、その内容に、ジフトは拳を握って後ずさりした。
――なんで、俺の名前知ってるんだ?
機械宮の廊下で出会ったとき、シュウはジフトのことを友人かと尋ねられて認めたけれど、名前は教えていないはずだ。数時間前の記憶をたぐりながら、ジフトはリオナードから少しずつ距離をとった。冷静に考えれば、彼らの話によると、ジフトはシュウにとって機械の都でできた初めての友人であり、後で公爵がシュウの世話役にその名を尋ねに行ってもなんら不可解ではないのだが。しかし、何故か、今のジフトは理論的思考より本能のほうが強く働いていた。それが無意識にうちに警鐘を鳴らすのだ。
うろたえているシュウと後ろ向きな敵意をあらわにするジフト、そして同じく敵意を醸すバートと怯えるアール、四人それぞれのうわべをリオナードの視線が通っていく。一瞬だが、彼の顔から表情が消えていた。まるで何かを観察するような目付きだ。それからすぐ、普段のいかにも公爵然とした笑顔を取り繕うと、リオナードはシュウに声をかけた。
「『宝物』は、みつかったようだね」
優しい声音のなかに、ジフトは妙な引っかかりを感じて眉をひそめた。これも、『虚ろの間』に行く直前の会話を思い出せば、取り立てて不思議な台詞ではない。右心の羅針球を子どものおもちゃだと勘違いして、ごっこ遊びの宝物がみつかったかどうか訊いているだけだ。言うなれば世間話のひとつだ。親友の弟を気遣う公爵。美談だ。――すこしわざとらしい美談、だ。
得体の知れない恐怖が腹の底から湧いてきて、ジフトはそろそろと後退を続けた。ほんの少し前、機械宮の地下にあった、巨大な機械と契約した時のことを思い出す。奇跡が起こりうる可能性を、確率を、己がちからによるものだと驕っていた。
――だけど、ちがう、これは……。
あの黄緑の目から出る視線の鋭さは何だ。生白い顔に張り付いた酷薄な笑みは、何なんだ。
地下の迷宮で一瞬だけ過ぎった懸念が、城壁の傍らに立つリオナードから、現実のものとして溢れ出していた。しかし、『それ』を認めることは、絶対的な敗北の始まりを意味する。なぜ、公爵が見知らぬ女性と二人、こんなところにいるのか。見た通り、逢引していたからだと、普段のジフトなら答えを出しただろう。だが今、同じことを尋ねられたなら、違う答えになる。そう――
ごくり、と、ジフトの喉が上下に動いた。乾ききった口腔から送られるのは埃っぽい空気だけで、それがむなしく嚥下される。じっとりとでてきた嫌な汗が顎を伝って落ちるそのとき、疑惑が言葉になるのをジフトは聞いた。
「……てめぇ、知ってたんだな」
硬質な金属同士のぶつかる音がした。バートが、大口径の弾倉回転式銃をリオナードに向けて構えている。その撃鉄が、上がっていた。驚く女性の肩を、リオナードがそっと自分の後方へ押す。そうして城壁の影に隠れさせると、彼はまっすぐ銃口へ向き直った。その目は不敵にバートをみつめている。一陣の風が、二組の間を吹き抜けた。下町のほうから運ばれてきた砂塵が、錆が、この場にいるものたちに降り注ぐ。さて、なんのことだか、と、リオナードは澄ました顔のまま口角を上げた。その目は笑みの形をつくっているが、感情は違った。物陰から無知な獲物を狙う蛇のような、強かで残忍ともとれる眼をしている。相対するバートも、同じ色を瞳に宿していた。
近くの茂みが音を立て、再び疾風が地を駆ける。
一瞬だった。
「――ッ! 」
目の前で起こる殺人を止めさせようと踏み出したジフトの耳に聞こえたのは、何かが空を斬る音と、バートのうめき声だった。
「……え、な、なに? 」
動揺する目に、漆黒の髪が映る。そこに在ったのは、右手首を抑えてうずくまるバートと、彼から取り上げた銃を持ってその背中を踏みつけるシュウの姿だった。あまりに唐突かつ想定の範囲外すぎる現象に理解が追いつかないジフトの耳に、シュウが早口で捲し立てる声が聞こえる。
「あ、あのっ! お怪我はありませんでしたか? それと、申し訳ありません! こいつは――」
「いや、いいんだ。素性を明かそうともせず話そうとした僕にも非がある。君は気に病まなくていいよ、シュウ」
え、と、首を傾げるシュウのすぐ傍まで、リオナードはつかつかと歩み寄ってきた。風も吹いていないのに茂みが揺れる。抵抗を続けていたバートがそれに気付き大人しくなると、その眼前に手が差し伸べられた。
差し伸べられた手を睨みつけて立ち上がったバートに、公爵が会釈をする。
「私の名はリオナード=セシル。この都の統治者だ」
名を告げられたバートが、思い切り顔を顰めながらも自分も名乗ろうと口を開く。が、それはリオナードの手によって遮られた。不審そうに眉根を寄せるバートに、リオナードが作り物めいた笑みを向ける。
「会うのはここが初めてだが、記憶違いでなければあなたの名は――」
バート=チャフル、だね。そう言い当てられ、バートの顔色が変わった。青色の目が見開かれ、その奥で様々な思考が逡巡する様が見えた。しかし、一瞬もしないうちに、眼はリオナードへ真っ直ぐ戻る。なぜ俺の名を、と、歪められた唇から出た声は引き攣っていた。問いかけと言うよりは呟きに近いそれに、リオナードがこたえた。
「なぜ? 容易いな、その問いに答えるのは……。なぜなら君は、そこにいるジフト=クレイバーの後見人だからだ」
唐突な会話の飛躍に、ジフトは思わず我が耳を疑った。しかしリオナードがその右手を広げて示す先は、間違いなく自分に向けられている。戸惑うジフトの前に、シュウが両手を広げて立ちはだかった。まだバートから奪ったままの回転式銃が、危なっかしく陽光を反射している。
「ち、違います! ジフトはこんなやつと関係無――」
公爵からの一瞥を受けて、シュウは口を噤んだ。それでもまだ庇おうと広げたその手をとじようとしない。無言の訴えを続けるシュウの肩に、リオナードがそっと手を置いた。身をこわばらせるシュウに、二言三言、何事か伝える。それを聞いたシュウの顔から、緊張の色がひいていった。黙って道を譲り、リオナードが一歩ジフトに近づく。
「ようこそ、機械宮へ。六血統の一つドラクルと縁深い君が空賊討伐の召集に応じてくれて、嬉しいかぎりだ」
「いや俺は空賊討伐なんて全然……」
毛ほども考えちゃいないけど、という喉まで出かけた言葉をジフトは飲み込んだ。自分を注視するリオナードの目が、全く笑っていなかったからだ。歓迎などという親しげなものではない。支配を甘んじて受けるべし、という眼差しだった。生唾を飲み込むジフトの腕に、鳥肌が立つ。これは婉曲な脅迫だ。リオナードの提案に従えば、ジフトもバートも、勝手に城内へ侵入したり器物損壊したもろもろの咎を帳消しにしてやる、と言っているのだ。そしてこれを断れば、どうなるか。すべての采配は公爵の手に在る。
――何も気に負うことがなければ、ジフトはこの話を断っただろう。面倒に巻き込まれるのはごめんだった。しかし、リオナードの手に握られた札の中には、キアラの命運がある。つい昨日、馬車の中から手を振る公爵に会釈を返したキアラの姿が脳裏に浮かんだ。目の前のこの男は、ここまで見越してキアラを内に引き込んだのだろうか。真偽はわからなくとも、キアラの一身をリオナードの手中へただ堕とすことは、出来なかった。唇を噛み締めてうなづくジフト。それは僅かな情報のみで思案できた精一杯の結果だった。このリオナードという、公爵の仮面を被った得体が知れない男が、何を欲し如何に動くかを見極めるまでは、その懐にて様子をうかがうのが得策だろう、と。
ジフトが諾したのを見て、リオナードの目が細められた。淡々と、聞いたこともない地名や耳慣れない地位階級が公爵の口から告げられる。それはジフトに与えられた偽の身分だった。先ほどの六血統のなんとかと言うのも、偽の身分のひとつなのだろう。最後に、機械宮のなかにいくつもある客室のひとつの鍵を渡される。ころんと手のひらに転がった金属の正四面体を、ジフトは音がするほど握り締めた。
ジフトがちらりと視界の端に映るバートをみると、面白くなさそうな顔で固く腕を組んでいた。無理もないだろう。狙っていた王国の秘宝への鍵を、どこの誰ともわからぬ少年に奪取され、挙句その少年が敵対組織である都の統治者と手を組むというのだから。しかも、バート自身が統治者に首根を掴まれた状態で協力を迫られている。これを断れば、また城の地下にある監獄へ逆戻りだ。一度脱獄した者に対して警備が強化されるのは想像に易い。そうなれば再び抜け出すのは、飛空艇で待機している仲間の手を借りても困難極まる。かさこそと音を立てる茂みの様子をうかがうバートの、乳白色の下瞼が苛立ちで痙攣した。
その場をおろおろと見守るしかできなかったシュウに、公爵の視線が向けられる。
「機械宮の中は一通り見終わっただろう。今度は市街地のほうを案内してあげたらどうかな」
「え、……」
そう提案され、シュウは困惑した。言葉を失っている間に、公爵が続ける。彼も一度上に報告したほうがいいだろうからね、と。それがバートに向けて発せられたものであると気づいたシュウは、無意識に目を見開いていた。驚愕したのだ。公爵が、バートの正体を理解した上で、母体組織に王国側の情報を伝えることをよしとしたのを。
絶句するシュウの肩を、骨ばった大きな手が叩いた。はっと見上げる空色の目に、これ以上歪めようがないほど顰められたバートの顔が映る。もう片方の手で銃を返せといっているのを見て、シュウはバートを睨みつけた。その耳に、またも公爵の声が聞こえた。
「返してあげなさい、シュウ」
「でっ、でも――! 」
思わず反抗を口走ったが、シュウはすぐ唇を固く結んで黙した。公爵に非礼を詫び、バートに銃を渡す。口を噤んだまま、しかし警戒を解かない空色の瞳を一瞥して、もう撃たねぇよ、とバートが苦々しく呟いた。穏やかな風が吹き、木々や茂みが葉擦れの音を立てる。青い回転式銃がその体躯を拳銃嚢にしっかりと収めたのを見届けて、シュウは公爵と対峙した。青地に白の線が眩しい制服を着たその背筋は、ぴんと張っている。
「……馬車の用意をするよう、使いのものに伝えます」
「ああ。月が真上に来るころまでには戻っておいで。食事の用意をさせておくから」
公爵が頷き、ジフトとバートにも軽く会釈した。そのまま長髪の女性と城壁の内側へ去ろうとする公爵へ、ジフトが駆け寄る。振り向いて、僅かに首を傾げる公爵の黄緑の瞳を、火が出るほどの眼差しで凝視してジフトは口を開いた。
「あんたと話したいことがある」
横に立つ女性に一瞬視線を走らせ、すぐ元にもどす。二人だけで、と付け加えるジフト。それを眺めていた公爵の口元にひどく薄い笑みが浮かんだ。
「私も君と話がしたいと思っていた。――ついてきなさい、ここでは衆耳にさらされてしまうから」
ジフトの背後から怯えた視線を送っているアールを一瞥して、公爵は踵を返した。背中にアールの視線を感じながら、ジフトも公爵の歩く道を続いた。乾いた土とぬかるみが斑に混ざる、獣のすえた臭いがする道を。
冷たく長い廊下を歩き続けて通されたのは、機械宮の中の一室だった。部屋へと続く扉の横に下げられた金属板に、リオナードが片手を触れる。青い光が親指から順に円を描いて消えていくのをみて、ジフトの心に僅かな好奇心が湧いたが、今はそれに構っている場合ではなかった。先に入るよう促されてそれに従うジフト。部屋の中から入口を振り返ると、ずっと一緒についてきた暗茶色の髪の女性が扉の前で公爵と話し込んでいた。その秀麗な眉が苦渋に寄り、淡褐色の瞳は切ない色を浮かべて公爵に何か訴えている。
ふと、女性の視線とジフトのそれが、公爵の肩越しにかち合った。慌てて顔をそらしたジフトの視界端に、女性が何か言おうと口を開いた姿が見える。しかし思いがかたちになる前に、女性の意識は公爵に絡め取られてしまった。公爵の指の背が女性の頬をそっと撫でると、淡褐色の瞳は不安に揺れながらジフトから公爵へと向けられた。暗茶の長髪をもう片方の手で梳きながら、公爵が一言囁いた。距離が遠くてジフトには詳細が聞き取れなかったが、耳朶を打つその声音はとても優しかった。
目を伏せてその言葉を聞いていた女性が、やがて面を上げる。光の加減で疲弊したように見えるその顔を、無理に笑みのかたちにすると、女性もリオナードへささやき返した。声というより息に近い、喉の奥から搾り出した言葉は、それでもジフトの位置から口の動きで読み取ることができた。信じている、と、女性は自分の頬を撫でるリオナードに告げていた。ゆるく頷くリオナードの腕から、女性が身を抜く。踵の高い靴が廊下を刻む音が遠ざかるのを背に、リオナードは部屋の扉を閉めた。
「――さて」
公爵の言葉を聞いて、ジフトは無意識に体をこわばらせた。都一の権力者にたった一人で対峙している緊張と、じわじわとキアラや自分に影響を広げてきた得体の知れない者に対する警戒心が、空気を震わせているようだった。ジフトを刺激しなように、リオナードはゆっくりと扉の前から部屋の中程へ移動する。それはジフトがいつでも逃げ出せるように、わざと退路を用意してやる動きだった。追い詰められたジフトが暴挙に出ないよう配慮したのか、警戒をすこしでも緩めてこれからの会話を有利に進めようとする画策なのか。その本心はわかりかねぬものの、リオナードの算段通り、ジフトは張り詰めていた気をわずかに緩めた。と同時に、先の言葉に続く声がする。
「まずは君の話を聞こう」
片手で椅子へ座るよう促し、公爵が言った。座ろうとしないジフトを前に、公爵はやれやれといった様子で長椅子に腰を下ろす。机の上に置かれた銀の盆の蓋を取るリオナード。そこには採ってきたばかりの瑞々しいたくさんの果物があった。血苺を摘むリオナードを眼前に据え、ジフトの口から押し殺した低い声が出る。
「キアラに手袋を渡して、何をさせるつもりだったんだ」
どうしても、聞いておかなければならないことだった。焦げ茶の瞳が、じっとリオナードを見据える。返答の内容によっては、先ほど諾した一方的な身分詐称の取引も断るつもりだった。意思を悟ったのか、リオナードがジフトを見上げる。片手につまんだ血苺を親指と人差し指で弄んでいる。
「その質問には、答えにくいな……。私は彼女に、自発的かつ積極的な行動を望んでいない。ただこちらの指示を遵守し、あとは待機すること――それがこちらの要望だ。手袋を渡したのは、彼女が所持している必要があっただけだ。『手袋を使う』ようにとは、指示していない」
返ってきた言葉は、しかし、霞のようだった。眉を顰めるジフトに、リオナードは椅子から少し身を乗り出す。
「卓の上にある駒が見えるかな」
指されたほうへ首を捩ると、滑らかな光沢の卓の上に、幾何学模様が描かれた遊戯盤と十数個の駒が見えた。初めて見るものに怪訝な顔をするジフト。戦を簡略化した遊び道具だ、とリオナードが説明する声が聞こえた。そんなもので遊んでいるのか、と、未だ大戦の傷癒えぬ胸中がかすかな疼きを覚えたが、リオナードはそれに気づくはずもなく話を続ける。駒にはそれぞれ役割があること、駒を敢えて動かさないことも戦略の一つであること。学の無いジフトにも理解できるよう、噛み砕いた言葉で、しかし淡々とした説明だった。黙って聞いていたジフトの油で汚れた下瞼が震え、まめだらけの拳が固くなる。
「キアラのことを、駒だって言うのかよ……! 」
先ほどまでの話を纏めれば、自然と行きつく結末だった。公爵の手のひらで転がされていたキアラは、今は動かす必要のない『駒』である、と。激昂しかけているジフトに、公爵は容赦なく肯定の言葉を継いだ。
「――そうだ。手袋を渡したのは、新たに有用な駒を得るための一手だった」
雷にも似た衝撃が、ジフトの脳天から踵まで突き抜けた。円い目を限界まで見開いたその顔を、リオナードは眉一つ動かさず凝視していた。空気を求めてか、言葉を紡ごうとしてか、ジフトの口が開く。しかし何もすることができず、ただ陸に上がった魚のように、ぱくぱくと唇を開閉させるだけだった。改めて突きつけられた敗北の事実を、咀嚼することしかできなかった。自分も公爵の手の上で踊らされていた人形にすぎなかったということを。奇跡を引き寄せる何かが自分にあると、機械宮の地下で信じて疑わなかった自分を、ジフトは恥じた。運命の糸を操っていたのは、自分じゃない。公爵だったのだ。
――嵌められた――
うつむくジフトの頭の中で、その一言だけがぐるぐると渦のようにまわっていた。
これほど早期に手に入れられるとは思っていなかったが、とリオナードが苦笑する。しかし、視界が白むほど驚愕していたジフトの耳には、その言葉は届かなかった。続いて発せられた、聞きたいことはこれだけかい? という問いかけに、黙って頷くのが精一杯だった。
返答を視認したリオナードが長椅子から立ち上がり、ジフトの右肩に手を置いた。吹き出た冷や汗を吸ってぐっしょり濡れた上着越しに、一瞬だけ肩がびくんと痙攣したが、リオナードはそれを気にせずにジフトの右手を手袋から引き抜いた。リオナードが手袋を懐に仕舞う。きらきら輝く布地が見えなくなるのをジフトはただ眺めていることしかできなかった。考えろ、と、頭の中で単純な命令だけが響いている。考えるんだ、公爵の一方的な支配から自分もキアラも逃れる方法を。しかし思案すればするほど、理論の袋小路に突き当り、感情の泥沼から抜け出せなくなる。それでも諦めきれないジフトの瞳に灯る反抗の意思など知らず、リオナードはジフトの左手に巻かれたハンカチに気づき、その下にある傷をあらためた。
「ほう、随分早いな……」
既に瘡蓋も取れて真新しい皮膚が見えている指の腹の傷跡を、物珍しそうにいくつかの角度から観察すると、左手を放す。掴まれたところを服で拭うジフトを見下ろし、手袋のもう片方は? とリオナードが尋ねる。答えるものかと睨みつけると、彼女が持っているのか、と冷笑で返された。何もかもお見通しなのかと悔しさに唇を噛み締めるジフトに、リオナードは口の片端を上げた。
「どうも誤解しているようだから、言っておこう。私は別に君たちを苦しめたいわけじゃない。その逆だ、保護したいんだよ」
にわかには信じがたい言葉を吐くリオナードを、ジフトは疑いしかない眼で見上げる。敵意と疑問符を湛えた焦げ茶の目を、黄緑の目が見下ろしている。なんでだよ、と俯いて呟くと、こたえは自分の中で出ているのではないかな、と返された。ぎくりとしてジフトが眼を上げる。目の前に立つリオナードは、ジフトの左肩から肘までを覆う筒状の布を指していた。その下にあるはずのものを思い出したジフトの右手が、知らず左の上腕をきつく握る。再び、しかし今度は意気消沈として顔を俯けるジフトに、リオナードは少し声音を柔らかくした。
「機械の都の長を務めていれば、都にある組合の数、そしてその勤や内実など、嫌でも知ることになる。このまま君とキアラの二人があの組合に属していればどうなるか、君自身が一番分かっているのだろう? 彼女が本当の花売りになる前に、組合から抜け出したい。操縦試験を受けたいのは、機械が好きだからだけではない。組合を抜けても、二人で生活していけるように――そう思っていたんじゃないかな」
見開いた焦げ茶の目が、動揺して視線を震わせている。その眼底に投影されているのは幾何学模様の絨毯ではなく、昨夜の出来事だった。白髪の女性が、泣き腫らした目のキアラの肩を掴み、言い聞かせている。
『夜中に花売りなんかしてる姿を見たら、父さん母さんが悲しむよ』
華奢なキアラの肩をつかまえて、悲愴に彩られた目を見上げる白髪の女性の表情は、心からキアラの身を案じていた。父さん母さん、という言葉が、ジフトの意識の奥からさらに別の記憶を呼び覚ます。それは大戦が起こる前の記憶。機械宮の庭に負けないくらい、たくさんの緑に囲まれた、白亜の家の、優しい思い出。丸窓から注ぐ木漏れ日が照らした食卓で、暖かいスープをもらった。今まで掛けてもらったことのない優しい言葉をもらった。向こう側で微笑むのは、穏やかな知性をもつ男性と色あせない好奇心をもつ女性。隣には、幼い頃のキアラのあどけない笑顔。
腹の奥から、熱い塊がこみ上げてくるのがわかった。それは胸を締め付け、喉を焼き、震え続ける眼球に膜を張った。わなわなと自分で制御できなくなった口から音が漏れる。
「――に――――」
体内の熱に苛まれて、ジフトの目にはまた別の景色が映っていた。枯れてしまった木々、真っ赤に染まる空。悲鳴と怒号が飛び交う中、ひとりぼっちになったキアラの手を引いて、ただ、逃げた。鷲鼻の男性も、割腹のいい男性も、白髪の女性も、誰も助けてくれなかった。責めることも呪うこともできなかった。皆、自分と、自分の家族の生命を守るので精一杯だったのだから。泣き出すキアラを不器用ながら慰め、励まし、明るくおどけることで笑顔を取り戻そうとした。ジフトがみつけてきたものを二人で食べて、キアラは体を壊した。柔らかかったキアラの手が痩せて骨ばっていくのを、繋いだ手から感じ取って、二度と帰らないと決めていた場所に、戻った。キアラに暖かいスープを飲ませるために。
「おまえに、何がわかるっていうんだ! 」
この眼から溢れる熱を受けて、燃えてしまえ。そこまで思いつめて、ジフトは目の前の男を睨めつけた。いや、この男だけではない。ずっと閉じていた記憶が開き、『そこ』に居る大人たち、全員をジフトは睨みつけていた。もがくジフトを見下ろす、数多の目。押さえつける腕。ジョーと呼ばれる老人が手を挙げたことを合図に、ジフトの左手に近づけられる灼熱の鏝。
己の身に烙印を受ける代わりに、二人分の食物と寝床を得た。血の滲む体を引き摺り、あてがわれた長屋に帰った。二つの月に照らされた、何も知らないキアラの寝顔が、あの日とおなじあどけない笑顔を浮かべているのを見て、ジフトは決意したのだ。これから先もずっと、キアラが笑っていられるように、食事と安全な寝床を得られるように、自分は痛みに鈍くなろう。体の傷も心の傷も、その痛みに気づかないふりをすれば、キアラの顔をいらぬ心配で曇らせることもない、と。赤い血を流し続ける左腕の傷の上に、抉られた心の傷の上に、あの日の和やかな食卓の思い出で覆いをかけて、意識を塗りつぶした。忘れるために何重も鍵をかけた。それを今、目の前に立つ公爵が無遠慮にこじ開けようとしている。
「俺は、俺は――キアラを――」
守りたかった。助けたかった。過去形でしか出てこない言葉に、愕然とした。……指摘された通りだったのだ。痛みに鈍くあろうとしすぎて、もっと大切なことに対してまで、鈍くなっていた。どんなにジフトが努力しても、時の流れだけはどうにもならない。芋虫が蛹に、やがて蛹が蝶になるように、幼い子供だったキアラは少女に、そして大人の女性になる。キアラが大事にしていた髪を切ったとき、こともあろうにジフトは安堵したのだ。ああ、これでキアラが『みせ』に出すため連れて行かれるそのときが少しだけ伸びた、と。移ろい続ける時間を誤魔化せるはずもないのに。
いつのまにか公爵の襟首を掴んでいた両手から、力が抜けた。閉じた窓から注ぐ斜陽が部屋を朱く染め、皿に盛られた血苺を輝かせる。きらきらと瞬くその光が、目に痛かった。心に沁みた。ずるずると爪を立てて両手が公爵の襟首から胸までずり落ちたそのとき、ジフトの肩に重いものが乗った。
「もう、苦しまなくていい」
それは公爵の手だった。言っている意味がわからず目を上げるジフトの顔を、リオナードが覗き込む。頭一つ分高い身長を膝をかがめて低くし、同じ目線にすると公爵は続けた。
「全てを抱え込まなくてもいいんだ。君は――たった一人で、よく頑張った。八年間、誰にも言えない辛いことが数え切れないほどあったと思う。でも君は、彼女を守り抜いた。彼女が元気でいること、それが何よりの証拠だ。君はそれを誇っていい。そして私も感謝している」
だからその肩の荷を下ろして、キアラと共に機械宮へ、おいで。優しい声音で公爵が諭すのを聞いて、ジフトは虚ろな目で公爵をみつめた。それを見つめ返す公爵の黄緑の瞳は、慈愛に満ち溢れているように見える。数秒の対峙の後、ジフトの眉間に、うっすらと皺が刻まれた。
「……あんたが、キアラを見捨てないって保証はどこにある」
服の装飾に引っかかっているだけだったジフトの両手が、再び強張りはじめていた。ジフトが試すようにみつめる公爵の瞳に、卓の上の盤と駒が映りこんでいたからだ。問いただされた公爵の目が一瞬だけ驚いて見開いた。すぐ元に戻ったそれは、しかし、もう真心から出た感情と受け取るのは困難だった。あんたを信用出来ない、と言われ、リオナード自身も誤魔化し通すのは無理だと気づいたのか、屈めていた背を伸ばして一度目を閉じると深く息を吸う。
「そうだね。部外者である私から急にこんなことを言われて、にわかに信じられないのはよくわかる」
辛抱強く、一言ひとこと言い含めるよう語りかけるリオナード。それを見上げるジフトの目は、普段の円い人懐っこいものとは全く別のものになっていた。猜疑と憎悪が混じる焦げ茶の瞳が、刺すような視線を送っている。その変貌は、忘れていた記憶が呼び覚まされた結果だった。キアラと平穏に暮らすためにつくりあげた仮面がひび割れて、その隙間から血が流れるように利己的自我が滲み出てくる感覚。他人に見せることはおろか、自分でさえも直視したくなかった意識の底の汚泥を無理やり覗かされた怒りが、ジフトの口を動かした。
「綺麗事なんか言うな。あんたは俺やキアラの気持ちなんてどうでもいいんだ。ただ自由に動かせる駒が欲しいだけだ。遊戯の最中、あんたの想定した役目を駒が終えて無用になった時、駒を捨てなきゃ負ける戦局になった時、あんたは駒をどうする? それでも大切に取っておくのか? ――違うよな。あんたは駒を捨てる。遊戯に勝つために駒を捨てる手をうつ。そしてあんたは、現実でも同じことをするんだろ。俺たちのことを人間だと思ってないから、あそこに転がってる魂のない駒と同じだって思ってるんだから」
慈愛を装ったリオナードの顔から優しさが消えていき、かわりに残忍な影が現れ始めた。ジフトの肩を掴む手には段々と力が篭る。意識の下の本心を言い当てられた先ほどの自分のように変貌していく公爵を見て、ジフトの心が恐怖に引き攣ったが、もう眼をそらすことはできなかった。君の言うとおりだ、と、酷薄な笑みを浮かべ、公爵が肯定する。肩を鷲掴みされ身動きできないジフトの眼へ、黄緑の瞳から獲物を狙う蛇のような視線が注がれる。
「君が私の庇護を受ける気がないというのはよくわかった。キアラのことを第一に考えているのも理解した。……ならば、私から君に言えることはこれだけだ」
一旦言葉を切ると、リオナードはぐっと顔を近づけた。
「有能な駒であり続けろ、ジフト。君が私にとって使える人材である限り、私はキアラをあの組合から護ろう。忌々(いまいま)しいあの組合だけでなく、ありとあらゆる敵意から彼女を護ろう。キアラを救うために、努力し続けろ。己が身を鍛え、研鑽を積め。私が望む通りの働きをしてみせろ」
挑発的な台詞を吐いて、リオナードはジフトを突き飛ばすように解放した。よろめいたジフトが椅子の背に手をついて姿勢を立て直す。望みだと、と顔を歪めるジフトへ、冷たい声が降り注ぐ。
「まず、今から出る馬車で、キアラを機械宮に連れてくるんだ。――そう怖い目で睨むな。彼女の身柄を機械宮へ移すのは、君の懸念の一つを消すことにもなる、そうだろう? 」
言い返せない命令を聞いて、ジフトは強く歯ぎしりする。ぎり、と鳴る奥歯の間から、押し殺した声が出る。
「本当に、俺が言うことをきいていれば、キアラを見捨てないんだろうな」
「ああ」
即答するリオナードへ、それでもまだ疑いの抜けない表情を向けるジフト。誓えるか、とのジフトからの問いを、リオナードは笑った。
「この私と契約を交わそうというのか。誓いは私を縛る鎖になるが、同時に君にとっても戒めとなる。自分で自分の首を絞める可能性すらあるんだよ。それでもいいのかい? 」
「構うもんか――俺は、キアラを守れれば、それで……! 」
一途な狂気に身を焦がす少年を見下ろして、リオナードは口端をつり上げた。黄緑の瞳には嘲りと、憐憫の色さえも浮かんでいた。
「……いいだろう、君がそこまで望むのなら。――我は誓う。我が名、リオナード=セシルと、我が身、全ての身分、称号、所有物を賭けて。ジフト=クレイバーが我が下で働く限り、キアラ=グレイの身を守護することを」
背筋を伸ばし、己の心臓の上に右手を置いて、リオナードは宣誓した。古の詞に則った誓いを終えたリオナードが、その両の瞳をわずかに細める。これで君はもう逃れられない、と、薄ら笑みを浮かべた唇を動かさず囁く。しかしその声はあまりにも小さすぎて、ジフトに聞こえることはなかった。
拳を握り立ち尽くすジフトを見据え、リオナードが左手で機械の扉を示す。
「さあ、行くんだ。私を失望させないよう、せいぜい勤勉な働きぶりを見せてくれ」
最後まで聞かないうちにジフトが踵を返し、部屋を出ていく。キアラの身を守るために、と、去りゆくジフトの背中へむけて皮肉気味な言葉が投げかけられた。
傾く陽の光が注ぐ部屋の中、ジフトを見送って佇んでいたリオナードの背後で、人が動く音がした。肩越しに向けた視線の先には、銀と布でできた高い衝立と、それを超える長身の男性が書類を抱えてなんともいえない、という表情で立っている姿があった。やぁ、とリオナードが軽い挨拶をして、男性に部屋の中央まで来るよう招いた。
「対空砲増強のための草案は纏まったかな、スチュアート治安長」
「……」
名前を呼ばれたキルロイが、困惑した表情を浮かべたまま、公爵と同じ卓につく。どうした、と尋ねられ、一文字に結んだ口が開いた。
「先程の少年、何者なんだ」
問いかけに、ああ、とリオナードが答える。
「王国の秘宝を探すのに必要なものだよ。それに、彼はきっといい戦力になる。これから万が一にもロザリアの艦隊と一戦交えるようなことが起こったら、さぞかし頼もしい兵士になってくれるだろう」
いらない憶測までぺらぺらと喋る公爵の前で、キルロイは沈黙したまま書類の端をめくった。質問したくせに話を聴いていない様子の治安長に、リオナードが怪訝そうに片眉を上げる。キルロイが咳払いをひとつすると、その口を開いた。
「いや、ずいぶんと半端なことをするな、と――。秘宝の鍵をにぎる重要な人物だというなら、あんなまわりくどいことはせずに最初から人質を盾に誓いを立てさせてしまえばよかったものを。……懐柔と蹂躙の繰り返しは洗脳の基本だが、それにしては落差もなくて温すぎる。不信感を与えるのもよくないな」
今度はリオナードが沈黙する番だった。数秒の後、今度からこの手の説得は君に頼むことにしよう、と、リオナードが笑い混じりに冗談を言った。苦笑するリオナードの向かい側で、キルロイは未だ憮然とした表情をしている。
「……昔のあんたなら、追いかけて殴り倒してでもあの少年を助けようとしただろうに」
本当に救いを求めてるのは、あの少年のほうなんじゃないか、と、キルロイが呟いた。そして視線を書類に落として訂正がないか確かめる。二枚、三枚と確認を続ける治安長を一瞥して、公爵は朱から藍に変わっていく窓の外へ遠い目を向けた。
「見ず知らずの誰かを助けるだけの熱意と余裕を、もう、失くしてしまったからね」
自嘲のこもった寂しそうな声に、キルロイはヒスイ色の目を一瞬だけあげると、すぐもとにもどした。
「キュベレー女史が共和国へ出発するのは、明後日だったな」
「――ああ」
藍色の空を眺めるリオナードが、頷く。そうか、とだけ言うと、治安長は確認を終えた書類を公爵の前に置いて部屋を出て行った。