第十一話 竜の血 後編
昼下がりの陽光が、機械宮を取り巻く城壁に降り注いでいる。その北側、ジフト達が住む町からみて右手の方角に、二つの人影があった。長い髪を頭頂部で結んだ女性と、薄茶色の髪の男性。二人とも、フードがついた揃いの外套を着ている。城壁の面には噴水の水を排出するための大きな穴があり、二人はそこで何かを待っているようだった。流れる水は煉瓦造りの水路を通り、川へと流れ込む。ゆっくりと流れる川は、西に広がる血苺畑の間を縫ってどこまでも続いている。
女性が寄りかかっている城壁のすぐ近くに、開け放たれた扉があった。隙間から覗くと、機械宮へ来た客人や傭兵達のための馬場が見える。ぬかるんでいたであろう地面には、城壁の外へと向かう二人分の足跡だけが白く固まっていた。
「……遅いわね、あの子たち」
フードを下ろした女性が、厚く紅を引いた唇から吐息を漏らす。それにあわせるように、柔らかな風が吹いた。よく手入れされた長い髪がなびく。道に茂る草木の緑と対比を成すその暗茶の髪を、男性が一筋捕まえた。まだ日が沈むまで時間があるじゃないか、と、男性は女性の髪に口付けする。そのまま甘い香りを愉しんでいる男性に、女性はまた溜息を吐いた。淡褐色の瞳が、目の前の男性をみつめて呆れている。
「リオナード、そんなことしてる場合じゃないでしょう? もしかしたらあの子たち、地下で迷子になってるかもしれないわ。信用のおける人たちに捜索を頼みましょう」
名前を呼ばれた公爵が、伏せていた眼を上げた。やきもきしている女性の頬を、リオナードが指の背で触れる。さらさらと、川の流れる音が聞こえている。
「シュウ達なら大丈夫だよ、キュベレー。道は羅針球が示してくれる」
「そのわりには、地下から出てくるのに随分と時間がかかってるみたいね」
片方だけ顰めた女医の瞳を、公爵の黄緑の瞳が映す。僕は時間がかかってくれたほうが嬉しいけど、などと戯事を言って、公爵が悪戯っぽく微笑んだ。城壁に手をついて覆いかぶさるのを、女医が低めの声でリオナード、と名を呼んでたしなめる。触れ合った額の下で黄緑の目が落胆の色を浮かべるのを見て、キュベレーはリオナードの鼻先を人差し指で軽く押した。
「さっき部屋で話していたとき、あのお爺さんが言ってたでしょう? 地下は迷路みたいになってるって。シュウ君はとっても怖がりだそうじゃない。羅針球の灯りだけじゃ、あの広い地下はとても照らせたものじゃないわ。今頃、真暗な中で泣いてるかも……」
まるで自分の弟を心配するかのように、キュベレーは整った眉を寄せて訴える。その顔を見てリオナードも少し表情を曇らせたが、すぐ気を取り直すと鼻に触れている指を片手でそっと包んだ。
「シュウと一緒に居た子、ジフトって言ったかな。君が報告してくれた、キアラと仲良しだっていう子さ。あの子が付いてるんだから心配ないよ」
気を紛らわせようと、公爵は無責任にそんなことを言ってのけた。暑い日差しの下、リオナードがつくる影の中で、キュベレーの顔が俯く。伏せた目を覆う暗茶色の長いまつげが、温い風に震えた。
「その、キアラさんのことだけど」
強張った顔でぎこちなく言葉を紡ぐ。リオナードは二、三度まばたきすると、大真面目な表情でキュベレーの目を覗き込んだ。君が望むなら、あの形式だけの婚約はいつでも破棄しよう、と囁く。抱きしめられた腕の中でキュベレーが首を振ると、暗茶色の長い髪が公爵の腕に幾筋もの流れを作った。そういうことじゃないの、と、紅を引いた唇が開く。
「嫉妬してるわけじゃないわ。むしろ、自分自身を見てるみたいで心配なの」
自分を見上げる淡褐色の瞳を、リオナードが不思議そうにみつめる。その逞しい首に腕を回すと、キュベレーはリオナードの襟元に顔をうずめた。果実と同じ匂いの香水が、甘い香りを辺りに散らす。
「……約束して。キアラさんとジフト君を離れ離れにしないって。キアラさんを傷付けない、って」
もう二度と、誰にもあんな思いはして欲しくないの。震える声が、リオナードの鼓膜を揺らした。寄りかかる身体の重さと、触れる髪のしなやかさに、公爵は視線を落とした。背中に腕を回し、細く柔らかいからだをきつく抱きしめる。瞼を閉じて長い髪に頬を寄せると、背中に焼け付くような陽光の熱さと、腕の中の人肌の暖かさを、よりはっきりと感じた。
暗い瞼の裏に父が亡くなる前のことが浮かび、知らずしらず眉間に皺が寄る。もう少し力を入れれば折れてしまいそうなキュベレーの身体。勝気な表情の下に隠された脆い心を知っているからこそ、それを守ろうと必死になってきた。あの時も、そして今も。気持ちは変わっていない。
けれど、と、リオナードの胸の内で言葉が続く。自分は公爵であり、この都を治める者だ。爵位を継ぐ前から、ずっとそう教えられ、且つ理解していた。恋しい人と共に全てを捨てて逃げ出すには、自負の念が育ちすぎていた。
閉じていた瞼が、薄く開く。黄緑の目が映すのは、しなやかな暗茶の長い髪。
「――ああ、約束だ」
自分を見上げる淡褐色の瞳に、リオナードは微笑んだ。もう半刻経ったら、シュウ達を探しに行こう。そう言うと、キュベレーの表情が明るくなる。嬉しそうに胸元へ頭を預けるキュベレーを、黄緑の目が静かに見下ろした。長い髪を指が梳く。
王国を、機械の都を守るには、キアラと彼女が持つ情報が必要だ。今後の政略のため、どうしても外すことはできない。
――しかし。
同じ結果に辿り着くにも、方法は幾通りもある。ならば、可能な限り穏便な道を選んでいこう。
――最小の犠牲で、最大の成果を、か……。
甘い匂いを嗅いで一時の安息に浸るリオナードの脳裏に、『虚ろの間』で見た古代の言葉が過ぎった。薄氷のような笑みを浮かべた口から、ふ、と息が漏れる。ほんの微かな音は、錆の匂いのする風に掻き消され、誰にも聞こえることはなかった。リオナードの胸に身を預けている、キュベレーにさえも。