第一話 機械の都
海原のように青の波が広がる大地。そこに無数にある穴の一つから大きな耳を持つ小動物がひょっこりと顔を出した。湿った鼻をひくつかせ、潤んだ大きな目が地平線の果てを見遣る。赤い目に映ったのは、大型の草食動物が土を巻き上げて駆けてくる様子だった。
慌てて地面に戻ろうとする小動物の上を、勇ましい足音を立てて草食動物が走っていく。その背中に乗る厳格な服を着た凛々しい青年が、手綱を使って足を急かす。花を踏み土を蹴散らし彼が目指すその先には、地平線を覆うほど長い城壁が太陽の光を浴びていた。
「ジフト、気をつけなっ」
ふくよかな中年女性に声をかけられ、ジフトと呼ばれた少年は振り向いた。薄い茶色の髪が揺れて、黒い油で汚れた人懐っこそうな顔が女性のほうを向く。愛嬌のある焦げ茶の瞳が不思議そうに女性を見詰めた。
首を傾げて女性に近付くジフトの背後を、錆付いた機械が通っていく。頭上ぎりぎりを進む木材をひょいと避けると、胸を撫で下ろす女性の前で得意そうに鼻をこすった。手についた油が、鼻の頭に汚れをつける。
「へへっ、大丈夫だって。赤ん坊のときからここに住んでるんだから、もう慣れっこさ」
真白な歯を見せて笑うジフトの後ろを、今度は人を乗せた機械が通っていった。荷台に川でとれた魚を乗せて、乗り込み操縦形のずんぐりした人型機械が賑わう街の大通りへ入っていく。操縦席に乗る人を羨ましそうに見送るジフト。指をくわえて人型機械を眺める少年に、中年女性はふくよかな胸から息を吐き出した。笑いながら首を振り、布で包んだ良い匂いのする食べ物をジフトに渡す。
「やれやれ――。夢みるのもいいけど、まずは自分の食い扶持稼げるようにならなくちゃね」
ありがと、と食べ物を受け取ってジフトがぺこりと頭を下げる。優しい笑顔で頷くと、中年女性は一転して険しい表情になった。早速包みを開けて中身を頬張るジフトを見詰め、陽気な声のを低くして耳打ちする。
「ジョー爺さんから聞いたんだけど、今日この街に賊が来てるそうだよ。”お客”を選ぶときは、慎重にね」
「賊? どんな? 」
ジフトが焦げ茶の瞳をくるくる動かし、残りの食べ物を全て口に放り込んだ。中年女性が眉をひそめ、人差し指を唇に当てる。周囲に抜け目ない視線を走らせると、雑踏の流れから外れたところへジフトを手招きした。もぐもぐと口を動かしながらついていくジフト。女性が振り返り、一枚の紙切れをジフトに見せる。そこには、立派な戦艦の絵と莫大な額の懸賞金が載っていた。
「空賊さね。首都のほうでは結構な騒ぎになってるらしい。これを好機に、空賊一味を捕まえようと都から官吏も来てるんだとさ」
声を落として囁く女性の傍らで、ジフトはじっと紙の中の戦艦に視線を注いだ。目を輝かせて夢中になっているジフトの視線を、女性のふくよかな手が遮る。口を尖らせるジフトに紙切れを渡すと、くれぐれも気をつけるんだよ、と女性は釘を刺した。
「ほら、そのお尋ね状は持ってっていいから。怪しい奴にはちょっかい出すんじゃないよ」
「はーい」
女性の言葉に返事をしたが、ジフトの眼は紙の中の戦艦に釘付けで完全に上の空だ。ふらふらと足の赴くままに入り組んだ小道を歩くジフトに、裕福な格好の男がぶつかった。すぐ謝るジフトを、男はいらついた眼で一瞥して去っていく。その背中へぺロリと舌を出し、また歩き出す。
背後に隠した右手には、ぎっしり金貨の詰まった財布がちゃっかり握られていた。
そのまま鼻歌を奏でて本通に入ろうとするジフトの目に、貧しい身なりの子ども達が映る。痩せた腹をさすっている子ども達の前に立つと、ジフトは金貨の詰まった財布を差し出した。それと、半分残しておいた食べ物も。
顔を輝かせて食べ物に飛びつく子ども達の一人が、財布を受け取りながらいたいけな瞳をジフトに向けた。
「いいの? ジフト兄ちゃん、操縦試験のためにお金が要るんじゃ――」
「気にすんなって。それでなんか美味いもん食えよ。……あ、フレンのばっちゃんには内緒にしてくれよな。また昼飯の量減らされちゃ、指の動きが鈍っちまうし」
舌足らずに尋ねる子どもの頭をわしゃわしゃと撫でると、ジフトはいたずらっぽく笑った。それを見上げながら、子どもがまだ湯気の出る食べ物をおいしそうに頬張る。漂ういい匂いに唾を飲み込み、ジフトは子ども達に別れの挨拶をした。
油と汗と埃の匂いがする本通りを歩き、ジフトが空を見上げる。空賊かぁ、と呟いて、ジフトは己の手の平を見詰めた。黒い油に塗れたまめだらけの手は、驚くほど滑らかに、そして繊細に動く。もし、この手で機械を操れたら……。心の中で巨大な戦艦を自由自在に動かす自分を想像して、ジフトは円い目を輝かせた。空賊の持つ戦艦に心躍らせるジフトを、人型機械が邪魔そうに追い抜いていく。操縦席の人に睨まれて、ジフトはすごすごと本通の端へ移動した。
「――ああ、操縦試験受けたいなぁ――」
口を尖らせて溜息をつくジフト。そのすぐ横では、小ぢんまりした屋台で錆と油にまみれた機械の部品が売られている。油の抜けた老人が、声を張り上げて売り上げ口上をまくしたてた。
「さぁさぁ寄った寄った! 今日の目玉は、都から仕入れた最新型の駆動機だよ! おっと、お兄さん。部品を買うなら許可証を見せてくれ。……なに、持ってない? だめだめ! 操縦試験の合格証を持ってない奴には、ネジ一本たりとも売れないね」
老人に追い返され、労働者風の青年は頭を掻いて店をあとにした。どうやらだれかに頼まれた使い走りだったらしい。困ったな、と呟いて青年は金貨を指で垂直に弾いた。
追い返された青年を見て、ジフトはまた肩を落とした。半年に一度行われる操縦試験に合格しなければ、機械の部品を買うこともできないのだ。幸い、ジフトは廃材置き場から拾った部品で、それらしいものを作って遊ぶことができたけれど――。そんな玩具では、ジフトを満足させることはできなかった。本物の機械に触りたい、動かしてみたい。無邪気な好奇心は、ジフトの中で着実に成長していた。
――そのためには、試験料を捻出しなくては。
焦げ茶の瞳をくるくると動かして、ジフトは流れゆく人々を観察した。
貧困街に生まれた半人前の少年に、まともな仕事など廻ってこない。多くの子どもがそうしているように、ジフトもまた人々の財布を失敬してその日の糧を得ているのだった。――もっとも、ジフトの場合は、まだ自分で稼げない小さな子ども達に獲物を殆ど渡してしまうのだが。
次々とやってくる人の顔に走らせていた視線が止まった。見詰める先には、豪奢な刺繍を施した服を着る女性の姿。耳元できらりと光る金の耳飾を見て、ジフトは決心した。あれぐらい金持ちなら、少しぐらい金を頂いても困らないだろう。獲物を狙う眼光が肉食獣のように鋭くなり、ジフトはそっと歩き出した。
不自然に思われない程度に雑踏を横切り、ゆっくりと時間をかけて女性のもとへ近付いていく。ぎらぎらと照りつける太陽が、汗の流れるうなじを焼いた。女性はジフトが自分を狙っていることなど気付かずに、みやげ物の果物酒を選んでいる。
――今だ。
女性が奥の商品を見ようと手を伸ばしたそのとき、空いた脇へジフトの手が滑り込んだ。一つの無駄もない動きで、完璧に制御された指が、女性の懐にある財布を抜き取る。衣擦れの音さえ、しなかった。
成功だ。ジフトが確信したそのとき、後頭部に冷たく重い何かが押し付けられた。
「――姐さん、こいつ……」
酒に焼けた若い男性の声に、女性が金の耳飾りを揺らして振り返った。見下ろす視線に捉えられたジフトが、円い目を一層まるく見開く。
豪奢な服を着た女性は、まるで彼女自身が宝石で出来ているように輝いて、息を呑むほど美しかった。