3話_ 優しいお姉ちゃんになるって決めた日
――あれは、まだ私が小さかった頃の話。
空が淡く色づく、朝の庭。
今日も、ノワールさんに見守られながら、私とティナは魔法の訓練をしていた。
そして明日は、ティナにとって大切な日――
ティナのお母さんの命日だった。
芝生の上で構えをとるティナは、いつになく真剣な顔をしていた。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整え、手のひらに魔力を集めていく。
「……いけっ!」
小さな叫びと共に、彼女の掌から――
「――わっ! で、出たぁっ!」
ぽすっ。
……情けない音と共に、ふわっと小さな火球が浮かび上がる。
けれど、それは紛れもなく、ティナの初めての火球魔法だった。
「やったぁーっ!! リリ姉見て見て見てっ! 火の玉できたよ!!」
くるくる回りながら大はしゃぎするティナ。
自分の出した小さな火球が、よほど嬉しかったのだろう。
「ふふっ、すごいね」
私は笑顔を浮かべる――ふりをした。
胸の奥が、少しだけ、ちくりと痛む。
「明日、お墓参りのときにね、お母さんに報告するんだ~っ!
『ティナ、火の玉出せるようになったよ!』って!」
ティナは楽しそうに手を振りながら、火球をくるくる回そうとして――ぽふんと自滅した。
「……あはは、まだうまく動かせないけど!でも、明日までにもうちょっと練習する!」
そう言って満面の笑みを浮かべるティナを見て、私は――
何も言えなかった。
――だって、私は。
火球魔法すら、まだまともに成功していなかった。
◆ ◆ ◆
その日の夕方、ティナは先に戻った。
私は、ひとり庭に残り、魔法の練習を続けていた。
何度も、何度も挑戦した。
でも、火球は宙でぼやけて消えるだけ。
右手の刻印は、じりじりと熱を持ち続けているのに――
「……なんで、できないの……」
魔力を集めても、熱に変換しようとしても、何かが噛み合わない。
私の魔力は、どこか“歪んでる”ような感覚だった。
刻印のせい? それとも、私自身が――
その時だった。
「まだやってたの、リリ姉?」
声がして振り向くと、ティナが息を切らしながら庭に戻ってきていた。
あんなに嬉しそうに帰っていったはずなのに――どうして。
「もう暗くなっちゃうし、そろそろやめたほうがいいんじゃ――」
「……やめてよ」
思わず、ぴしゃりと遮っていた。
自分でも驚くくらい、きつい声だった。
ティナがびくりと立ち止まり、目を見開く。
「だって、リリ姉……お昼からずっとここにいるし、疲れてるんじゃないかなって」
「ティナには関係ないでしょ!」
「あるもん!!」
ティナが、珍しく大きな声を出した。
「だって、ずっと一緒に練習してたんだよ!? リリ姉の顔、なんかずーっと怖かったし!」
「は? 怖くなんかないし!」
「あるよ! さっき火の玉が出た時だって、ぜんっぜん笑ってなかったもん!」
「……それは」
「……嬉しくなかったの?」
「別に、そんなことないし……」
しどろもどろになる私を見て、ティナがむっと眉を寄せる。
「うそだ。リリ姉、ずっとイライラしてたよね? どうして?」
「……ティナには、わかんないよ」
「わかるよ! わたしだって――ずっと一緒に練習してたんだもん!
リリ姉の魔法が出なくて、手が震えてるのも見たし……」
「――見ないでよっ!」
叫ぶように声が出た。
「勝手に、見ないでよ……!!」
涙が滲むのをごまかすように、私はティナに背を向けた。
「……リリ姉?」
「……ティナだって、昨日まで全然できなかったくせに……!」
「え……」
「今日ちょっとできたからって、えらそうに……! いい気になって!」
「なってないよっ!!」
ティナの声が、びりびりと空気を震わせる。
「リリ姉がずっと頑張ってるの、わかってるよ!
だから、無理しすぎないでって……言いたかっただけなのに!」
「うそつきっ!」
「うそじゃないもんっ!!」
「じゃあどうして、あんな嬉しそうな顔してたのっ!? わたしが失敗してばっかだったのに……ティナばっかり……っ」
悔しかった。情けなかった。
それが全部、言葉になってティナにぶつけられていく。
「――ティナのくせにっ! なんで火の玉なんか……っ!」
「くせにってなに!? そんなの、言わなくていいじゃん!!」
「言いたくなるくらい、ムカついたの!!」
「リリ姉のばか!!」
「ティナのばか!!」
ふたりの声が重なって、夜空に響いた。
どちらも譲らない。
涙も出そうだったけど、悔しくて泣きたくなかった。
……でも。
その瞬間だった。
ズンッ、と胸の奥で何かが重たく跳ねた。
右手が、びり、と熱を持つ。
「……あ……」
ぞわり、と背筋をなぞるような感覚が走り、思わずその場にしゃがみこんだ。
「リリ姉……?」
ティナが心配そうに駆け寄ってくる。
でも、近づいちゃ――だめ。
「……来ないで……っ!」
「え?」
「だめ、来ちゃだめっ!!」
私の叫びと同時に、右手の刻印が眩い光を放った。
それは、まるで“怒り”に反応するように、赤く脈打ち――
そして次の瞬間、
――ボンッ!
大気が炸裂するような音とともに、魔力が暴走した。
爆風が私の周囲を吹き飛ばし、草木を巻き上げる。
ティナが吹き飛ばされ、地面に転がるのが見えた。
「――ティナッ!!」
自分の声が、風にかき消された。
この手で、私は――
大切な人を、傷つけてしまった。
その光景が、焼きついて離れない。
私の手の中で脈打っていた魔力は、もう感じないのに。
胸の奥は、ずっと冷たいままだった。
「……あ……」
力が抜けて、膝から崩れ落ちる。
どこかで誰かの叫ぶ声が聞こえた気がした。
でも、耳がじんじんしていて――何も届かない。
視界が、ぐにゃりと歪んでいく。
それでも、倒れながら最後に見たのは……
……ぐしゃぐしゃに泣きながら、必死で私に手を伸ばすティナの顔だった。
◆ ◆ ◆
……あたたかい。
ふわりと、あたたかな何かに包まれている感覚がした。
まるで、朝の陽だまりの中で眠っているみたいな――そんな、心地よいぬくもり。
「……ん……」
ゆっくりとまぶたを持ち上げると、そこには見慣れた天井があった。
……私の、部屋。
かすかにハーブの香りが鼻をくすぐる。
目を動かすと、ベッドの横にはママが座っていた。
柔らかな表情で、私の額に濡れた布をそっと置いている。
「……ママ……」
「気がついたのね。よかった……」
その声は、少しだけ震えていた。
「無理に喋らなくていいわ。……今は、身体を休めるのが先よ」
私の髪をなでるママの手が、あたたかくて優しくて。
それだけで、涙が出そうになる。
だって――
さっきまでのできごとが、まるで夢みたいで。
でも、右手の甲に残る、じくじくとした痛みだけは……現実だった。
◆ ◆ ◆
しばらくして、ベッドのそばの壁にもたれかかるように立っていた、ノワールさんが動いた。
表情はいつも通り無口で無表情だけど、彼の存在がそこにあるだけで、私は少しだけ安心できた。
「……ティナは……?」
かすれた声で尋ねると、ママが静かに笑う。
「大丈夫よ。少し擦りむいたくらいで、もう元気。さっきまでここにいたけど、あなたが眠っているからって、静かに帰っていったわ」
そうか――
傷つけてしまったはずなのに、無事だったんだ。
「……よかった……」
力が抜けて、ベッドに沈みこむ。
「リリシア。あなた……魔力が不安定になっていたのね」
ママが、私の右手をそっと握る。
そこには、うっすらと紅く脈打つ刻印が、まだ熱を帯びていた。
「原因は、これ……なの?」
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ」
ママの声は、どこまでも穏やかだった。
「この刻印は、あなたの中にある“感情”にとても強く反応するの。とくに、怒りや悲しみ、不安――そういった揺れが大きいほど、魔力の波が激しくなってしまうのよ」
「……私のせい……なんだ」
「違うわよ、リリシア」
優しい声で、ママは私の手を包み込むように握りしめた。
「それは、あなたが“誰かを想う心”を持っているから。……大切な人を傷つけたくない、その想いが強いからこそ……刻印が反応したの」
「でも……でも、わたし……」
唇が震えた。
言葉にしようとすると、涙が勝手に溢れてきた。
「ティナを……っ、傷つけちゃったのに……っ!」
「違うの。あなたは、必死に止めようとしたのよね」
「止められなかったよ……! 何にもできなかった……!」
「できたわよ。あの瞬間、リリシアが最後の理性で“叫んだ”から、暴走が一部だけで済んだの。あれがなかったら、もっと大きな被害になっていたはずよ」
「……でも……」
涙が止まらない。
怖かった。
自分の中にある力が、まるで“別の何か”みたいに暴れたのが怖くて。
ティナのあの顔が、焼きついて離れない。
「……ごめん、なさい……」
ぽつりと、震える声がこぼれる。
ママは黙って、私の頭を抱き寄せてくれた。
何も言わずに、ただぎゅっと。
◆ ◆ ◆
少し落ち着いたころ、ノワールさんが、部屋の隅に置かれた銀盆を持って近づいてきた。
湯気の立つカップが、一つ。
「……これを」
そう一言だけ残して、カップをそっとママに渡す。
ママはそれを受け取ると、ベッドにいる私の口元にカップを近づけた。
「ハーブティーよ。……ゆっくりでいいから、飲んで。あなたの魔力を鎮めるブレンドにしてあるの」
ふわりと、花のような優しい香りが鼻をくすぐる。
一口飲むと、じんわりと身体の奥が温まっていくのがわかった。
「……ありがとう、ママ……ノワールさんも……」
そう言って目を閉じると、涙でこわばっていた心が、少しだけほぐれていくのを感じた。
――ごめんね、ティナ。
次に会ったときは、ちゃんと……謝らなきゃ。
◆ ◆ ◆
――翌朝。
空は雲ひとつなく晴れていて、空気は少し肌寒かったけれど、どこかすがすがしさもあった。
昨夜の混乱が嘘のように、私の右手の刻印は、もう静かに淡い桃色へと戻っていた。
胸の奥に残っていたざらつきも、ほんの少しだけ和らいでいる気がする。
私は、パパとママ、そしてノワールさんとティナと一緒に、丘の上の墓地を訪れていた。
目的はひとつ。
ティナのお母さん――カレンさんの墓前に、手を合わせること。
毎年恒例の、静かな時間。
今年も、変わらないはずだった。
「……ここよ、ティナ」
ママがティナの背中をそっと押す。
私たちは並んで、墓前に立ち、ゆっくりと手を合わせた。
……ティナは、嬉しそうに報告するのかな。
昨日、あんなに張り切ってたもんね。
「お母さんに、火の玉できたって言うんだ〜!」って、何度も言ってた。
でも、隣に立つティナは――
じっと墓石を見つめたまま、口を開かなかった。
どうしたんだろう。
そう思って顔を向けた、その時。
「……ねえ、リリ姉」
ティナが、私の袖をくいっと引っ張った。
「このお墓……なに?」
――え?
「誰の……お墓なの?」
時間が、止まった。
私の、心臓が凍りついた。
何を言ってるの? ティナ……
だって、ここは、あなたの――
言葉が、喉の奥に引っかかって、出てこない。
「…………え?」
かろうじて出た声は、あまりにもかすれていた。
ティナは、きょとんとした顔で墓石を見つめたまま、首をかしげている。
本当に、何も知らないみたいに。
「この人……誰? 知ってる人?」
無邪気な声。
だけどその言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さった。
私の視界の端で、パパが息を呑んだのが見えた。
ノワールさんの顔が、静かに強張っていく。
ママはティナの肩にそっと手を置いて――けれど、声はかけなかった。
――まさか。
まさか……忘れてるの?
自分の、お母さんを――?
頭の中で誰かが「そんなはずない」と叫ぶ。
でも、目の前のティナの表情が、それを静かに否定していた。
「お花、きれいだね〜。この人、好きだったのかな?」
ティナは、屈んで墓前の花を撫でる。
その何気ない仕草が――あまりにも自然で。
だからこそ、信じられなかった。
ティナの記憶から、“カレンさん”が消えてる。
あの夜の暴走で――
「…………ッ」
ぎゅっと、右手を握りしめる。
刻印がじくりと熱を帯びた気がした。
私のせいだ。
私の魔力が、ティナの大切な記憶を――奪ってしまったんだ。
「……リリ姉?」
不意に、ティナがこちらを見上げる。
その顔には、何の疑念もない、いつも通りの笑顔が浮かんでいて。
でも――私には、もう、まっすぐ見られなかった。
帰り道の馬車の中は、ずっと静かだった。
ティナは、車窓の外を眺めながら、鼻歌をうたっていた。
さっきまでと、なにも変わらない。いつもどおり、楽しそうで――
……それが、いちばん、こわかった。
あの言葉。
「このお墓、誰の?」――
ティナは、忘れちゃったんだ。
お母さんのこと。
大事な、大事な人のことを。
……私のせいで。
◆ ◆ ◆
お城に帰ると、すぐに私は自分の部屋に戻ろうとした。
でも、パパが優しく肩に手を置いた。
「少し、話せるか?」
その声に、私はただ、こくんと頷いた。
ティナは「ねー、リリ姉ー!」って追いかけてこようとしたけど、ママがそっと手を引いて、にこっと笑ってくれた。
「今日は疲れたでしょ? リリシア、少しパパたちとお話してからね」
「えー、ずるーい。わたしも混ぜてよーっ」
「だーめ♪ 子どもにはまだナイショのお話よ」
「えぇ~……」
ぶーぶー言いながらも、ティナはおとなしくノワールさんと別室に向かっていった。
◆ ◆ ◆
パパの書斎。
いつもは広く感じるその部屋が、今日だけはやけに静かで、冷たく見えた。
ママが静かに紅茶を注ぎ、その香りだけが重苦しい空気にやわらかな色を添える。
私はテーブルの端に、ちょこんと座っていた。
「……ティナの、記憶……」
声にしようとした瞬間、喉の奥が震えて、言葉がにじむ。
「……やっぱり、消えちゃったの……?」
パパとママが視線を合わせる。
しばらく、時計の針の音さえ聞こえそうな沈黙が流れ――
ようやく、ママがゆっくりと、穏やかな声をこぼした。
「……ええ。そうみたいね」
「……わたしのせい、だよね……」
こらえようとしていた涙が、ぽろぽろと頬を伝う。
「リリ姉、火の玉できたよ!」と無邪気に笑っていたティナの顔が、頭から離れない。
あんなにお母さんに見せたいって言ってたのに。
もう――思い出せないなんて。
「ごめんなさい……ママ、ごめんなさい……」
私が言うより早く、ママは隣に座り、そっと私を抱きしめてくれた。
その腕があたたかくて、胸の奥の氷が少しだけ溶ける。
「あなたが謝ることじゃないのよ。ね?」
「でもっ、でも……ティナ、泣いてたのに……
本当は、すっごく悲しいのに……覚えてないって……!」
「それでも、あなたは守ろうとした。ちゃんと、止めようとしたじゃない」
「……ぜんぜん……止められなかったもん……っ」
悔しくて、情けなくて、怖くて――
自分の魔力が、誰かを傷つけたという現実が、胸をしめつける。
「なぁ、リリ」
パパの低い声が、重く静かに響いた。
私はママの胸に顔をうずめたまま、こくりとうなずく。
「このこと、ティナには……伝えない方がいいと思う」
「……うん」
「思い出せって言うのは……ティナを、もっと傷つけるかもしれないからな」
私はぎゅっと、自分の服を握りしめる。
あんなこと言っちゃったのに。
ぶつかったままだったのに。
――ごめん、も言えなかった。
なのに、あの子は笑って「リリ姉〜」って、いつもみたいに手を伸ばしてくれて。
「……わたし、今まで通りにする……」
ぽつりと、こぼれる言葉。
ママがそっと、私の手を握ってくれる。
「ティナに、気づかれないようにする。
ちゃんと、いつもどおりに、笑って接する……」
――そうじゃないと、いけない。
私が泣いたら、きっと、あの子は不安になる。
悲しくなる。
だから。
「わたしが、隠す。……絶対、言わない」
その日から、私は“優しいお姉ちゃん”を演じることにした。
ティナの記憶にいない「カレンさん」の代わりなんて、できないけれど。
それでもせめて――あの子の日々を、変わらず守ってあげたかった。
たとえ、あの夜の記憶が私の胸で消えなくても。
刻印が、まだ熱を帯びていても。
私は、前を向くしかなかった。
――
……あの日のことは、今でも胸の奥に焼きついている。
後悔も、決意も、そして――誰にも言えない想いも。
誰に認められなくても、忘れられてしまっても、それでも。
私は、あの日の想いを抱きしめて、生きていくと決めた。
……遠くから、誰かが私を呼ぶ声がする。
ごとん、ごとん、と。
馬車の揺れが、現実へと引き戻していく。
目を閉じたまま、私は小さく息を吐いた。
――もうすぐ、グラディスに着く。




