45話_ 呪いを越えて、友を救う光
地響きと共に、夜の広場がざわめきを飲み込んだ。
フィオナの咆哮――それは、心を剥き出しにした“叫び”だった。
血のように紅い瞳が、闇を裂くように光る。
その身を包む魔力は、もはや“人の意志”を逸脱していた。
だけど私は――ただ黙って見ていることなんて、できなかった。
「リリシア、下がって」
リシルが一歩、前に出る。
その声は冷静で、けれど迷いを含んでいた。
「ここからは“力”で止めるしかないかもしれない」
「でも……!」
私は、反射的に前に出ていた。
震える足を、しっかりと地面に踏みしめる。
「……わたしが、行く」
リシルが驚いたように目を見開く。
「なにを言ってるの? 彼女は今、自分を見失ってるのよ……!」
「だからだよ」
私は、右手をぎゅっと握りしめた。
刻印が、熱く疼いている。けれどそれ以上に、胸の奥が痛かった。
「あの目を……見たから」
あの、泣きそうな瞳を。
怒りも悲しみも、強がりも、全部が入り混じっていた――孤独な、あの瞳を。
「フィオナは、今にも壊れそうなんだよ。……だから、わたしが受け止めたいの」
風と魔力が渦巻く中、私は一歩、また一歩と、フィオナのもとへ歩き出した。
「リリシア……!」
リシルが手を伸ばしかける。
けれど、私は振り返らずに言った。
「大丈夫。――これは、わたしの“わがまま”だから」
そうだ。
あの子は、ずっと私のために、我慢してた。
気づいていたのに、知らないふりをしていたのは――私の方だった。
だから今こそ――その全部を、受け止めたい。
吹き荒れる魔力の奔流――それを真正面から浴びながら、私はフィオナに向かって、ゆっくりと歩みを進めた。
「フィオナ……」
呼びかける声は、風にかき消される。
だけど、確かに届いていると信じた。
フィオナの顔が、ぴくりと揺れる。
その瞳が、こちらを睨みつけるように見開かれた。
「来ないでよ……!」
鋭い声が、夜気を裂く。
「またそうやって……! あたしの前で“優しい顔”して……!
なんでも受け止めてくれる“魔王様”気取りで……!!」
彼女の言葉は、痛いほど真っ直ぐだった。
鋭くて、突き刺さるような声なのに――その奥に、泣き出しそうな震えが混じっていた。
「もう、甘えられるのなんてイヤなの! 頼られるのも、期待されるのも……全部、苦しいのよっ!」
叫びながら、フィオナが右腕を振るう。
その一撃が、大地を裂き、魔力の衝撃が地面を波打たせた。
けれど私は、立ち止まらなかった。
踏み出すたびに、空気がびりびりと震える。
焼けつくような魔力が肌を刺すたびに、それでも、心は揺るがなかった。
「お願いだから……来ないで……!」
フィオナが、涙まじりに叫ぶ。
その瞳には――怯えがあった。
怒りじゃない。
拒絶でもない。
それは、自分自身への怖れだった。
「リリシア、危ない! これ以上は……!」
背後から、リシルの声が届いた。
けれど私は、振り向かずに首を横に振った。
「お願い、手を出さないで」
「でも、彼女は――」
「わかってる。でも、わたしは逃げない。もう、向き合うって決めたから」
静かに、でも確かにそう告げた。
――この想いは、わたしの“わがまま”なんだ。
それでも、この手を差し伸べたい。
たとえ拒まれても、傷つけられても。
それでも――“友達”として、彼女の心を抱きしめたい。
赤い魔力が渦を巻き、フィオナの身体を中心に吹き荒れる。
その中心で、彼女は震えていた。怒りに――いいえ、きっと、不安に。
「フィオナ、お願い……もう、ひとりで背負わないでよ」
私の声に、フィオナの肩が、びくりと揺れた。
「……っ、うるさいっ!!」
涙の滲んだ声が、魔力に乗って爆ぜる。
「リリは……なにも知らないくせに、勝手なこと言わないでよっ!!」
魔力が跳ねた。
けれど私は、一歩も引かない。
「リリとティナは……ずっと“妹”みたいな存在だったんだよ……!
だから、あたしがちゃんとしなきゃって、ずっと、ずっと思ってきたの!」
叫びは、心の奥からこぼれ落ちるように続いた。
「泣いちゃいけない。弱音を吐いちゃいけない。甘えたら、ダメなんだって……!
“しっかり者のフィオナ”じゃなきゃ、誰にも頼られなくなるって――そうやって、自分を縛ってきたのに……!」
その声は、どこまでも苦しくて、哀しくて。
そして、どこかで――私自身にも、突き刺さるものだった。
「でも、もう限界だったんだよ……!
怖くて、悔しくて……でも誰にも言えなくて……!!
なのにリリは、そんなことも知らずに……!」
フィオナの視線が、真正面から私を射抜いた。
「“大丈夫だよ”なんて……そんな無責任な優しさで近づかないでよ!!」
魔力が暴走し、空気がビリビリと歪む。
それでも、私は――
「……ごめんね」
まっすぐに、彼女の目を見つめながら、そう言った。
「……!」
フィオナの魔力が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。
「……エリザベート様の言葉、覚えてる?
“甘えたら、周りが疲弊する”――あれを聞いたとき、正直、怖かった。
だって、わたしはずっと、周りに甘えてきたから。
ティナにも、パパにも、フィオナ……あなたにも」
「――自分が誰かに頼ってばかりで、
そのことで誰かを苦しめてるなんて……考えたこともなかった」
私は、ぐっと唇を噛む。
「でもね、気づいたの。
“誰かに甘えること”と“誰かを壊すこと”は、同じじゃないって。
本当に怖いのは、誰にも頼らずに壊れていくことなんだって……ようやく、わかったの」
私は一歩、フィオナに近づく。
「……あなたが“誰にも甘えない”って決めたのは、
きっと、誰かを守りたかったからだよね。
でもね、わたしは思うの。
守るために、全部一人で背負い込んで、苦しみ続けることだけが強さじゃないって」
その言葉に、フィオナの表情が、ぐしゃりと崩れかけた。
「だから……もう、“しっかり者のフィオナ”じゃなくてもいいんだよ」
「お願い。わたしに、甘えてよ。
もう無理って、泣いてもいい。怒ってもいい。
強がるのに疲れたなら、ちょっとくらいわがまま言ったっていいじゃない」
「フィオナ。あなたがそうしてくれるなら――わたし、何度でも支えるから」
――でも。
「今さら……今さらそんなこと言われたって、もう止められないの!!」
フィオナの絶叫が、夜の空を震わせる。
赤い魔力が大きくうねり、爆発するように周囲へと放たれた。
その奔流に私は吹き飛ばされそうになる――けれど、踏みとどまった。
フィオナの目から、涙が一筋だけこぼれ落ちるのが見えた。
けれど、彼女自身はその涙に気づいていない。
(……本当に、限界だったんだね)
魔力の中心で立ち尽くす彼女は、まるで――自分自身を壊してしまいたいかのように見えた。
暴走は止まらない。
もう“言葉”だけじゃ、届かない場所まで来てしまっている。
――それでも。
私は、足を前に踏み出した。
灼熱の風が、頬を斬る。
心臓が、焼けつくように高鳴っていた。
でも、迷いはなかった。
たとえこの手が届かなくても――
それでも、私はフィオナのために、ここにいるって伝えたい。
「フィオナ……!」
最後の一歩を踏みしめて、私はそのまま、彼女の身体を――強く、抱きしめた。
暴風みたいな魔力が、背中に叩きつけてくる。
息が詰まりそうになる。
全身が焼けるように熱くて、どこかが軋むように痛かった。
それでも、私は離さなかった。
「……もう、ひとりで泣かないで」
フィオナの身体が、びくって震える。
「誰にも頼れなくて、怖くて、苦しかったんだよね。
でももう、大丈夫。……私が、ここにいるから」
これは、祈り。
願い。
そして、私の――わがまま。
“フィオナに甘えられたかった”
“頼られたかった”
“信じてほしかった”
その全部を、ようやく言葉にできた。
「だから……帰ってきて、フィオナ……」
私の手のひらが、じんわりとあたたかくなる。
――え?
気づけば、右手が光を放っていた。
胸の奥から滲み出すような、やさしい光。
ふわり、と私たちを包み込むように広がっていく。
荒れ狂っていたフィオナの魔力が、ほんの少しだけ、やわらいだ気がした。
……これが、私の“光”?
私の手のひらが、じんわりとあたたかくなる。
――え?
気づけば、右手が光を放っていた。
胸の奥から滲み出すような、やさしい光。
ふわり、と私たちを包み込むように広がっていく。
荒れ狂っていたフィオナの魔力が、ほんの少しだけ、やわらいだ気がした。
……これが、私の“光”?
後ろから、小さな声が聞こえた。
「……これは……《浄化の光》……?」
リシルの声だった。息をのむような気配が伝わってくる。
「まさか……本当に、あれを使えるなんて……。
リリシアにしか扱えない、唯一の“浄化の光”……!」
――《浄化の光》。
そう、これはきっと――
私にしか届かない、フィオナへの“想い”そのもの。
でも、これは魔法じゃない。
“力”でどうにかしてるんじゃない。
私はただ、フィオナに――大切な人に、この手を伸ばしたかっただけなんだ。
この想いが、ほんの少しでも届いてくれたなら――
私の胸に、フィオナの小さな震えが伝わってきた。
それでも彼女は、まだ叫んでいた。
「……いやっ……あたしは……っ!」
声にならない声が、喉の奥で途切れ、赤い魔力が最後の抵抗のように渦巻いた。
けれど――
その声と共に、何かが溶けていく。
絡みついていた呪いのような魔力が、淡く、ほどけていくように――
黒く淀んだ気配が、光の中に溶けて、静かに消えていった。
「……あ……」
フィオナの声が、かすれたように漏れた。
次の瞬間、彼女の身体から力が抜ける。
ふらり、と沈むように、そのまま意識を失って――
私は、咄嗟に彼女の身体をしっかりと抱きとめた。
「フィオナ……!?」
その顔は、穏やかに眠っているようで。
けれど、意識はどこにもなく――私は胸が締めつけられるような不安を覚えた。
「フィオナ! ねぇ、起きて……っ!」
揺さぶるように声をかけ続けていたそのとき、ふいに肩に柔らかな重みが加わった。
「リリシア、落ち着いて」
振り返ると、そこにはリシルがいた。
彼女の表情は真剣だったけれど、どこか安心させるような、落ち着いた目をしていた。
「気を失ってるだけよ。命に別状はないわ」
「……ほんとに……?」
「ええ。浄化の光が、彼女の中の“呪い”も、溜め込んでいた苦しみも、全部受け止めてくれた。
今は、ただ眠ってるだけ。……ようやく、肩の荷が降りたのよ」
その言葉に、私はようやく息をつくことができた。
ぎゅっとフィオナの身体を抱きしめながら、私はそっと、彼女の髪に額を寄せる。
「……よかった。ほんとうに、よかった……」
フィオナの表情は、さっきまでの苦しみに歪んだ顔じゃなくて――
どこか、安心したような、そんな顔をしていた。
私はそっと微笑んだ。
「おかえり、フィオナ……」
そのとき――
「リリシア!!」
広場の奥から、複数の足音と共に、鋭い声が響いた。
顔を上げると、そこには複数の兵士を引き連れたライオネルさんの姿があった。
ひどく荒れ果てた広場を見て、彼の顔に驚愕の色が浮かぶ。
「……いったい、これは……!?」
彼の視線が、私の腕の中のフィオナへ、そして広場の一角――結界の中へと向けられる。
そこには、まだ呪いに囚われたままのティナがいた。
うずくまり、苦しそうに息をする彼女を囲むように、リシルの結界が淡く輝いている。
「リリシア……いったい、何があった? あれは……ティナなのか……?」
ライオネルさんの声が、低く震えていた。
私は、そっとフィオナを寝かせながら、結界の方を見つめる。
――そうだ。ティナも、まだ苦しんでる。
この夜は、まだ終わらない。