44話_ 暴走する親友、届かない叫び
悲鳴が響いたその瞬間、私の心臓は、びくりと跳ねた。
でも……すぐには動き出せなかった。
「……リーネさん……」
私は思わず、壁際に目を向けた。
そこには、まだ眠ったままのリーネさんと女将さんがいる。
どちらも、呼吸は穏やかで、怪我も見当たらない。
でも、その安らかな寝顔が、逆に不安を掻き立てた。
「リシル……二人とも、大丈夫だよね……?」
心配を押し隠せずに問いかけると、リシルはすっとこちらに寄ってきて、私の肩にそっと手を置いた。
「ええ、眠ってるだけよ。さっきの男がかけた術の影響ね。
でも、命に別状はない。放っておいても、じきに目を覚ますわ」
「……よかった……」
心からの安堵が、息と一緒に漏れた。
でも、安心している暇はなかった。
外から聞こえた悲鳴――あれは明らかにただ事じゃない。
「行くわよ、リリシア」
「うん!」
私は飛び出すようにヒノタマ亭を後にした。
夜の空気は冷たく、肌に突き刺さるようだった。
でも、それ以上に、胸の奥を圧迫するような“予感”が、私の足を急がせる。
「……っ」
走り出した途端、右手の刻印が、びりびりと疼いた。
まるで――何かに反応しているかのように。
「リリシア、大丈夫?」
リシルが隣から心配そうに声をかけてくる。
でも、私は首を横に振った。
「……さっきの男に会ってから、ずっとこんな感じなの。
なんていうか、熱を持ってるみたいに、ずっと……」
言葉にしながら、自分でもその正体がわからなくて怖くなる。
だけど、リシルは私を見て、どこか納得したように小さく笑った。
「それは、あんたが“成長した”からよ」
「……え?」
「刻印ってのはね、単なる“力の証”じゃない。
あれは“器”――つまり、あんたの心と魔力が、どれだけ成長したかを映す鏡でもあるのよ」
「……成長……」
「そう。だから疼いてるの。
あんたの中で、“何か”が変わり始めてる証拠よ」
その言葉が、どこか怖くて。
でも――同時に、少しだけ心強くもあった。
私は胸の奥に手を当てながら、歩幅をもう一度大きく広げる。
そして――
「……あそこだ!」
通りの向こうに、灯りと人だかりが見えた。
誰かがしゃがみ込んでいる。その周囲で、騒然とした声が飛び交っている。
人垣の隙間を抜けた瞬間、目に飛び込んできたのは――
「……ティナっ!? フィオナ……!」
石畳の上に、ふたりの少女が倒れていた。
ティナはぐったりと胸元に手を置いていて、瞼はうっすらと震えている。
フィオナはティナをかばうようにして倒れていて、肩で荒く息をしていた。
ふたりとも、目立った外傷はない。けれど、その身体からは確かに、“ただならぬ気配”が漏れ出ていた。
「下がって! 彼女たちは――!」
リシルが鋭く声を上げると、周囲にいた人々が戸惑いながらも後退した。
私はふたりに駆け寄り、膝をつく。
「ティナ……! 大丈夫? ねぇ、しっかりして……!」
震える声で呼びかけると、ティナの睫毛が微かに揺れた。
でも――その目は、どこか虚ろで、焦点が合っていない。
「リリ姉……ごめんね……わたし、もっと……がんばれるよ……」
かすれた声が漏れる。
その表情は、なぜか笑っていた。
でも――
(……目が……笑ってない……?)
ゾクリ、と背筋が凍った。
そのときだった。
「う……ぅ……あ……あああああっ!!」
隣にいたフィオナの体が、びくんと大きく跳ね上がった。
「フィオナ!?」
目を見開いた彼女は、牙を剥くようにして天を仰ぎ、叫んだ。
「もう……我慢なんてしたくない……!
あたしは……ずっと、ずっと……ッ!!」
その身体から、獣じみた気配が噴き出した。
爪が、少しだけ長く鋭く伸びる。
瞳の色が、血のような紅に変わっていく。
「フィオナ……その姿……!」
私は咄嗟に立ち上がろうとする。けれど、刻印がずきりと疼いて動けない。
リシルが一歩、前に出て言った。
「これは……呪いよ」
「呪い……!?」
「そう。おそらく、さっきの男が言っていた“お土産”……
彼は、あの子たちの中にあった“心の揺らぎ”を引き金に、何かを仕込んでいったんだわ」
私の目の前で、ティナが小さく笑いながら、ふらりと立ち上がる。
「ティナ……? 危ないよ、今は動いちゃダメ……!」
けれど、ティナはまるで聞こえていないかのように、空を見つめている。
「もっと、もっと速くなれば……守れる、強くなれる……
わたしは……ダメだから……でも、頑張れば……!」
その声には張りがありすぎて、逆に危うさを感じさせた。
「く……二人とも……!」
私は立ち上がる。足元がふらつく。
けれど、倒れてなんていられない。
「どうにかして……止めなきゃ……!」
ふたりの“異変”が、いまにも暴走しそうな気配をまといながら、ゆっくりと立ち上がっていく。
「う、うわっ……!」
周囲の誰かが、思わず悲鳴を上げた。
フィオナの足元から吹き上がった“気迫”が、夜の空気を裂くように広がっていく。
「お、おい……あの子、やばいぞ……!」
「誰か、止め――」
そのときだった。私の肩に、誰かの手がそっと触れた。
「君、そこにいたら危ない。下がったほうが――」
「リリ姉に……触らないで……」
その声が――信じられないほど冷たく、低く響いた。
「え……?」
――さっきまで、ティナは私のすぐ目の前にいたはずだった。
でも今、彼女は――私とその男性の間に立っていた。
「なっ……」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ティナの小柄な身体が、私の前にすっと立ちはだかるように現れ、その瞳がまっすぐ男性を見据えている。
まるで、瞬きした一瞬のうちに、位置を変えたかのような――異常な速さ。
そして、その瞳には、さっきまでの虚ろな光はもうなかった。
けれど……代わりに宿っていたのは、鋭く、張り詰めたような“光”。
それはまるで――自分を限界まで追い込んだ者だけが持つ、危うい覚悟の色だった。
「リリ姉に……近づかないで……!
わたしが……守るのっ!」
ティナの身体が、ふわりと浮き上がったかと思うと――
次の瞬間、閃光のような速度で、彼女の姿が一瞬かき消えた。
「――!?」
どこからともなく、鋭い風切り音が響く。
まるで空気そのものを裂いて進むような、異常な速さ。
「ティナ、やめて!! それは……っ!」
けれど、私の声は――届かなかった。
ティナは次の瞬間、私の肩に手を置いたあの人の前に現れ、風のように拳を振るった。
「なっ……!?」
咄嗟にその男性がのけぞったため、拳はかろうじて頬を掠めただけだった。
しかしその衝撃で、彼はよろけて地面に倒れ込む。
それだけじゃない。ティナはそのまま、周囲の人々に次々と視線を向けた。
「……リリ姉を、傷つけようとした……
みんな……敵、なんだ……!」
瞬間、ティナの姿が再び弾けるように消える。
そして次の瞬間――
「きゃっ!」「あぶな――!」
人垣が悲鳴とともに散り、何人かがよろめきながら地に倒れる。
その周囲に、目に見えない衝撃波のような“風”が吹き荒れていた。
リリ姉を守らなきゃ――その一心で、ティナは誰彼かまわず力を振るい始めた。
「くっ……リシル、止めて!」
「任せて!」
リシルが一歩、前に出た。
その瞳が鋭く光り――
尻尾が、ピンと跳ね上がる。
「《光結界・展開》!」
澄んだ声と同時に、光の膜が――ティナの周囲を包むように、ふわりと広がっていった。
結界は半球状に膨らみ、ティナだけを包み込むように展開される。
まるで、彼女の動きを封じる“光の檻”みたいだった。
「ティナを……閉じ込めた……?」
呆然とつぶやいた私に、リシルが小さくうなずいた。
「暴走を止めるには、これが一番安全よ。あの子だけを包んだ、局所展開の結界。周囲への影響は最小限にできる」
「……すごい……」
私は、結界の内側で暴れようとするティナの影を見つめながら、唇をぎゅっと噛んだ。
その小さな体が、何度も壁にぶつかっては跳ね返る。
そして――
ティナの拳が、光の膜に叩きつけられた瞬間。
バチィッ、と火花のような閃光が走った。
「ティナ……っ!」
反射的に叫んだ声は、結界に阻まれて届かない。
彼女の瞳は、焦点が合っているようで――どこか遠くを見ているようだった。
守ろうとする想いが、暴走した力に飲み込まれている――そんな光だった。
「もっと……速く、もっと強くなれば……!
わたしは……リリ姉の役に立てる……守れる……だから、もっと……!」
その声は、嬉しそうなのに――
どうしようもなく不安で、悲しげだった。
ふたりの身体からあふれ出る力が、夜の街を包み込み始めていた。
そんな中、フィオナの赤い瞳が、私をまっすぐに射抜いた――。
「……リリシア。あんたってさ……いいよね」
ぽつりと、呟くような声。
「え……?」
「いつも誰かに守られてて。ティナだって、リシルだって、おじさんだって。
みんな、リリシアのこと大事にしてて……」
フィオナが、私をまっすぐに見た。
だけどその目は、どこか突き放すように冷たい。
「……あんたの“孤独”なんて、ぬるいよ」
胸が、ぎゅっと掴まれたような気がした。
「私は……ずっと、ひとりで平気なふりしてきた。
強くなきゃいけないって、自分に言い聞かせて。
だって……あたしが崩れたら、誰がみんなを支えるの?」
「フィオナ……」
「リリシアは、泣けるじゃん。頼れるじゃん。弱さを見せても、ちゃんと受け止めてくれる人がいるじゃん。
……でも、私は、見せちゃダメなんだよ」
彼女の声は怒っているようで――震えていた。
「……だって、リリシアの幼なじみで、一番の味方で、バスカの娘で、族長の跡取りで……
私がしっかりしてなきゃ、私が支えなきゃって……!
ずっと、ずっと思ってたんだよ……!」
吐き出すような言葉。
それは、たぶん誰にも言えなかった本音。
「なのに……なんで、“私の気持ち”だけ、誰にも気づいてもらえないの……?
わかってるんでしょ? 私が“平気じゃない”って、どこかでわかってたくせに……!」
――図星だった。
私は、わかっていた。
フィオナが誰よりも強くあろうとして、でも無理をしていることに。
だけど……それを口にしてしまえば、彼女の“プライド”を傷つけるかもしれないって、勝手に思って――
(……逃げてたのは、私の方だったのに)
私は言葉を返せなかった。
フィオナの目が、苦しげに細められる。
「やっぱり……言えないんだ」
そのつぶやきに、心が締めつけられた。
「もう……私、全部壊しちゃってもいいかなって……ちょっとだけ、思ってる。
そうすれば、誰か気づいてくれるかなって……」
その瞬間、彼女の足元から――再び獣の気配が立ち上った。
「やめて……フィオナ……っ!」
「だったら、止めてよ。魔王さま――“私の親友”なら、できるでしょ?」
挑むような、どこか投げやりな微笑み。
彼女の背後に、風がうねるように渦巻いた。
その風が、まるで私の頬を刺すように鋭く吹き抜ける。
(止めなきゃ……でも……)
足が、動かない。
刻印はまだ、ずきずきと疼いている。
なのに――
「――っ、フィオナ!!」
私は叫んでいた。
その名前を、精一杯の声で。
ただ、フィオナの心に――届いてほしい一心で。
すると――
「……ッ!」
フィオナの瞳が、一瞬だけ揺れた。
その小さな揺らぎが、確かに“彼女自身”の心であることを、私は感じた。
でもその直後――
「う……あああああっ!!」
彼女の体から溢れた魔力が、空気を震わせる。
――まだ、彼女の中で“呪い”が勝っている。
「くっ……!」
リシルがすぐさま私の前に立つ。
「リリシア、下がって。こっからは“力”で止めるしかないかもしれない」
「でも……!」
私は拳を握りしめる。
そうだ、私にできることは……“諦めないこと”。
誰より近くにいた友達が――孤独の中で泣いていたことに、今さらでも気づいたから。
私は、もう逃げない。
そして、目の前の親友に、もう一度、手を伸ばすんだ。