43話_ 再会は静かに、悪意は音もなく
――コン、コン。
宿の扉を叩く、控えめな音が、静まり返った空気の中にひときわ響いた。
「おや、誰かしら。もう閉めたんだけどねぇ……」
そう言いながら、女将さんが腰を上げる。
リーネさんは首をかしげながら立ち上がった。
「この時間に来るなんて珍しいね。知り合い?」
「……たぶん、フィオナたち、かも」
私は思わずそう答えていた。
一人で王宮を出てきてしまったことが、頭をよぎる。
――きっと、心配して探しに来てくれたんだ。
けれど、なぜだろう。
扉の向こうから、どこか――冷たい気配がした。
女将さんが、のれんをくぐって入り口へ向かう。
私も何か引っかかるものを感じて、視線をそちらに向けた。
がちゃり、と扉が開かれる。
「いらっしゃ――」
女将さんの声が、途中で止まった。
その瞬間、ひやりとした風が吹き込んできたような感覚が、店内をすっと通り抜けた。
薪のはぜる音が一瞬、遠ざかったように思えた。
「……あら。夜分に悪いけど、うちはもう――」
女将さんの言葉に、男は何も返さない。
扉の外に立っていたのは――黒いフードを深くかぶった男だった。
月明かりの中、背後の街並みにすっかり同化しているようで、輪郭さえぼんやりしている。
まるで、そこに“いるようでいない”存在。
「……?」
女将さんが少しだけ眉をひそめた、そのとき。
私の右手が――ずきりと、微かに疼いた。
(……っ!?)
思わず手を引くと、リーネさんがこちらを振り返る。
「リリシアちゃん、どうかした?」
「……い、いえ。なんでも……」
震える声でそう言いながら、私は目の前の黒い影から目を離せなかった。
――間違いない。
あの“気配”は、以前感じたものと同じだ。
まるで、世界から切り離されたかのように誰にも気づかれず、
そして、魔力の気配を一切持たない男。
(……どうして、今……)
あの時は確かに、彼から“何も感じなかった”。
けれど今――
刻印が反応している。
それは、ただの魔力ではない。
もっと――根源に近い何かが、私の中にあるものと共鳴しているような……
「……お客様?」
女将さんの問いかけにも、男は何も返さない。
ただ、扉の前に立ち尽くしているだけ。
だけど私は、わかっていた。
――このまま何も言わずに帰るつもりなんて、ない。
じっと、こちらを見ている。
顔は見えないのに、視線だけが、真っ直ぐ突き刺さるように感じられた。
そして次の瞬間――
「こんばんは、魔王さま」
フードの下から、静かな声が響いた。
その声音は低く、落ち着いていて、けれど、どこか愉快げだった。
まるで、最初からこの宿を目指して来たかのように。
男は何も言わず、女将さんの横をすり抜け――
まっすぐ、こちらへと歩いてきた。
「……ちょっと、あなた。何か用なのかい?」
女将さんが声をかけるが、男は無反応のまま。
足音すら立てず、まるで影が忍び寄るかのように、静かに、静かに距離を詰めてくる。
「……リリシアちゃん」
隣で、リーネさんがそっと立ち上がる。
その声には、明らかな緊張がにじんでいた。
私の中でも、警鐘のようなものが鳴っていた。
(――来る)
胸の奥で、右手の刻印がまた、ずきん、と疼く。
空気が変わった。
肌がひりつくような、冷たい何かがまとわりついてくる。
けれど、その感覚は私にしか伝わっていないようで――
「また、会えたね」
男が、ようやく口を開いた。
その声は、相変わらず落ち着いていて、どこか愉快そうで。
けれど、**その言葉の奥に宿る“意図”**が、ぞわりと背筋を這い上がってくる。
「……あなた、前にも……」
「うん。忘れてたら悲しいけど――ま、いいさ」
男はフードの奥から、微かに笑ったような気配を見せると、
一歩、また一歩と近づいてきて、私のすぐ目の前まで来た。
「っ……!」
リーネさんが前に出ようとする。
だが、男はその動きに一切反応せず、ただ、私の顔をじっと――覗き込むように見つめた。
(……見られてる)
フードの下、眼差しは見えないはずなのに。
それでも確かに、“何か”が私の内側を覗き込んでいる感覚がした。
そのときだった。
「“継承者”としての目覚め――」
囁くような声が、耳元で響く。
「進んでるようだね。リリシア・ディアブローム」
――ずきん、と。
刻印が、まるで応えるように疼いた。
それは痛みというよりも、何かが目を覚まし、私の中を見つめ返そうとしているような――そんな感覚だった。
「いい加減にして! 勝手に近づいて――!」
リーネさんが、男の腕を強く掴んだその瞬間。
「……再会の邪魔は、してほしくないなぁ」
男はゆっくりと、愉しむような声で言いながら、
その腕を、軽く――本当に、軽く払った。
ひゅっ
空気がたわんだような音と共に、リーネさんの身体が、ふわりと宙を舞う。
「きゃ――」
壁に叩きつけられる寸前、女将さんが咄嗟に手を伸ばす。
二人の身体が転がるようにして床に落ちると、女将さんが怒りを込めて立ち上がった。
「……ふざけた真似をするんじゃないよ!」
その声は、明らかに怒気を帯びていた。
けれど――
男は微笑むように、指を軽く鳴らした。
パチン、と。
ただそれだけの音が、静かに響いた瞬間。
「……あ……?」
女将さんが、その場に崩れ落ちた。
リーネさんもまた、すぐにその隣に倒れ込む。
二人とも、深い眠りに落ちたように静かで――まるで、最初からそこで眠っていたかのように、穏やかな寝息を立てている。
「……っ! なに、したの……!」
私は一歩、あとずさる。
足が震えているのが、自分でもわかる。
だけど、目を逸らしてはいけない――そんな気がした。
男は動かない。
ただ、優雅に指を払った手を下ろし、再び私の方へと視線を向ける。
「……ようやく、“それ”が見えるようになったね」
男は、私の右手にゆっくりと視線を落とした。
刻印が、淡い桃色の光を帯びて、かすかに脈打つように揺れていた。
「前に会った時は……包帯で隠してたっけ。あれじゃ、せっかく綺麗な刻印が見えなくて寂しかったよ」
男の口調はどこか軽く、まるで旧友との再会を喜ぶようだった。
「でも今は……こうして、はっきり見える」
ゆらり、と彼の手が動いた。
指先が、私の右手に触れようと――
「触らないで!」
私は、とっさに腕を引いた。
男の指先は、ぎりぎりのところで止まる。
触れていないのに、熱が伝わってきそうなほど――その距離は近かった。
「……そうだよ。そうやって拒絶してくれる方が、“らしい”」
男は満足げに小さく笑い、
「けど……惜しかったなぁ」
囁くように、けれど妙に通る声で言葉を続けた。
「もう少し……ほんの、もう少しだけ君が壊れていれば、あの夜の続きを始められたのに」
(……あの夜?)
何のことかはわからない。
でも、その言葉には――妙な重みと、ぞわりとした悪寒があった。
私が目を見開いたまま立ちすくんでいると、男はふっと息を吐いて、
「でもいいさ。焦ることはない。
……どうせ、刻印はもう目を覚まし始めてる。
君が拒もうと、遅かれ早かれ“あちら側”へと進む」
その言葉に、私の胸が強くざわついた。
「なにを、言って……」
「さっきまで少し期待してたんだけどね。このまま心が折れてくれれば、“招き”やすかった。
……でも、君は立ち直りかけてる。もったいないなぁ」
男はゆるやかに首をかしげて、
「誰かの優しさってやつは、時に本当に厄介だ。君の弱さに響いてしまうから」
ちら、と倒れたままのリーネさんたちに目を向ける。
「でもまあ……いいよ。
その刻印が、今みたいに“むき出し”になってるだけでも、今日来た甲斐はあった」
満足げに、男は一歩だけ後ろへ下がった。
男は、満足げに一歩だけ後ろへ下がった。
「……じゃあ、今日はこの辺で――」
そう言いかけた、その時だった。
――ピリッ。
空気が、わずかに震えた。
まるで雷の前触れのような、乾いた緊張が走る。
男の表情が、ふと曇った。
「……この気配――」
彼の視線が、宿の奥へと向けられる。
私もまた、背後から迫ってくる“何か”を感じて、反射的に振り返った。
――とたんに、駆け込んできた小さな影が、私の足元に飛びついた。
「リリシアっ!!」
「リ、リシル……!?」
光のように駆けてきたリシルが、私の前に立ちはだかるようにして、男を睨みつける。
「おいおい……まさか、君がまだこの世に“縛られてる”とは思ってなかったよ」
男の声には、どこか呆れたような響きが混じっていた。
だがすぐに、その瞳の奥が――鋭く細められる。
男は唇の端を歪め、愉快そうに息を吐いた。
けれど、その目は笑っていない。じっと、リシルを見据えたまま――どこか探るように。
「……おかしいと思ったんだ。あの時、ほんの一瞬だけ“何か”が弾けた。
あの魔力の揺らぎ……他の誰でもない、君の残滓だ」
そこまで言ってから、男の声がわずかに低くなった。
「やっぱり、君だったか。
まさか、まだこの世に“囚われてる”とはね……リシル――いや、“神獣”のカケラさん?」
リシルは何も言わない。
ただ、細い尻尾をふわりと揺らしながら、じり、と一歩前に出る。
刻印の痛みが、また強くなった。
でも、さっきまでとは違う。
――何かが、リシルの中から溢れ出そうとしている。
それと共鳴するように、私の右手も淡く、脈打つように光を放っていた。
けれど私は、男の言葉の意味がまるで理解できなかった。
“カケラ”? “残滓”? “囚われてる”?
なにを言っているの――?
「……その顔。ふぅん」
男が、わずかに目を細めた。
「その反応……何も知らされてないのか? それとも――」
ちらりと、私とリシルを交互に見比べる。
その目には、興味と疑念、そしてどこか――愉悦の色さえ滲んでいた。
「じゃあ、教えてあげようか。君の隣にいるその子の“正体”と、“目的”を――」
「――黙りなさい」
鋭く切り込むような声が、男の言葉を断ち切った。
リシルだった。
静かに、しかし有無を言わせぬ力を孕んだ声音。
尻尾をふわりと揺らしながら、男を真っ直ぐに睨んでいる。
「今はまだ、“その時”じゃないわ。余計なことを吹き込まないで」
リシルの一言に、男はほんの少しだけ目を細め――
そして、肩をすくめて笑った。
「はいはい、わかりましたよ。お叱り、痛み入ります」
その声音はどこまでも軽く、悪びれた様子もない。
けれど、その笑みの奥には、得体の知れない“確信”が宿っていた。
「……でもね、楽しんでいられるのも“今のうち”だよ?」
男はゆっくりと片手を上げ、指先で空をなぞるようにして続けた。
「僕の“目的”はね……昔から、ずっと変わってないんだから」
ひやりとした空気が、また一度、店内を撫でる。
男はリリシアに視線を向け、にこりと笑んだ。
「あっ、そうだ。せっかくだし――お土産を置いていくよ。
きっと、楽しんでもらえると思うからさ」
その笑顔は、あまりにも無邪気で。
けれど、底知れぬ悪意が滲んでいた。
そして――次の瞬間、男の姿はふっと掻き消えた。
闇に溶けるように、音もなく、気配もなく。
まるで最初から、そこに存在しなかったかのように。
静寂だけが、部屋の中に静かに戻ってきた。
薪のはぜる音が、ふいに耳に戻ってくる。
「……さっきの人、いったい何を……」
私は、おそるおそるリシルの方を見た。
右手の刻印は、まだ淡く光を宿している。
――“継承者”とか、“神獣のカケラ”とか。
言葉の意味はまったく分からなかった。
でも、確かにリシルは何かを隠している。そう思えた。
「ねぇ、リシル。さっきのあの人が言ってたこと――」
そう問いかけかけた、そのときだった。
――キャアアッ!!
突如、外から鋭い悲鳴が響いた。
「っ……!?」
私とリシルが、同時に顔を上げる。
「お、おい……女の子が倒れてるぞ!」
「ちょっと誰か! 誰か人を呼んでくれ!」
外から、慌ただしい声がいくつも重なって聞こえてくる。
夜の静けさが、音を立てて崩れ落ちていくようだった。
――何かが、起きている。
男が言っていた、“お土産”。
それが今、現実となって姿を現そうとしていた。
胸の奥がざわりと波打つ。
嫌な予感が、刻印の疼きと重なるようにして、全身を包んでいく。