42話_ まだ見ぬ道
にぎやかだった店内は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
酔いのまわった中年の冒険者たちが、仲間に肩を借りてふらふらと外へ出ていく。
続いて、食事を終えた客たちが「先に部屋戻るわ」と階段を上がっていった。
やがて、最後まで盛り上がっていたグループも、空になったジョッキを片づけながら「明日も早いしな」と腰を上げていく。
――気づけば、店内に残っていたのは私とリーネさん、そして女将さんだけになっていた。
炉の火が、ぱち、ぱち、と薪を焼く音だけが、静かに響いている。
「……なんか、急に静かになったね」
リーネさんが、使い終えたスプーンを置きながらぽつりとつぶやく。
私はその言葉に、小さくうなずいた。
(……不思議)
さっきまであんなに賑やかだったのに、今はまるで、最初からこの空間は私たちだけのものだったみたい。
胸の奥が、じんわりと落ち着いていくのがわかった。
「……お客さん、多いんですね」
私がそう言うと、カウンターで布巾を回していた女将さんが、手を止めてこちらを見た。
「そりゃあね。うちは美味くて、安くて、うるさくて――でも安心できるって評判だからさ」
どこか誇らしげな笑みを浮かべながら、女将さんは布巾を肩にかけて立ち上がる。
トン、と腰に手をあて、こちらへ歩いてきた。
「……でも、今日は特別な客が来たからね」
「特別……?」
「そう、あんたよ。リーネの連れで、ちょっと元気なさそうな顔してるお嬢さん」
その言葉には、気遣いや同情の響きはなかった。
ただ、目の前の私をそのまま見て、まっすぐに言っているような声だった。
「……この宿はね、いろんな人が来るよ。笑いに来るやつもいれば、泣きに来るやつもいる。逃げてきたやつも、立ち止まりたいだけのやつも」
そう言って、女将さんはカウンターの奥から、湯気の立つ湯呑みを三つ持ってきた。
トン、と音を立てて私たちの前に並べると、やれやれといった顔で腰を下ろす。
「で――どうせ、あんたもそのどれかだろ?」
「え……」
驚いて顔を上げると、女将さんはくいっと顎で促すように湯呑みを指さした。
「まぁ、喉でも潤してきな。あんたの顔、見てるだけでこっちまで渇くわ」
冗談めかした口調なのに、目は笑っていなかった。
あたたかいけれど、逃げ場のないまっすぐな視線。
私は、そっと湯呑みに手を伸ばしながら、少しだけ迷って――そして、口を開いた。
「……ある人に、言われたんです」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「“お飾りの魔王”だって……。――甘えてばかりじゃ、ダメだって」
女将さんは何も言わなかった。ただ、黙って聞いていた。
「その人の言ってることは、きっと正しいんです。私は……ずっと、誰かに助けてもらってばかりで。自分の国のことすら、ちゃんとできてなかったのに……」
声が少し震えた。
「だから、魔王なんて名乗る資格、ないんじゃないかって……ずっと思ってて……」
その瞬間、女将さんの眉がぴくりと動いた。
「――魔王、ねぇ」
まるで、初めて聞くような声音で、女将さんはぽつりとこぼした。
「……なんだ、やっぱりそうか」
「……っ!」
私は思わず顔を上げた。
女将さんは、ため息混じりに湯呑みに口をつけながら、ぼそっと言った。
「うちに来る客ってのはね、大抵“何者か”になり損ねた奴らばっかさ」
「……?」
「夢を見て、破れて、仕方なく冒険者になったとか。元貴族とか、元騎士とか、そういうのもいるよ。……でもね、不思議なもんで」
そこで一拍置いて、女将さんは私をまっすぐ見た。
「“何者かであろう”ってしてるうちは、誰だって苦しいんだよ」
静かに、けれど深く沁みる言葉だった。
「“魔王”でも“王様”でも、“母親”でもいい。……肩書きに追われてる時ほど、人ってのは、自分を見失いやすい」
そして、湯呑みをテーブルに置くと――
「で? あんたは今、“誰か”にならなきゃいけないって、ひとりで抱え込んでるわけかい?」
「……」
返事ができなかった。
でも、その沈黙がすべてを物語っていたのかもしれない。
「ふふん……魔王様だかなんだか知らないけどさ」
女将さんは、どこか茶化すように言いながら、リーネさんに目をやった。
「――こいつが“連れて来たい”って思うくらいなんだから、根っこはそう悪い子じゃないんだろう」
「うん……ちゃんと、いい子だよ」
リーネさんが、優しく笑ってうなずいた。
女将さんは腕を組み、少しだけ目を細める。
「甘えたいって思うなら、甘えりゃいい。頼りたいなら、頼りゃいい。でも、“それでいいのか”って悩むこと――それ自体が、あんたがちゃんと考えてる証拠さ」
「……」
「“お飾り”かどうかなんて、そんなの他人に決めさせるんじゃないよ。――あんたがこれから、どう歩くかで変わる話さね」
そう言って、女将さんは湯呑みを持ち上げ、またひとくち啜った。
「ま、あたしゃ魔王になったことないけどさ。女将業だけでも十分しんどいんだ。……偉そうなこと言えたもんじゃないけど」
それでも、と女将さんは続けた。
「――一人で全部抱え込んで潰れるくらいなら、たまには“うるさいおばちゃん”にちょっとくらい、愚痴こぼしてきな」
不意に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
それは、誰かの手がそっと背中を支えてくれたような感覚だった。
思わず、視線を落とす。
……なんて返せばいいのか、わからなかった。
けれど、そんな私を見透かすように――女将さんはふっと目を細めた。
「……あんた、あれだろ。小さい頃から、“いい子”でいなきゃって思ってきたクチだね?」
まるで、心の奥を覗き込まれたみたいだった。
「わがままなんて、ろくに言ったことないでしょ?」
「……っ」
私は、思わず唇を噛んだ。
――図星だった。
「いい子ってのはね、厄介なもんさ。最初は“誰かのため”にそうしてるつもりでも、気づけば“そうでなきゃいけない”って、自分を縛っちまう」
女将さんは、自分の湯呑みをくるりと回しながら、ぽつりと続ける。
「そういう子ほど、限界が来るまで黙ってるんだ。気づいたときにはボロボロになって、何も言えなくなってる」
「……」
何も言い返せなかった。
でも、女将さんは責めるような目ではなく、どこか寂しそうな目で私を見ていた。
そんな空気を変えるように、リーネさんが肩をすくめて笑った。
「……ほんと、お母さんってそういうとこだけ妙に鋭いよね」
「伊達に何十年も人の出入り見てきてないよ。あんたも、昔は似たような顔してたじゃないか」
「……うっ」
リーネさんがばつの悪そうな顔をした。
「まあ、私は……ちょっと違うけどさ」
そう言って、リーネさんはテーブルに頬杖をつきながら、ぽつぽつと語り始めた。
「うちの宿、嫌いじゃないんだ。お母さんも、お父さんも好きだし。……でも、“宿屋の娘”ってだけで、誰かに決められた人生を歩くのは嫌だった」
その言葉には、少しだけ熱がこもっていた。
「“ここにいなきゃいけない”って、思い込むのが怖かったんだ。だから……外の世界に、自分の足で立ってみたくなったの。――冒険者になったのは、そのため」
私は、黙ってリーネさんの横顔を見つめていた。
どこか照れくさそうに、でも堂々と話すその姿が、少しだけまぶしく思えた。
「最初は失敗ばっかで、お母さんにも散々怒られたけどさ」
「いまも怒られてるじゃないの」
女将さんがすかさず茶々を入れると、リーネさんが苦笑する。
「……うん、まあ、相変わらずね」
ふと、女将さんが私の方を向いた。
「――人は、逃げることも、立ち向かうこともできる。でも、一番しんどいのは“止まってる自分を許せない”って思っちまうときさ」
それは、まるで、今の私の心をそのまま言葉にされたようだった。
でも。
だからこそ、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ――今の自分を、許してみたいと思った。
そんな私の顔を見ていたのか、リーネさんは、湯呑みに口をつけながら――ふと、目を細めた。
「……ねえ、リリシアちゃん」
「……?」
「前にも言ったかもしれないけどさ。……やっぱり、リリシアちゃんって、冒険者に向いてると思うんだよね」
「え……」
思わず声が漏れた私に、リーネさんは少しだけ悪戯っぽく微笑んで――でも、すぐにまっすぐな声で続けた。
「もちろん、“魔王”って立場もあるし、簡単な話じゃないってわかってるよ? だけど……もし、ほんの少しでも“気になる”って思ったことがあるなら」
そこで言葉を区切って、リーネさんは私を見つめた。
「――世界は、広いよ」
その言葉は、どこか遠くを見ているような、優しい声音だった。
「部屋の中で考え込んでるとさ、“自分のこと”しか見えなくなることってあるでしょ? でも、外に出て、いろんな人と話して、いろんな景色を見てると……なんていうか、自分のことも、ちょっと違って見えるの」
「……自分のことが、違って?」
「うん。いい意味で、“ちっぽけに見える”というか。“ああ、自分って狭いところで悩んでたな”って、ふっと思える瞬間があるの」
リーネさんは、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「もちろん、今すぐ“冒険者になって”ってわけじゃないよ。ただ……もしいつか、“いまの自分じゃ見えない景色”が見たいって思ったら、そのときは、一緒に冒険しよ」
それは、強引な勧誘ではなかった。
ただ、そっと差し出された手のような、やさしい誘いだった。
――世界は、広い。
それは、まるで心の奥に届く魔法の言葉のようで。
うまく言葉にはできないけれど――
何かが、ほんの少しだけ、胸の奥でほどけた気がした。
「……ありがとう、リーネさん」
私は、ゆっくりと顔を上げてそう言った。
「今は……まだ、ちゃんと答えられないけど。……それでも、行ってみたいって思った。自分の目で……世界を見てみたいって」
それは、頼りないけど、確かな一歩だった。
「うん、そう思えたなら、それで十分だよ」
リーネさんが優しく笑う。
その笑顔が、今の私にはとてもまぶしかった。
――と、そのとき。
コン、コン。
宿の扉を叩く、控えめなノックの音が響いた。