41話_ まごころの味
リーネさんに手を引かれるようにして、私は王都の裏通りを歩いていた。
さっきまでいた広場の喧騒は、もう遠い。
街灯もまばらになり、石畳の隙間には草が伸びていて――
だけど不思議と、怖さはなかった。
どこか懐かしいような、そんな匂いが、夜風に混じって漂っていたから。
「……こっちこっち。うち、ほんとにちょっと奥まってるからさ」
リーネさんが小さく笑って、少しだけ早足になる。
その後ろ姿を追いかけながら、私はふと、足を止めた。
――通りの奥に、小さな灯りが見えた。
まるで夜の中にぽつんと浮かぶ、あたたかい火のような明かり。
「……あれが?」
「そう、“ヒノタマ亭”。うちの宿だよ」
リーネさんは振り返って、誇らしげにうなずいた。
近づいてみると、入口の上にぶら下がっている木の看板に、くすんだ赤い文字で――
《ヒノタマ亭》と書かれていた。
その文字は少しにじんでいたけれど、誰かが何度も何度も塗り直してきたような、そんな跡があった。
「へへ、看板はね、お母さんの手作りなの。手先はけっこう器用なんだよ……性格はあんなだけど」
「“あんな”……?」
「ふふ。会えばわかるって」
リーネさんが少し楽しそうに笑った、その直後だった。
――バンッ!
中から、豪快な音と一緒に、ものすごい勢いの声が飛び出してきた。
「リーネーッ!!あんたまた勝手に抜け出して! 客来たならさっさと中に通しなーっ!!」
「わっ、ちょっ……お母さん、外まで聞こえてる……!」
リーネさんが小さく肩をすくめて、苦笑いしながら扉を開ける。
その向こうから、もうもうと湯気と――
スパイスと焼いたお肉の、こんがりした香りがあふれ出てきた。
「……!」
思わず、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
おいしそうな匂い。
明るい灯り。
怒鳴り声すら、どこか安心感があった。
「さっ、どうぞ魔王さま。――うちの女将、うるさいけど腕は確かだよ」
リーネさんがちょっと茶化すように笑って、私の背を押す。
私は小さくうなずいて、そっと中へ足を踏み入れた。
目に飛び込んできたのは、木の温もりに包まれた空間だった。
床も壁も天井も、すべてが年季の入った木材でできていて、ところどころに飾られた草花や布の装飾が、あたたかみを添えている。
大きな炉のまわりでは、いくつものテーブルが並び、そこには――
「かーっ、やっぱりヒノタマ亭の肉じゃがは最高だな!」
「このスープ、昨日より味がしみてる! やるなぁ女将!」
「なぁなぁ、もう一杯いけるか~?」
冒険者らしき人たちが、陽気に笑いながら料理を囲んでいた。
男も女も、年配も若者も入り交じっていて、それぞれのテーブルから笑い声が途切れることなく響いている。
奥の厨房の方からは、ジュウウウ……と肉を焼く音と、煮込み鍋のぐつぐつした音。
香辛料の香りと、甘いタマネギの香りが混ざって、食欲をそそる空気が漂っていた。
その空間の中心――
腰に布を巻いた、たくましい腕の女将さんが、堂々とした姿でまな板の前に立っていた。
灰色混じりの髪はざっくりまとめられていて、腕には筋が浮き、まるで戦士のような風格がある。
それでもその背中には、不思議と「家の匂い」があった。
「ったく、リーネ!!」
豪快な声が、店内に響き渡る。
女将さんが手にしたおたまを振り上げ、リーネさんに向かってズイッと指差す。
「冒険で稼いでるのは結構だがねぇ! 忙しい時は手伝えっていつも言ってるだろうが!
こっちは朝から仕込みで手ぇ回らないってのに……ん?」
――バチッと、女将さんの視線がこちらに向いた。
ぐいっと私を見つめたかと思うと、次の瞬間――
「……って、あら? あんた新顔だね?」
目を細めて一瞬観察するように見たあと、女将さんの表情がぱっと花が咲くように明るくなる。
「ようこそヒノタマ亭へ! 今日の主役はあんたかい!?
見たところ――細い、顔色も良くない、胃袋もすっからかんって感じだ! 間違いない!」
「えっ……あ、あの……」
「こりゃあもう、うちの“まごころスープ”で癒してやるしかないね!
リーネ! そこの席空いてるだろ! 客人をご案内しな!」
「うんうん……やっぱりそうなるよね……」
リーネさんが肩をすくめながらも、楽しそうに笑って私を奥の席へと案内してくれた。
案内されたのは、炉のそばの小さな二人掛けのテーブルだった。
木目の浮いた丸い机と、少しギシギシいう椅子。
けれど、そこに腰を下ろした瞬間――
なんだか、じんわりと、体の奥まであたたかさが染みこんでくるような気がした。
「ちょっと待っててね、スープ持ってくるから」
リーネさんが厨房の方へ走っていくと、私はひとりで席に残された。
目の前では、見知らぬ人たちが笑いながらジョッキを鳴らし合っている。
天井の梁には、色あせた布の飾り。
壁際には、古い地図や冒険者ギルドの張り紙が雑に貼られていて、どれもこの場所の“歴史”を物語っていた。
(なんだろう……知らない場所なのに、落ち着く)
ふうっと息をついて、背もたれに身を預けたそのとき――
「おまちどおさまー!」
勢いよく戻ってきたリーネさんが、木のトレイをテーブルに置いた。
小さな土鍋に注がれたスープは、湯気とともに優しい香りを漂わせていた。
タマネギ、根菜、柔らかく煮込まれたお肉。
スプーンですくうだけで、とろりと崩れそうだった。
「うちの定番、“まごころスープ”。お母さんの一番の自信作なんだよ!」
私は小さく礼を言って、スプーンをそっと口元に運んだ。
――あつっ。けど、やさしい。
だしの味がじんわりと広がって、心まで溶かしてくれるようだった。
「……おいしい」
思わず口に出たその言葉に、リーネさんがほっとしたように笑う。
けれど、その時だった。
「ん? お嬢ちゃん、新顔かぁ?」
隣のテーブルから、酔っ払った中年の男が声をかけてきた。
ぼさっとした茶髪、よれた鎧。目はすっかり赤くなっていて、手には空になったジョッキ。
「なぁなぁ、こんなとこにひとりで来るなんて、いい根性してんじゃねーか」
「もしかして、お嬢ちゃんも冒険者志望か? おじさんが教えてやろうか〜?」
もう一人の男も、笑いながらどんどん距離を詰めてくる。
「おい、リーネの連れかぁ? でもお前、可愛い顔してるなぁ。俺たちと乾杯するかい?」
「……っ」
声をかけられただけなのに、体がびくりと固まる。
恐怖、というより――
予期せぬ接触に、心がすぐに対応できなかった。
スプーンを握る手に、ほんの少し力が入る。
その時だった。
――ガアァン!!
厨房から、巨大なおたまがまな板に激突する音が響き渡った。
「てめぇらッ!!」
女将さんの怒鳴り声が、雷鳴みたいに店中を揺らした。
「客に手ぇ出すなって、いつも言ってんだろーがァッ!!!
うちの店で女の子に酔って絡むとか……舐めてんのか!!」
「ひぃっ……! い、いや俺たち別に――」
「別に、じゃねぇッ!! テメェらの顔、今夜は“煮込み”にして出してやろうかァ!?
……んん?」
にじり寄る女将さんの背後で、厨房の鍋から湯気がもくもくと上がっている。
「ほらよ、立て! 一回外で顔洗って反省してこい、二杯目はねぇからな!」
「は、はいぃっ!!」
二人の男は、背筋を伸ばして逃げるように店を出ていった。
店内に一瞬、静寂が訪れた後――
「ははっ、またやったよ女将!」
「今夜の“まかない”は雷味だな!」
常連らしき冒険者たちが、笑い声と共にジョッキを掲げた。
女将さんは「ったく、しょうもねぇ連中だよ」と言いながら、それでも厨房に戻る背中は、どこか頼もしく見えた。
「……だいじょぶだった?」
リーネさんが、心配そうに私の顔を覗き込む。
私は、ほんの少しだけ笑って――小さく、うなずいた。
「ふふ、あの二人、いつもあんな調子だから。被害者は今までにも何人も出てるよ」
「……そうなんですか?」
「うん。でも、ああ見えてお母さん――あ、うちの――女将ね。あの人が黙ってないから。
あの人、こう見えてお客さんにはめちゃくちゃ厳しいんだよ?」
「……そうなんですね」
「そ。 お母さん、昔ね、“店に来る人は全員“旅の途中”なんだから、安心して休んでもらわないと意味がない”って言っててさ。ちょっとカッコつけすぎだけど、わたし、けっこうその言葉が好きなんだよね」
そう言って、リーネさんはスプーンでスープをかき混ぜながら、どこか誇らしげに笑った。
「……だからさ、ああやって口は悪いしうるさいけど、お母さんはちゃんと“守る人”なんだよ。うちのお客を。家族を。わたしのこともね」
「……リーネさんのことも?」
「うん、もちろん。……たぶん、お節介でうるさすぎて、こっちがうんざりするくらいには」
そう言いながらも、その笑い方には、どこかあたたかさがにじんでいた。
「……でもね。わたし、そういうお母さんがけっこう好きなんだ」
「……」
私は、何も言えなかった。
でも、胸の奥で何かがほんの少しだけ、やわらかくほどけた気がした。
「――あ、そうだ」
リーネさんがふと顔を上げた。
「このスープ、“まごころスープ”って名前、実はわたしがつけたんだよ」
「……えっ、そうなんですか?」
「うん。子どもの頃、“お母さんのスープってね、なんか胸があったかくなる気がするの”って言ったらさ――
“じゃあ“まごころスープ”ってことにしとくか!”って、嬉しそうに張り紙作ってさ。もう十年以上前なのに、まだ厨房に貼ってあるんだよ?」
「……ふふっ」
思わず、声が漏れた。
笑おうと思ったわけじゃなかったのに――自然と、口元がほころんでいた。
――そのあとも、リーネさんとの他愛ない会話はしばらく続いた。
くだらないことを話して、少し笑って。
それだけの時間が、今の私には、なぜだかとてもあたたかかった。