40話_ 孤独のとなりに
王宮を抜けると、ふわりと夜風が頬をなでた。
王都アルセリオ――その夜の姿は、昼とはまるで違っていた。
石畳の道は月明かりと街灯に照らされ、淡い金色に輝いている。
建物の窓からは、ほのかな灯りがこぼれていて、それぞれの家のあたたかさがにじみ出るようだった。
通りには、ちらほらと人の姿も見える。
浮かれた足取りの子どもたちに、笑顔を交わしながら歩く恋人たち。
道の端では、早くも露店がいくつか開きはじめていて、揚げ菓子の香ばしい匂いや、シナモンと果実の甘い香りが夜風に乗って流れてくる。
(……もう、始まってるんだ)
明日から本格的に始まるはずの「お祭」の前夜――
街の人々は、まるで待ちきれなかったかのように、すでにお祭りを楽しんでいた。
淡い提灯が頭上を流れるように並び、ゆらゆらと揺れるたび、月の光と溶け合って幻想的な彩りを見せている。
(綺麗……)
私の口から、小さくため息のような言葉がこぼれた。
ほんの少しでも、気を紛らわせたくて歩き出したはずだった。
けれど、街のこの空気に触れているうちに、胸の奥の張りつめていたものが、少しずつほどけていく気がした。
(みんな、楽しそうに……笑ってる)
……でも。
昼間、あの部屋で言われた「お飾り」という言葉が、また頭の奥にうずいた。
それと同時に、目の前にいる人々の笑顔が、どこか遠くて、どこか近くて――
私は、広場の方へと視線を向けた。
いつの間にか音楽が響き始めていて、遠くから笛と太鼓の軽やかな音が流れてくる。
演奏している人たちの周りには、自然と輪ができ、手を取り合って踊っている人々の姿があった。
音楽と笑い声が交差する中、私はふと立ち止まった。
(……でも)
胸の奥に、小さな影がまた浮かび上がる。
(この王都の平和も……ルミエルとの平和も……全部、私が作ったものじゃない)
(パパが、グラディスを築いて、争いを終わらせてくれたから――)
石畳の下から、足元が少し遠く感じた。
(私がいなくても、きっとこの平和は続いていくのかもしれない)
(私がいなくても、パパが“魔王”として座っていれば、それでよかったんじゃないかって――)
(やっぱり私は……ただ、パパの功績に乗っかっただけの……)
(“お飾りの王様”なのかな……)
そんな言葉が、心の奥でぽつんと響いた。
――その瞬間、また、視界がゆらいだ。
(……あれ)
自分でも気づかないうちに、また涙がこぼれていた。
……さっき、あの部屋で泣いたばかりなのに。
(もう泣かないって……思ってたのに)
あの時は、悔しさと悲しさに押し潰されそうで泣いた。
でも今の涙は、少し違った。
――やりきれなさ。
――届かない想い。
――そして、立ち尽くすしかできない、自分自身への不甲斐なさ。
胸の奥が、ゆっくりときしむように痛んで、どうしようもなくなっていた。
私は、ふらりと近くの噴水のそばにしゃがみこんだ。
ぎゅっと膝を抱きしめて、小さく丸まる。
まるで、外の音や光から身を守るように――。
顔を上げることもできなくて、ただ俯いたまま、そっと目を閉じた。
提灯の灯りが揺れ、笛の音が夜風に流れていく。
けれどそのすべてが、遠い世界のことのように感じられた。
誰も気づかない。
灯りの陰で、私はただ――ひとりの少女に戻っていた。
◇ ◇ ◇
どれくらい、そうしていたのだろう。
音楽の響きも、街のざわめきも、いつの間にか遠くに感じていた。
ざわめきの余韻が消えかけた頃――
右手が、ふと少しだけ、疼いた。
でも、それが何の痛みかはわからなかった。
ただ、私はそっと抱きしめていた腕を、もう少しだけ強くした。
その時――そっと、名前を呼ぶ声が耳に届いた。
「……リリシア、ちゃん?」
はっとして顔を上げると、見慣れた姿が目の前に立っていた。
「……リーネ、さん?」
提灯の明かりの下で、リーネさんが驚いたような、でもどこか安心したような表情で近づいてくる。
「やっぱり……リリシアちゃんだ」
そう言いながら、そっと私の肩に手を置いた。
その手はあたたかくて、ふるえる身体にじんわりと沁み込んでくる。
「どうしたの、こんなところで……ああ、こんなに冷えちゃって……」
リーネさんは私の肩を包み込むように軽くさすりながら、心配そうに覗き込んできた。
その優しさに、また胸がきゅっと締めつけられる。
「……いえ、何でもないんです」
私はそう言って、慌てて涙の痕を袖でぬぐった。
誰にも、心配なんてかけたくなかったから。
……ましてや、こんなふうに見られたくなかった。
だけど――
「何にもなかったら、こんなところに一人でいないでしょ?」
リーネさんの声は、静かで優しかった。
でもその奥には、揺るがない強さがあった。
「ねえ、リリシアちゃん」
私の顔をそっとのぞき込むようにして、リーネさんが続ける。
「誰かに頼ってもいいんだよ。ちゃんと、頼って。……わたしも、あなたの味方なんだから」
その言葉が、胸の奥にすっと染みこんでいく。
拒絶でも、慰めでもなく――ただ、真っ直ぐな気持ち。
私は、もう一度目を伏せたまま、小さく唇を噛んだ。
「……でも――」
ぐぅぅぅぅ~~……
間の抜けた音が、静かな夜の空気に、不意に響いた。
「……っ!」
顔が一瞬で熱くなる。
さっきまで張りつめていた感情が、ぱちんと弾けたようだった。
「ふふっ……」
リーネさんが、思わず吹き出す。
「……お腹、すいてたのね。夕ごはん、ちゃんと食べた?」
「……その……ちょっとだけ、食べそびれちゃって……」
言いながら、ますます顔が熱くなる。
でも、さっきまで胸を締めつけていたものが、少しだけ――ほどけていた。
「……だったら、ちょうどよかった」
リーネさんが、ぽんっと軽く手を打った。
「ね、うち来ない? うちのお母さん宿屋やってて、今日はお祭り前で、本当はバタバタしてるはずなんだけど……」
「えっ……それだと……ご迷惑なんじゃ……」
私が戸惑いながら言うと、リーネさんは肩をすくめて、あっけらかんと笑った。
「……まあ、大丈夫でしょ。むしろ誰か来た方が、うちのお母さんテンション上がるし」
その言葉に、思わずくすっと笑いが漏れる。
――なんだろう。
ほんの一言なのに、心のどこかがふっと軽くなった気がした。
「……じゃあ……少しだけ……」
「うん。それでいいの! それにわたし、もっとリリシアちゃんとお話ししたかったし」
そう言って、リーネさんはにこっと笑った。
その笑顔は、灯りに照らされてどこまでも優しくて――
見ているだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなる気がした。
「……ありがとうございます」
自然と、そんな言葉が口からこぼれていた。
たぶん、まだ全部を話せるわけじゃない。
それでも、誰かが隣にいてくれることが、こんなにも心強いなんて。
立ち上がろうとして、膝を軽く叩いたとき――
リーネさんがそっと手を差し伸べてくれた。
「ほら、行こっか。うち、すっごく居心地いいんだよ。ちょっとだけ自慢なんだから」
その言葉に、私は少しだけ笑ってうなずいた。
「……はい」
二人で並んで歩き出す。
ゆっくり、ゆっくりと――
さっきまでとは違う、少しだけあたたかい風が頬を撫でた。
広場の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
それでも、心のどこかにかすかな明かりのようなものが、まだ消えずに灯っていた。