38話_ 心の置き場をさがして
重たい空気が、部屋に残っていた。
エリザベート様はティーカップを静かに置くと、立ち上がりながら小さく一礼した。
「本日は、貴重なお時間をいただきありがとうございました。……それでは、わたくしどもはこれにて失礼いたします」
その表情に、最後まで迷いはなかった。まるで、全ての言葉が最初から決まっていたかのような――そんな眼差しだった。
クラウス様もまた、ゆっくりと席を立つ。
私は、まだ顔を上げられないまま、ただ手だけを動かして頭を下げた。
「……ありがとうございました」
かすれるような自分の声が、耳の奥に響いた。
ティナがそっと私の肩に手を添えるのがわかったけれど、視線はまだ持ち上がらない。
「……エリザベート。少し、言葉が過ぎたのではないか?」
クラウス様の低い声が、すぐそばで響いた。
エリザベート様はふと足を止め、振り返りもせずに言う。
「言葉は選びましたわ。……必要だからこそ、伝えたまでです」
「そうだとしても、あの子は――」
「“あの子”ではありません。……“魔王”ですわよ、あなた」
その言葉だけを残して、エリザベート様は廊下の奥へと消えていった。
残されたクラウス様が、ため息まじりに私の方へと視線を向ける。
「……驚かせてしまったな。だが、あれは元々、情の深い人なんだ。ただ――伝え方が不器用でな。言葉が、ときに鋭くなってしまう」
その声音には、どこか私を気遣うような柔らかさがあった。
「リリシア殿」
「……はい」
ようやく、私は少しだけ顔を上げる。
クラウス様は穏やかな眼差しを向けたまま、静かに言った。
「今は、何も言わずともよい。ただ、……今日の話は、忘れないように。あの人が何を言いたかったのか――君自身で、見つければいい」
「……」
「私は、君が“お飾り”だとは思っていない。……ただ、今はまだ“完成していない”だけだ」
その言葉は、責めるものではなかった。
むしろ、それは――これからへの期待のようにも聞こえた。
私は、ほんの少しだけ息を吸って、うなずいた。
「……はい」
クラウス様はそれ以上何も言わず、静かに扉の方へ向かう。
その背を、私は目で追いながら――少しだけ、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。
扉が閉まる。
再び、部屋には静けさが戻った。
「……リリ姉……大丈夫?」
ティナの声が、そっと私の耳元に届く。
私は、彼女の方を向き――ようやく、小さく微笑むことができた。
「……ちょっとだけ、泣きそうだった」
それは本音だった。
でも、その涙は……少しだけ、遠のいた気がした。
私は、ほんの小さく息をついて、ティナに微笑みかける。
けれど――その空気を、突き破るように。
「――あの女王様、ほんっっとうに何なの!?」
バンッ、とテーブルが揺れる音。
フィオナが立ち上がり、両手を握りしめていた。
「リリにあんな言い方するなんて……言っていいことと悪いことがあるでしょっ! 魔王がどうとか、世間知らずだとか、お飾りとか、あんなの……っ」
怒りに震える肩。
その目は、今にも泣きそうなほど真っ直ぐで。
ティナが驚いたように目を見開き、私も思わず言葉を失った。
「……フィオナ、大丈夫……だから」
私が小さくそう言うと、
「大丈夫じゃないから言ってるの!」
強い口調に、返す言葉が出てこなかった。
そんな中――
「……あいつ、リリシアにあんな言い方ないと思う」
ふいに、私の肩の上でリシルが口を開いた。
「……っ!」
アメリアさんが小さく息を呑んだのがわかった。
視線が私の肩に注がれ、唇がわずかに震えている。
「え、えと……いま、しゃべ……っ」
パニック寸前のアメリアさんをよそに、リシルは続ける。
「リリシアは……ちゃんと頑張ってる。みんなのこと、すごく考えてる。誰よりも悩んで、怖がって、それでも進もうとしてるのに……あんな風に言われたら、そりゃあ、泣きたくもなるわよ……」
その声は小さかったけれど、まっすぐで。
……まるで、代弁してくれたような――そんな言葉だった。
私は、肩の上のリシルをそっと見上げた。
彼女は私の視線に気づくと、小さくぺこりと頭を下げた。
そんなやりとりを見届けてから、ライオネルさんが、静かに息を吐いた。
「……すまない。こうなると思ったから、本当は合わせたくなかったんだがな……」
フィオナがギロリと睨む。
「じゃあ、最初から止めてくれればよかったのに!」
「無理だったんだ。……フィオナの予想通り、アメリアのわがままで日程が早まった」
横にいたアメリアさんが「あぅ……」と小さく声をもらし、俯いた。
「でもっ……でも、どうしてもお会いしたくて……っ」
ティナが思わずくすっと笑い、私もようやく肩の力が少し抜けるのを感じた。
そんな空気の中――
ノックの音が、そっと静寂を破る。
「お部屋のご用意が整いました」
扉が静かに開かれ、現れた使用人が私たちに丁寧に一礼した。
ライオネルさんがふっと表情を緩め、私たちの方を向く。
「……ありがとう。リリシアたちを、案内してくれるか」
「かしこまりました」
使用人は軽く会釈すると、そのまま廊下へと先導するように歩き出す。
アメリアさんが、申し訳なさそうに私たちへと頭を下げた。
「ごめんなさい、リリシア様。……今日は本当に、お疲れになったでしょう。どうか、ゆっくりお休みになってください」
ライオネルさんも、目元にわずかな優しさを宿して言葉を続けた。
「フィオナ、ティナ、そしてリリシアも……今日はありがとう。無理をせず、身体を休めてくれ。
……そうだな、明日は王都の広場で祭りが開かれる。騎士団の演武や劇団の出し物もあるようだ。
気分転換になるかもしれん……よければ、みんなで少し見て回らないか?」
その声は、どこか心配するようで――でも、優しさに満ちていた。
「……うん」
私たちは軽く頭を下げてから、使用人の後に続いて部屋を出た。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、三人用の客間だった。
広すぎず、けれど十分に整えられた空間。ベッドが三つ並び、窓から差し込む夕暮れの光が、淡い花模様のカーテンを静かに照らしていた。
カーテンは風にそよぎ、やさしく揺れている。
使用人は部屋の中央で、丁寧に言葉を添えて一礼した。
「お預かりしていたお荷物は、こちらに置かせていただきました。何かございましたら、お呼びくださいませ」
そのまま音を立てないように扉を閉じ、静かに去っていく。
部屋の隅には、私たちの荷物が整然と置かれている。
その姿を見送りながら、ティナがふわりとベッドに腰を下ろし、跳ねるように両手でポンポンと表面を確かめた。
「……ちゃんと、ベッドふかふかだ〜」
けれど、フィオナはまだ何か言いたげなまま、部屋の隅に立っていた。
そして――
「……やっぱり、私……ライオネルさんに言いたいこと、まだ残ってる」
きゅっと唇を噛み、ベッドの方へ振り返る。
ティナが目を丸くした。
「え、でもさっき、けっこう……」
「足りないの。……まだ、ちゃんと聞きたいの。どうして止められなかったのか、どうしてあんなことを言わせたのか。……黙ってるの、嫌だから」
その言葉に、私は何も言えなかった。
リシルも、少し沈黙していたけれど、ぽつりと呟く。
「……あたしも、あの女王様には一言言いたいわね。あんたが行くなら、ついてく」
ティナも立ち上がる。
「じゃあ、私も行く! リリ姉はここで休んでて!」
「え、でも……」
「ダメ! 今日は疲れてるでしょ? リリ姉が倒れたら、わたし泣くからね?」
その勢いに押されて、私は少しだけ目を細めた。
「……うん。ありがとう」
「うんっ、行ってくる!」
そう言って、三人は軽く手を振ると、部屋を出ていった。
扉が静かに閉じられる音だけが、最後に残った。
その音が消えると同時に、部屋には静寂が落ちる。
私は、ため息をひとつ吐いてから、ベッドの端にそっと腰を下ろした。
……ぽつり。
何かが胸の奥で、はじけるようにこぼれ落ちた。
(大丈夫……って言ったけど)
――本当は、ぜんぜん、大丈夫なんかじゃなかった。
(あんなふうに言われて……悔しかったし、悲しかったし……)
私は、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
(……情けないな)
気を抜いた瞬間、目尻が熱を帯びてくる。
ぐっと堪えて、深く息を吸う。けれど、耐えきれなかった。
ぽろり。
涙が一粒、そっと頬を伝い落ちた。
ぬぐっても、心の奥に渦巻く気持ちは、どこにも向かうことができなかった。
ふと、私は部屋の隅に置かれていた荷物のもとへ歩み寄り、その中から魔導端末を取り出した。
(……ママに、話せば……少しは、楽になれるかもしれない)
そんな気持ちが、ほんの少しだけ心をよぎった。
けれど――
『甘えるなということですわ』
あの、エリザベート様の冷たい声が脳裏によみがえる。
(……っ)
指が、端末の画面の上でぴたりと止まる。
だけど――今度は、リシルの声が重なる。
『甘えることも、誰かに頼ることも、大事よ。』
矛盾する、ふたつの声。
突き刺すような厳しさと、包み込むような優しさ。
どちらも正しくて、でも、どちらも選べなくて――
「……わかんないよ……っ」
私は、思わず声を漏らした。
気づけば、また涙があふれてきていた。
(わたし……どうしたら、いいの……?)
揺れる胸の内に、答えは見つからないまま。
私は、魔導端末をそっとベッドの上に置いて、膝を抱えた。
やがて、体を横たえると、そのまま瞼を閉じる。
◇ ◇ ◇
――どれくらい、そうしていたのだろう。
気がつけば、私はベッドに横たわったまま、浅い眠りに落ちていたらしい。
目を開けた時には、部屋の中はすっかり夜の気配に包まれていた。
カーテン越しに、淡い月明かりが揺れている。
窓の外からは、遠くの広場の方だろうか……人々の話し声や、笑い合う声がかすかに届いてきた。
(……そういえば、ライオネルさんが言ってた。明日からお祭りが始まるって)
そのせいか、王都の街はすでにどこか浮き足立っているようで――
この部屋の中だけ、取り残されたように静かだった。
ティナも、フィオナも、リシルも……まだ戻ってきていない。
誰もいない客間の空気は、やけに重くて、胸の奥にじんわりと染みこんでくる。
(……ちょっとだけ)
私はゆっくりと体を起こし、荷物の中から外出用の服を取り出した。
王宮用のルームウェアのままでは出歩けない。手早く着替えを済ませ、最後に――薄手のカーディガンを羽織る。
(少しだけでいい……でも、ちゃんと前を向くために、歩いてみたい)
そうすれば、今のこの苦しさが、ほんの少しでも紛れるかもしれない。
私は小さく息を吐くと、そっと部屋を出た。
廊下にはほとんど人の気配はない。
控えめな足音で進みながら、やがて警備の衛兵の前に立ち止まる。
「……すみません。少しだけ、外に出てもいいでしょうか?」
衛兵は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。
「お一人で……?」
「はい。少し……風に当たりたくて」
「……かしこまりました。どうか、お気をつけて」
私は頭を下げると、静かに城の外へと歩き出した。