2話_ 未熟な魔王、はじめてのお仕事
――魔王になって、半年が経った。
嵐のような日々も、ようやく落ち着きを取り戻してきた頃。
けれど、今日の朝は……どこか、胸の奥がざわついている。
窓の外には、眩しすぎるくらいの朝日。
その光に目を細めながら、わたしはシーツをぎゅっと抱きしめた。
「……ふあぁ……もうちょっとだけ……」
あくびまじりにそうつぶやいて、布団に潜り込もうとした、その時――
ドタドタドタッ!
扉の向こうから、けたたましい足音が迫ってくる。
「リリ姉ーっ! おっはよーっ!!」
……ティナ。朝から元気すぎ。
ばさりと腕が動いた拍子に、袖がずり落ちた。
そして、右手の甲に浮かぶ――淡い桃色の刻印が目に入った。
……朝から見たくなかった。
すぐに袖を引き戻す。たった数秒。それだけなのに、心の奥がチクリと疼いた。
「開けるよーっ!」
ノックもなく、扉がばーんと開く。
「って、まだ寝てたの!? まったく、また夜更かしでしょ〜?」
現れたのは、栗色のショートヘアを揺らす女の子。
自称・側近見習いで、血はつながっていないけれど、私にとっては妹のような存在――ティナ。
うるさい、けど……なんだかんだ、朝の目覚まし係をしてくれてるのは彼女だったりする。
「うん……ちょっと資料読んでたら、つい……」
目元をこすりながら、のそのそと起き上がる。
ふと見ると、ティナは両手を腰にあてて、完全に“お母さんモード”。
「リリ姉はさ〜、ただでさえ朝弱いんだから、ちゃんと早く寝なきゃダメなんだよ!」
「わかってるけど……」
ふくれっ面で答えながら、クローゼットを開けた。
中には、公務用のローブに、お気に入りのワンピースたち。
今日は――黒地に銀の刺繍が入った、落ち着いたドレスを選ぶ。
肩に羽織るのは、ボルドーの薄手ボレロ。落ち着いた赤が、少しだけ“大人っぽさ”を演出してくれる。
袖を通していると、ティナがくるりと背を向けて言った。
「じゃ、わたし先に行ってるから! 着替え終わったら来てねー!」
ひらひら手を振りながら出ていく彼女を見送って、わたしは静かになった部屋で鏡の前に立った。
長い銀髪に、淡いウェーブ。
大丈夫、大丈夫。今日は――顔を出すだけだから。
「…………あっ」
視界の端に、刻印が映る。
淡い桃色の文様。わたしの“魔王の証”。
でも、それは同時に――わたしの“過ちの記憶”でもある。
引き出しから包帯を取り出して、慣れた手つきで巻きつける。
この儀式のような動作を終えて、ようやく少しだけ息ができるようになった。
「……これで、よし」
◆◆◆
ダイニングに足を踏み入れると、パンの香ばしい匂いとハーブティーの香りが出迎えてくれた。
窓から射し込む朝の光が、テーブルクロスのレース模様を柔らかく照らしていた。
「おっ、我が家の天使がついにご登場だな!」
そう声を上げたのは、紅茶を口にしていた父――マグナス・ディアブローム。
白髪混じりの黒髪に、鋭い目元。“先代魔王”にして、わたしの父。……そして、世界を変えた英雄。中身は……ちょっと残念なほど親バカ。
「今日もかわいいぞリリシアぁ! 天使成分多めだぁ! パパ、毎朝感動が更新されてるからなッ!」
「……おはよう、パパ。朝からうるさいよ……」
席に着きながら小さく会釈する。
……うるさいけど、これが“いつもの朝”なんだと思うと、少しだけ安心する。
「はいはい、パパはそれくらいにして。リリ、紅茶いる?」
母――ティリスがティーポットを手に、微笑みながら聞いてくる。
「うん。お願い……」
相変わらず落ち着いた声。
ママの静かな笑顔を見ると、不思議と呼吸が整う気がする。
ティーポットから注がれる紅茶の音が、耳に心地いい。
「ぐっすり眠れた?」
「まあまあ……かな」
答えながら、カップを受け取る。
温かさが手のひらにじんわりと広がって――ほんの少し、緊張がほぐれる。
ふと視線を横に向けると、そこにいたのは無言で朝食をとる一人の騎士――ノワール・ルヴァンシュ。
パパの側近で、ティナの実の父。そして今は、わたしの護衛でもある。
黒髪に、鋭い目元。無口で、表情もあまり変わらないけれど――
「……おはようございます、ノワールさん」
そう声をかけると、彼はちらりとわたしを見て、小さくうなずいた。
……うん、これもいつものやりとり。
「リリ姉〜、遅いよ〜! もうパン半分なくなっちゃったよ!」
テーブルの端で、ティナがパンを片手に口をもぐもぐさせながら、頬をふくらませてこっちを見る。
「もしかして……もう三個目?」
「ち、違うよ! これは二個目で、その前のクロワッサンはノーカウントだし!」
「それ、三個目って言うんだよ……」
思わず笑ってしまう。
このやりとりも、毎朝の“お約束”みたいなものだ。
私はゆっくりとナイフを手に取り、テーブルのカゴからバターロールを一つ。
紅茶の香りとパンの温かさに包まれながら、少しだけ肩の力を抜いた。
◆ ◆ ◆
「リリ、そろそろ時間だ」
食後の紅茶を飲み干して、パパが立ち上がる。
城の外に出ると、まだ少し肌寒い朝の空気。
黒い馬車が静かに待機していた。
私は馬車の扉の前で、ふと足を止めた。
胸の奥がきゅっとなる。
その肩に、そっと大きな手が置かれる。
「大丈夫だ。今日は“顔を出す”だけだ。深呼吸して行ってこい」
そう言って、ふわっと笑うパパの表情は、いつもの“親バカ全開モード”ではなく、ほんの少しだけ真剣だった。
「……うん」
思わず、声が小さくなる。緊張が隠しきれないのか、指先がじわりと冷たくなっていた。
そんなわたしの頭を、パパが大きな手でくしゃっと撫でる。
「不安になったら帰ってこい。パパが、全力で甘やかしてやるからな!」
「……っ」
言葉より先に、涙が出そうになる。
――わたしはまだ、ちゃんと“魔王”になれていないのかもしれない。
だけど、そんな弱さすら肯定してくれる家族が、ここにいる。
パパの隣で控えていたママも、そっとわたしの手を握ってくれた。
「大丈夫よ、リリ。あなたなら、きっと大丈夫。……帰ってきたら、あたたかいハーブティーを淹れてあげる」
その優しい声に、胸の奥がほんのりと温かくなる。
振り返れば、玄関の陰にノワールさんの姿。
言葉はない。でも、その視線は優しくて――静かに背中を押してくれた。
「……行ってきます」
小さくそうつぶやいて、馬車に足をかけようとしたとき――
「リリ姉っ、こっちこっちー!」
中から、元気いっぱいのティナが身を乗り出して手を振ってくる。
「ドーンっと行こ!リリ姉なら大丈夫でしょ!」
あいかわらずの明るさに、思わず肩の力が抜けた。
「……ありがと、ティナ」
その手を取って馬車に乗り込むと、ドアが閉まり、すぐにゴトンと動き出す音が響いた。
石畳を車輪がゆっくりと転がるたび、馬車がゆらりと揺れる。
窓の外では、街の景色が緩やかに流れていく。色とりどりの屋根、人々の行き交う声。
活気に満ちた朝の景色が、ほんの少しだけ――わたしの鼓動を落ち着けてくれた。
向かう先は、“中立国グラディス”。
魔族領ディアヴェルドと、ルミエル連合――
人族・獣人・竜人・人魚・エルフたちが築いた国との間に存在する、唯一の中立地帯。
そして、種族を超えた代表たちが集う場所。
今日はそこで、評議会が開かれる。
その場に、“現魔王”として――わたしが初めて加わるのだ。
「………………」
想像するだけで、また手のひらがじっとりと汗ばんできた。
「ねーねーリリ姉っ! あのお店見て! 新作のワンピース出てるーっ!」
突然、ティナが窓の外を指差してはしゃぎ出す。
「リリ姉にぜったい似合うやつだよ! 次のお休みに、フィオ姉も誘って行こっか!」
「あ、うん……」
微笑み返そうとしたけれど――頬がひくついてしまう。
「……リリ姉?」
ティナが心配そうにこちらを覗き込む。
目をそらそうとしたその時、自分の膝の上の手が――細かく、小さく、震えているのに気づいた。
「……大丈夫だよ、リリ姉」
そう言って、ティナはそっとわたしの手を握った。
「リリ姉はリリ姉だもん。堂々としてれば、きっとうまくいくよ!」
無邪気な笑顔。そのまっすぐな目に、何も言い返せなかった。
ティナの視線が、わたしの右手に向かう。
包帯を巻かれたその手を、彼女はそっとなぞるように撫でた。
「……今日は、取らないんだ」
「……うん。これが見られると……なんか、不安で……怖くなっちゃうんだ」
包帯の下にある、“あの日”の記憶。
ティナが覚えていない、あの出来事。
わたしが、ティナの大切な記憶まで――奪ってしまった。
「………………」
ティナは何も言わずに、ただ静かに、わたしの手を包み込んでくれる。
その優しさが、痛いほどにあたたかかった。
ティナの手のぬくもりが、胸の奥に静かに灯をともす。
どんなに怖くても、どれだけ逃げたくても――こうして、隣にいてくれる誰かがいる。
……それだけで、前に進める気がした。
そして、私はそっと目を閉じる。
心の奥に――忘れられない“記憶”が、静かに浮かび上がってくる。
あの夜。
すべてが始まった、あの刻のことを――