37話_ お飾りの魔王
応接室の空気は、静かだった。
けれど、その“静けさ”には明らかな緊張が混じっていて――
私は小さく呼吸を整えながら、深く椅子に腰を下ろした。
目の前には、エリザベート様。
その表情は穏やかに整っているのに、視線の奥には一切の甘さがない。
(……ライオネルさんのお母様。元王妃にして、いまも政治に影響力を持つ人物――)
膝の上で手を重ね、姿勢を崩さないように気を張る。
その隣ではティナが緊張した面持ちで背筋を伸ばし、フィオナは視線を正面に向けたまま、冷静に様子をうかがっていた。
「……それにしても、先ほどのやりとり」
エリザベート様が静かに口を開く。
「“リシル”とおっしゃいましたか? ……あなたの肩に乗っている、その子は?」
エリザベート様の視線が、そっと私の肩にいるリシルへと向けられる。
「はい。彼女はリシル……大切な、相棒です」
私は自然に微笑みながら、リシルの額にそっと指を添える。
「ずっと一緒にいる子で……何も言わなくても、通じ合える存在なんです」
リシルはその言葉に応えるように、小さく耳をぴくりと動かした。
すると――エリザベート様の表情が、ごくわずかにやわらぐ。
「……なるほど。とても落ち着いていますね。あれほど抱きしめられても、騒がなかったのですから」
「……ええ、でもたぶん、アメリアさんでなければ怒っていたかもしれません」
そう答えると、ライオネルさんが小さく笑い、アメリアさんは顔を赤らめて俯いた。
「リリシア様……」
「大丈夫。リシルも、ちゃんと我慢してくれてたから」
私はリシルの小さな背をそっと指先でなでながら、笑みを返す。
そして――
エリザベート様が、そのままゆっくりと姿勢を正した。
「では、まいりましょう。……お話ししたいことが、いくつかございます」
その言葉に、再び場の空気が引き締まっていくのを感じた。
エリザベート様が静かに姿勢を正すだけで、まるで部屋全体の重力が増したように感じた。
「……それでは、リリシア様。ひとつ、お聞きしてもよろしいかしら?」
その声音は柔らかく、けれど――どこまでも鋭い。
「あなたは、今のこの“平和”を、どうやって守るおつもりですか?」
真正面から投げかけられた問いに、私は一瞬だけ息をのんだ。
「それは……わたし一人の力ではどうにもなりません。だからこそ、皆と協力して――」
「“皆と協力して”?」
エリザベート様の声がかすかに冷える。
「理想を語るのは簡単です。ですが、責任を持つ立場として、それだけで本当に成り立つとお考えですか?」
「……っ」
何かを言い返す前に、エリザベート様は視線を鋭く細め、言葉を重ねた。
「では、視点を変えましょう。――あなたの国、“ディアヴェルド”の平和を、あなた一人でどう維持しますか?」
「……」
一瞬、思考が止まった。
(……一人で……?)
誰にも頼らず――自国の平和を、私一人で?
「……その……私は……」
何も、言葉が出てこなかった。
胸の奥に、冷たい針が突き立てられたような感覚だけが、じわりと広がっていく。
「先日、スラム街への支援再開について、あなたが会議で発言したと聞きました。周囲が反対する中で、ライオネルが賛同したことにより、議題は通されたとも」
エリザベート様の口調は変わらない。
「――あれも、“誰かに支えてもらった結果”ではなくて?」
「……っ、それは……」
「そもそも、自国の問題を、なぜ“連合”を巻き込んでまで行おうとするのです?」
その問いに、私は答えられなかった。
苦し紛れに視線をライオネルさんに向けると、彼がすかさず口を開く。
「リリシアは――グラディスに旧体制派が攻め込んできた時、前線で戦い、幹部を討ち倒した。……見事な働きだったよ」
「ええ、それは耳にしております。ですが――その旧体制派とやら、魔族の勢力だったのでは?」
エリザベート様の声が、ピシャリと空気を裂く。
「自国の不始末を、よその地で英雄気取りで処理して、それで“よくやった”と? ――何が“魔王”ですか。自国ひとつ満足に治められない者が、王の器とでも?」
胸が締めつけられるように苦しくなった。
それでもライオネルさんが、私を庇おうと続ける。
「でも、リリシアは魔獣をも倒せる強さを持ってる。あれは――誰にでもできることじゃない」
「強さの話をしているのではありません」
エリザベート様の口調は変わらないまま、けれどその重さは明らかに増していた。
「王にとって、力など必要条件ではありません。むしろ、時には邪魔にもなるものです」
私は、ただ黙って聞くしかなかった。
「先ほど、“皆に支えられてここに立っている”とおっしゃいましたね?」
「……はい」
「ならば、問います。――なぜ王が“支えられる”のですか?」
静かでありながら、確かに刺さるその声。
「王が、民を“支える”のではないのですか?」
その言葉は、胸の奥深くに鋭く届いた。
私は――何も、言えなかった。
「結局あなたは、“先代魔王”マグナス様が築き上げた平和の上に、ただ乗っているだけの“お飾りの魔王”。――そんな幻想の中にいるのです」
痛いほどにはっきりと、そう言われた。
言葉が、喉に張り付いたみたいに出てこなかった。
何を言っても、言い訳にしかならない気がした。
(お飾り……魔王……)
頭の中で、何度もその言葉がこだまする。
肩の上のリシルが、心配そうに身を寄せてくる気配がした。けれど、それすらも――今の私には、胸が痛い。
私は……そんなふうに、見られていたんだ。
「……リリシア様」
エリザベート様の声が、静かに、けれど鋭く響いた。
「仮にも、あなたは“魔族代表”の立場でここに座っている。そのあなたならば、当然ご存知のはずでしょう」
ゆっくりと、言葉を選ぶように、けれど逃げ道のない問いが続けられる。
「今の“平和”と呼ばれるこの時代にも、貧困に苦しむ者は多く存在しています。家を失い、明日食べるものにすら困り、飢えを凌ぐため盗賊に身を落とす者もいる……あなたは、それを“知っていますか”?」
「……」
言葉が出なかった。
知っている“つもり”だった。でも、それは“書類の上”や“会議での議題”としてでしかなかったのだと、今さら気づく。
「……どう、するおつもりなのですか? 彼らをどうするべきだと、“魔王”としてお考えで?」
問いかけの言葉が、氷のように冷たい。
けれど――それ以上に、容赦がなかったのはその後だった。
「……あなたは、世間というものを知らなさすぎます」
その言葉に、私は反射的に背筋を正した。
「あなたは、真に“平和になった世界”を――ご自分の目で見たことがあるのですか?」
「……っ」
「あなたが知っているのは、ディアヴェルドとグラディス。そして……今回が初めて訪れた、我が国。それだけでしょう?」
まるで心の中を見透かすような言葉だった。
確かにその通りだ。私は“自分の知っている世界”しか、知らない。
「……わたくしが、見てきた世界とは……あまりにも違うようですわね」
その言葉が突き刺さるように重く、深く胸に落ちた。
何も言い返せなかった。
隣から、ティナが心配そうに私を見ている気配を感じた。けれど視線を向けることすらできない。
フィオナは、ただまっすぐ前を見据え、静かに眉をひそめていた。
「母上、それは――」
ライオネルさんが静かに口を開いた。
「……少し、言い過ぎでは?」
それに、エリザベート様はゆっくりと視線を彼に向ける。
「言葉を飾ることはできます。けれど、責任ある立場に立つ者には、“現実”こそが最も必要です。違いますか?」
「……」
ライオネルさんは、苦い表情を浮かべたまま、何も言い返せなかった。
「私が言いたいのは、甘えるなということです。あなたには、力も、支えてくれる仲間もいる。けれど、それらに“寄りかかるだけ”ではいけません」
その視線が、再び私に向けられる。
でも、私は――目を上げることができなかった。
「今のままでは、いずれ周囲の者たちが疲弊します。あなたが“魔王”である以上、その頂に立つ者としての覚悟を、どうかお忘れなきよう」
厳しくも、どこか突き放すような言葉。
でも、その奥に――わずかに、別の感情が混じっていた気がした。
(……違う、これは……)
ただ罵倒しているだけじゃない。
きっとエリザベート様は――“見ている”のだ。未来を。そして、その未来に“私が立てるのか”を、今、試されている。
(でも、今の私は……)
何一つ、言い返せなかった。
「……もう結構です。リリシア様には、少しお時間を差し上げたほうがよいでしょう」
静かな声が、場の空気を締めくくった。
「ティナ様、フィオナ様。どうか、リリシア様の側を離れずにいて差し上げてくださいな」
エリザベート様がふたりに視線を向け、そう促す。
ティナが「……はいっ」と短く返事をし、フィオナは静かにうなずいた。
私は、ただ……俯いたまま。
胸の奥が、重く、痛くて――今にも崩れてしまいそうだった。
(……わたし、何も……できてない……)
そう思った瞬間、涙がこぼれそうになった。
でも、泣いたら終わってしまいそうで――ぎゅっと唇を噛んだ。