35話_ 異国の湯に、心ほどけて
石畳の道を越え、白い門をくぐった先――そこに広がっていたのは、まるで絵の中のような世界だった。
陽光を反射して輝く白い壁。精緻な装飾が施された高いアーチ。整えられた庭園の花々が、柔らかな風に揺れている。
ここが、アルセリオ王宮――ライオネルさんの故郷であり、王国の中枢。
威圧感というよりは、どこか静謐な気配に包まれていて。
だけど、胸の奥では小さな鼓動が早くなるのを止められなかった。
「うわぁ……」
思わず、フィオナとティナが足を止めて、ぽかんと見上げる。
「す、すごい……。白くて……なんか、きらきらしてる……!」
「……王族って、ほんとにこういう場所に住んでるんだね……リリんとこのお城とは全然違う……」
二人の声は、どこか圧倒されたようだった。
私も思わず、目の前の建物に目を見張る。
白い石壁に、大理石の装飾。
尖塔の先には金色の紋章が掲げられ、風に揺れる旗が光を受けてはためいていた。
――確かに、魔王城とはぜんぜん違う。
重厚でどっしりとした造りの魔王城に比べて、アルセリオ王宮は、どこまでも優雅で、洗練されていて――
(……まるで、おとぎ話の中みたい)
思わず、そんな言葉が浮かんでしまうほどだった。
けれど、私は言葉が出なかった。ただ、この場所の空気に呑まれないよう、深呼吸をして自分を落ち着けようとするので精一杯で――
「緊張するな、リリ」
背後からかけられた声に、私はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、ライオネルさんが少しだけ笑っていた。
「ここじゃ、お前は“お客さん”だ。肩の力、抜けよ」
「……はい、そうなんですけど……」
思わず、そっと胸元に手を当てる。
――それでも、やっぱり落ち着かない。
異国の王宮。知らない人たちの中。
私は、“魔王”としてここに来たわけじゃないのに――なのに、どこかで意識してしまう。
(私がどう見られてるのか……)
そんな不安が、喉の奥に小さな棘みたいに引っかかっていた。
だけど。
「大丈夫よ、リリ」
今度はリシルが、肩の上からそっと囁いてくれる。
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
(……そうだよね。緊張してても、私のままでいればいいんだ)
私は小さくうなずいた。
そのとき――
「お待ちしておりました、リリシア様、ご一行様」
王宮の大理石の階段の下に、いつのまにか一人の使用人が姿を現していた。
黒髪を後ろでまとめた、物腰の柔らかい中年の女性。
けれどその佇まいは凛としていて、着ている制服の仕立ても美しく整えられている。
「長旅でお疲れのことでしょう。よろしければ、まずはお身体をお清めいただければと――湯殿をご用意しております」
「お、お風呂……ですか?」
ティナがぱっと顔を輝かせる。
「やった~!おっきいお風呂!?泡とかあるやつ!?ねえねえ、リリ姉!温泉じゃないけど、温泉みたいな感じかな!?」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて……!」
私は慌ててティナを制止しつつ、思わずフィオナと視線を交わす。
――正直、ちょっと助かった。
緊張して張りつめていた空気が、ティナの声と、使用人のやさしい微笑みで少し和らいだ気がしたからだ。
「では、どうぞこちらへ」
使用人の女性が丁寧に一礼し、白い廊下の奥へと案内していく。
私たちはそのあとを、そっと歩き始めた――そのとき。
「ちょうどよかったな。 三人とも、ちょっと匂ってたし」
「……は?」
その瞬間、私とティナとフィオナは三人そろって足を止めた。
「ちょ、ちょっと!? 今なんて言いました!?」
「それ、私たちが臭いってこと!?」
「……汗かいたのは、そもそも長時間歩かされたせいなんだけど!?」
「いやいや、悪気はないって。ほら、実際こうして風呂に案内されてるし――」
「だったら黙ってればいいのにっ!!」
ティナがぷくーっと膨れてる。
フィオナはちょっと引きつった顔で、私のほうをちらりと見てきた。
……うん、たぶん私も同じ顔してる。
けれどそのとき、落ち着いた声が静かに割って入る。
「ライオネル様」
振り返ると、先ほどの使用人の女性が微笑みを崩さぬまま、ぴしりとした声で彼を見上げていた。
「淑女の皆様に対し、そのような表現は――いささか無神経かと存じます」
「え、あ、はい。すみません……」
ライオネルさんはちょっとだけ気まずそうに頭を下げた。
が――使用人の言葉は、まだ続く。
「それに、もし王宮にお迎えした客人に対し、“匂う”などと口にされたと“エリザベート様”がお知りになれば――」
にっこりと、しかし目の奥はまったく笑っていない。
「……きっと、たいそうご立腹になることでしょうね?」
「……すみませんでした」
今度は、明らかに青ざめてるライオネルさん。
(……効いた)
私は思わず、口元を手で押さえて笑いをこらえた。
◇ ◇ ◇
廊下を抜け、使用人の案内で通されたのは――王宮の大浴場。
その手前にある脱衣所に入った瞬間、思わず息をのんだ。
床はふかふかの絨毯。壁には金色の模様があしらわれた木製のパネル。
ふんわりと香るのは、どこか花のような、上品な香油の香り。
「……ここ、脱衣所だよね?」
フィオナが小声でつぶやき、ティナも辺りをきょろきょろ見回す。
「なにこれ……ホテルのスイートルームみたい……」
部屋の隅には、仕切りのついた更衣スペースがいくつか用意されていて、そこにはあらかじめ――
「お着替えをこちらにご用意しております。リリシア様方のお身体に合わせて、ご用意いたしました」
使用人が静かに一礼し、仕切りの中を示す。
中には、柔らかそうなタオル地のバスローブと、リボンのついたルームウェアが丁寧にたたまれて置かれていた。
「……なんでサイズ分かるの?」
思わずぽつりと私がつぶやくと、使用人は口元に手を添えて微笑んだ。
「王宮のもてなしに、抜かりはございませんので」
「……ちょっと怖いかも……」
ティナが小声でつぶやき、フィオナも同意するように小さくうなずいた。
――けど、ありがたい。
旅の疲れがじわじわと出てきていたし、汗もかいてたし……。
「それでは、どうぞごゆっくり」
使用人は静かに退室し、脱衣所に残った私たちは、目を合わせて小さく頷き合った。
私たちはそれぞれ仕切りの中に入り、そっと衣服を脱いだ。
旅の間にまとった疲れと埃を脱ぎ捨てるような、そんな感覚。
そのとき――
「……ちょっと、リリ」
隣の仕切りから、控えめなフィオナの声が聞こえた。
「……右腕、大丈夫? まだ痛んだりしてない?」
「あ……うん、大丈夫。もう痛くないよ」
声だけでそう返したけれど、実はちょっとだけ、触れるとひりつく。
(……ちゃんと気にしてくれてたんだ)
ちょっとだけ胸があたたかくなるのを感じながら、私はタオルを体に巻いた。
――と、そのとき。
ふと足元に目をやると、リシルはいつの間にか、床にちょこんと座っていた。
「リシルはどうするの? 入らないの?」
私が声をかけると、リシルはちらりと顔だけこちらに向けて、そっけなく答えた。
「私はここで待ってるわ」
「えっ? だってリシルも汚れてるし、しっぽも埃まみれだよ? 一緒に入ろ?」
「気にしてないもの。それに、お風呂はあんまり好きじゃないの」
ぷいっと視線をそらすリシル。
でも、そのしっぽがちょっとだけ縮こまっているのを、私は見逃さなかった。
「だーめっ」
私はくすっと笑いながら、しゃがみ込んでリシルをひょいっと抱き上げた。
「ちょ、ちょっと!? なにするのよ!? やめなさ――」
「はいはい♪ つべこべ言わないで! どうせ入ったら気持ちいいって言うんだから」
「や、やめてっ、やめてよっ、恥ずかしいってばーっ!」
ジタバタともがくリシルを軽くいなしつつ、私はそのまま湯気の向こう――浴場へと向かって歩き出した。
浴場の扉を開けた瞬間、ふわりと立ちのぼる湯気と、花のような香りに包まれる。
視界の奥まで広がる、大理石の床と高い天井。壁には精緻な装飾が施され、天井からは丸い光玉がふんわりと宙に浮いて照らしている。
湯船は、まるで小さな池のように広くて――
「……わぁぁ……」
ティナの感嘆の声が、ぽつりとこぼれた。
透きとおるお湯の表面には、花びらのようなものがいくつも浮かび、ほのかに光を帯びて揺れている。
湯けむりの中に、静かなきらめきがゆらゆらと踊っていた。
まるで、星空を映した水面のような、幻想的な湯船。
「すご……これ、ほんとにお風呂なの……?」
フィオナも小声でつぶやき、そっとその場に立ち尽くす。
「うわっ、リリ、見て見てっ!天井、星みたいになってる! 本物じゃないけど、光の魔法かなっ!?」
「たぶん……でも、すごいね……」
私はタオルを巻いたまま、静かに歩を進めた。
浴場の壁の一角には、洗い場らしい場所が並んでいて、小さな腰掛けと桶、香油の入った瓶が整然と並んでいる。
私はそのひとつに腰を下ろし、リシルを膝の上に座らせる。
「さーて、まずはリシルからっと」
「ちょ、ちょっと! 本気で洗う気なの!? やめなさ――きゃっ、冷たいっ!」
しゃがみ込んでリシルのしっぽをお湯で湿らせると、リシルが小さく跳ねた。
「ほら、じっとしてて。動くと泡つくよー?」
「ぬぬぬぬ……これは屈辱……」
文句を言いながらも、どこか諦め気味にされるがままになっているのが、ちょっと可愛くて。
私はくすりと笑いながら、小さな手でしっぽをそっと撫でていった。
ティナとフィオナも、少し離れた場所で体を洗っている。
「うふふふ……フィオナちゃん、背中流そっか?」
「う、うん……ありがとう、ティナちゃん……って、くすぐったっ!」
「えへへ〜、ちゃんと洗わなきゃだよ〜!」
……なんだか、いつもの調子だ。
ほんのさっきまでの緊張が、まるで夢だったかのように、湯気の中にとけていく。
私はリシルを洗い終えたあと、さっと自分の体も洗い流し、ようやく――
その湯船の縁に、そっと足をかけた。
「……よいしょ……」
お湯に浸かった瞬間、思わず小さく声が漏れる。
やわらかくて、包まれるような感覚。
身体の芯まで、じわじわと熱が染み込んでいくようで――
「……ふぅ……」
肩まで湯に沈め、目を閉じると、旅の疲れがふっと抜けていくのがわかった。
リシルはというと、隣でちょこんと浮いているような状態で、しっぽだけがぴょこぴょこと揺れていた。
「……意外と、悪くないわね……」
「でしょ?」
私がにやりと笑うと、リシルはむくれた顔でぷいっとそっぽを向いた。
けど、その頬はほんのりと赤くなっていて――
(……ふふっ)
私はそっと目を閉じた。
アルセリオの温かなお湯に包まれて、静かなひとときを過ごす。
魔王でもなく、使者でもなく、ただの“わたし”として。
ようやく、心の奥までほぐれていくような気がした。




