33話_ 揺れる心は、風の中に
空は、どこまでも澄んでいた。
青く高く、どこにも曇りの気配はない。
けれど、この場所だけが、時間から取り残されたように静かだった。
辺りに立ちこめていた魔力の余韻は、ようやく風に攫われはじめている。
焦げた草の匂い、魔力の残滓、そして、倒れ伏した魔獣たちの気配――それらを背中に感じながら、私はそっと息を吐いた。
「ティナ……ありがとう」
腕の中で、ティナはぐったりとしたまま眠っている。
けれど、その顔は穏やかで、口元がほんの少し笑っているようにも見えた。
魔力の使いすぎ。だけど、ちゃんと生きてる。
リシルの言葉を信じて、私はそっと彼女の髪を撫でる。
「こっちは、大丈夫そうだね」
近くからフィオナの声がした。
彼女は私の隣にしゃがみ込み、治癒薬と包帯を手際よく取り出す。
「……さすがに魔力の反動はきつそうだけど。すぐ良くなると思う」
「ありがとう、フィオナ」
「お礼なんていいって。リリが支えてくれてたんでしょ? だったら私も、できることをするだけ」
その声に、私は小さく笑う。
彼女の指先は慣れた動きで、ティナの傷を丁寧に手当てしていく。
その姿を見ていると、ほんの少しだけ、緊張がほどけていくようだった。
「……って、リリ。腕どうしたの? 血、出てるじゃん」
「あ、これ? ちょっと引っかかれただけだよ」
「ちょっとで済ませないの」
フィオナはため息をつきながら、手早く包帯を巻いてくれた。
その手つきは、どこかあったかい。
――その時だった。
「いや、しかし……こんなの一撃で倒すとか、信じらんねえぞ……」
後ろから聞こえてきたのは、ライオネルさんの声だった。
視線の先には、地に崩れ落ちたザルヴァインの巨体。
彼は肩で息をしながら、それを信じられないものを見るように見下ろしている。
私は小さく笑って、ティナの額に手をかざす。
「一撃じゃ、ないですけどね。……ライオネルさんたちも、無事でよかったです」
その言葉に、ライオネルさんは一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「ま、そっちこそな」
そして私の頭を軽く撫でるような仕草をしながら、肩の力を抜くように息を吐いた。
フィオナが手当てを続ける中、少し離れた場所からリーネさんの声が聞こえた。
「それにしても……なんだったんだろうね。群れが森から出てくるのもそうだけど、倒したはずの魔獣が動き出すなんて……」
彼女は眉をひそめ、ザルヴァインの巨体を見つめたまま、静かに言葉を続ける。
その隣で、ユーマくんがうなずく。
「うん……あれは明らかに異常だった。魔核を潰しても暴走するなんて……早くギルドに報告した方がいいんじゃない?」
「そうね」
リーネさんは一度だけ深く頷くと、少しだけ声を張って言った。
「バルド、ごめんだけど、先にギルドに戻って報告してきてくれない?」
「ああ。任された」
短く返事をして、バルドさんは重たい重剣を背に収めると、すぐさま踵を返す。
その背中は、頼もしくて、どこか静かな決意に満ちていた。
そのやり取りを聞いていたライオネルさんが、バルドさんに向かって声を投げる。
「……なら、馬車を使って先に行ってくれ」
バルドさんが小さく振り返ると、ライオネルさんは腰のポーチから紙とペンを取り出しながら続けた。
「荷物はすまんが、王城まで運んでもらえると助かる。門の兵士にはこれを渡せ」
そう言って、簡潔な紹介状を書き記すと、ライオネルさんはそれを手渡す。
バルドさんはそれを黙って受け取り、再び無言で頷いた。
「任せたぞ、バルド」
「……ああ」
馬車の御者台に乗り込んだバルドさんが手綱を引くと、荷車はきしむ音を立ててゆっくりと動き出す。
バルドさんの姿が草原の向こうに消えていくのを見届けたあと、ライオネルさんが腰に手を当てながら振り返る。
「――じゃあ俺たちは、少し休憩してから出発しよう。俺の国まではもうすぐそこだ。歩きでも問題ないだろう」
「わかりました」
私は静かに頷く。疲労はあるけど、動けないほどじゃない。なにより、ティナの無事を確認できたことで、気持ちも少し落ち着いてきていた。
「護衛は私とユーマくんだけでも問題ないから、安心してね! ……って言っても、みんな強いから心配ないか」
少し離れた場所で地図を畳んでいたリーネさんが、明るく笑いながら肩をすくめる。
「おいおい、あまり俺たちをあてにすんなよ?」
ライオネルさんが笑いながら返すと、ユーマくんがふっと吹き出した。
「でも、王様が一番前に立って戦ってたし……なんか、妙に説得力ないよね」
「おい、お前もかよ」
苦笑しながら頭をかくライオネルさんに、私はつい笑ってしまいそうになった。
さっきまでの緊張が、少しだけ和らいでいく。
そんな会話を聞きながら、私はふと、腕の中に視線を戻した。
――ティナのまぶたが、かすかに動いた気がした。
「……ティナ?」
そっと呼びかけると、彼女の長いまつげが微かに揺れた。
次の瞬間、ゆっくりとその瞳が開かれる。
「……ん、え……?」
焦点の合わない瞳が、瞬きとともに少しずつ私の姿を捉えていく。
ぼんやりとした表情で、ティナは小さくつぶやいた。
「……リリ……姉……?」
「うん……おはよう。……ティナ、大丈夫? ……どこか痛くない?」
私は静かに問いかけながら、彼女の頬に触れるように手を添える。
「……んー……痛いような……そうでもないような……あれ……私、なにしてたんだっけ……?」
ティナは自分の手を見つめるようにして、ゆっくり瞬きをした。
――けれど、次の瞬間。
「――っ!? ま、魔獣はっ!?」
ティナは突然、バッと身体を起こした。
「ちょ、ちょっと! まだ無理しちゃ――!」
慌てて支えようとする私の手をよそに、彼女は辺りをぐるりと見回す。
寝起きとは思えないほど素早く、真剣そのものの表情だ。
「ザルヴァイン! わたし防御して、リリ姉がすごいの撃って……で、で……ん? そのあとどうなったっけ……?」
記憶をたどるように言葉を連ねていたティナの動きが、ぴたりと止まる。
ようやく状況を理解したのか、目をぱちくりとさせた彼女は、私とフィオナを見比べた。
「……あれ? 終わってる……?」
私は思わず、ふっと笑ってしまった。
「うん、全部終わってるよ。よく頑張ったね、ティナ」
ティナは数度瞬きを繰り返し、ぽかんとした表情のまま、もう一度あたりを見回した。
「……ほんとに……終わってるんだ……」
呆然としたようにそうつぶやいた後、ぽそっと一言。
「……あ〜……よかったぁ……」
そのまま、私の胸にふにゃりと身体を預けて、へなへなと力が抜けていく。
「ちょっと、もう……またそんな無茶して……」
私は困ったように笑いながら、そっと彼女の頭を撫でた。
その時、すぐ横からフィオナが、軽くため息をつきながらも、どこか安心したような声で言った。
「まったく……あんま心配させないでよね」
ティナはくすぐったそうに笑って、顔だけこちらを向く。
「えへへ……ごめん、フィオ姉……」
その素直な一言に、私も思わず笑ってしまう。
「もう。……でも、ほんと無事でよかったよ」
ティナの髪をもう一度撫でる。少し汗ばんだ感触すら、今は愛おしく思えた。
そんな私たちのやりとりを、少し離れた場所からリーネさんが微笑ましそうに見つめていた。
「ほんと、三人とも仲良いんだね。そんなに仲良くて、あれだけ強いんだから、冒険者にも向いてるんじゃない?」
軽く肩をすくめながら、リーネさんが冗談めかして言うと、すかさずユーマくんがそれに乗る。
「確かに、君たちならすぐに上位ランクになれると思う! 僕の所属してるギルドにも紹介したいくらいだよ」
その言葉に、少し離れた場所にいたライオネルさんが苦笑しながら口を挟む。
「おいおい、冗談はやめとけ。……二人はともかく、リリシアは魔王だぞ、これでも」
その言い方が少しおかしくて、私は思わず肩をすくめた。
すると、すぐにフィオナがぷくっと頬をふくらませて声を上げる。
「ちょっと、その“二人”の中に私も入ってないよね? こう見えて、お父さんの手伝いで毎日忙しいんだから!」
「そうだそうだ!」
ティナもすかさず乗っかって、胸を張るように言う。
「私だって、リリ姉のサポートで忙しいんだよ! 起こすのも着替え手伝うのも私だもん!」
「ちょ、ちょっと!? そこまで言わなくていいからっ」
私は顔を赤くしながら慌てて手を振る。
そんな中、ふと視線が落ちて――私は少し、考え込むように黙ってしまった。
「………」
ほんの数秒の静寂。
その空気に気づいたのか、フィオナがそっと私の顔を覗き込む。
「ん? どうかした? リリ」
「ふぇっ? ううん、な、なんでもないよ!」
慌てて笑ってごまかすけど、内心は少しだけ揺れていた。
――もし、私が“魔王”じゃなかったら。
この三人で、ずっと一緒に旅をして、冒険をして、どこまでも笑い合って――そんな日常も、あったのかな、なんて。
……でも。
私は魔王で、二人は私の大切な仲間で。
この関係は、たぶん、なによりも大切で――
この気持ちは、きっとすぐに忘れる。
けれど、どこか胸の奥に――ほんの小さな棘のように、残っていた。
「ま、いっか」
小さくつぶやいたその声は、誰にも聞こえなかったはずなのに。
すぐ隣にいたティナが、不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。
「え? なに? 今なんか言った?」
「な、なんでもないってば!」
そう言って笑ってみせたけれど、心の中ではまだ、あの感情の余韻が微かに揺れていた。
だけど、それを言葉にするには、今はまだ早すぎる気がして。
だから私は、話題を変えるようにそっと視線をリシルに向けた。
「そ、そうだ、リシル」
「なに?」
軽やかに跳ねながらこちらへ戻ってきたリシルが、くるんと一回転して、私の肩にふわりと乗る。
「さっき……言ってたよね。呪いが“強化”になることがあるって」
「ああ、その話ね。……ちょっと難しいけど、大事なことよね」
リシルはぴこっと尻尾を揺らしながら、少しだけ真剣な声になる。
「簡単に言うと、呪いってのはね、“心の隙”に入り込んで、その人自身の感情や思念と結びつくものなの」
「心の隙……」
「たとえば、恐怖とか怒りとか。自分でも制御しきれない“負の感情”が、呪いと共鳴すると――それは“力”に変わる」
私は思わず息を呑んだ。
「……でも、それって……強くなれるってこと?」
「確かに“強く”はなるわよ。普通の強化魔法よりも、ね」
リシルは静かにうなずいた。
「けど、その代わり……その力は“呪いに借りてる”ものなの。だから、自分では気づけないうちに、呪いに心も体も侵されてしまう」
その言葉に、ティナもフィオナも息をのむ。
「……じゃあ、自分では……強くなった理由も、呪いに蝕まれてることも気づけないの?」
「そう。呪いの厄介なところはそこなの。使ってる本人には、“ただ力がみなぎってる”ようにしか感じられない。むしろ、気持ちいいくらいにね」
リシルの言葉は穏やかだったけれど、その中にある重みは誰の耳にも伝わっていた。
「じゃあよ、さっき俺たちが倒したザルヴァインも、その“呪い”ってやつにかかってたってわけか?」
ライオネルさんが腕を組みながら、じっとリシルを見つめて問いかける。
その目には、ただの王ではない、戦場を知る者としての真剣な色が宿っていた。
「いいえ、それは違うわ」
リシルは肩の上で静かに首を振ると、空を仰ぐように小さく息を吐いた。
「リリシアにはもう教えたけど……呪いにかかっていたのは、あの“大きなザルヴァイン”だけよ。おそらく、あの群れのリーダーだった個体ね」
「リーダー……」
「ええ。そしてそのリーダーが呪いに飲まれて暴走したことで、他の魔獣たちにも異常な興奮が伝播したのかもしれない。まるで……負の魔力が感染したように」
「魔獣たちが……呪いに操られてたってこと?」
フィオナが顔をしかめながら問いかけると、リシルは小さく頷く。
「正確には、“導かれていた”って言ったほうが近いかもね。直接的に支配されてたわけじゃない。でも、あの呪いには“群れごと引きずり込む”だけの力があった」
「そんな……」
ティナが、まだ少し頼りない動きで身体を起こしながら、小さくつぶやく。
「でも……でも、それって……じゃあ、その呪いをかけたのは、誰?」
その問いに、場の空気が一瞬だけ静まり返った。
誰もが、言葉の先を知っているのに、それを口にすることを躊躇していた。
そんな沈黙を破るように、リシルが静かに、でも強い調子で言葉を重ねる。
「……わからない。でも、ひとつだけ確かなのは――こんな使い方、絶対に許されちゃいけない」
その声には、普段の飄々とした調子ではない、怒りにも似た感情が込められていた。
「呪いは、本来“内側から滅ぼす力”よ。それをあえて“外に向けて”誰かにぶつけるなんて……それはもう、ただの破壊者と同じよ」
「……じゃあ、その呪いを“かけた奴”がいるってことか」
ライオネルさんの声が低く響く。
「誰かが、意図的にあのザルヴァインを暴走させた――?」
「……その可能性は、十分にあるわ」
リシルが静かに答えた時、私の胸の奥で、かすかな不安が波紋のように広がった。
――誰が? 何のために?
そして、なぜ、今このタイミングで?
小さな疑念が、頭の隅にこびりつくように残る。
けれど、それを追いかけようとした瞬間、リシルが私の耳元で、そっと囁いた。
「……焦らないで、リリシア。まだ“全ての答え”には届いてない。でも、確実に――何かが動き出してる」
「……うん」
私は小さく返事をして、そっと視線を上げた。
空は、相変わらず、どこまでも澄んでいた。
けれど――その静けさの裏に、何かが潜んでいる気がしてならなかった。
「まあ、難しいことはよく分かんねーけどよ」
ライオネルさんがぽりぽりと頭をかきながら、いつもの調子で言った。
「今考えたって、何か分かるわけでもねーしな。俺たちは、俺たちにできることをやるだけだろ?」
その言葉に、場の空気がふっと和らぐ。
「そうだね」
フィオナが立ち上がりながら、軽く伸びをして言った。
「ティナも起きたことだし、私たちは先を急ご! 私、さっきの戦闘で汗かいたから、早くお風呂入りたいんだよね」
「えっ、ずるっ!」
ティナがびくんと反応して身を乗り出す。
「それなら私も早くご飯食べたい! 朝ごはん途中だったから、もうぺこぺこ~!」
「お前らなぁ……」
ライオネルさんは思わず苦笑しながら、腰に手を当てる。
「……ったく、自分のことばっかだな。まあ、らしいっちゃらしいが……」
そう言いながら、ちらりと周囲に目を向けた。
「おい、そろそろ出発するぞ。お前たちも準備いいか――って、おい? どうした?」
その視線の先には、どこかぼんやりとした顔のまま、口を開けて固まっているリーネさんとユーマくんの姿があった。
二人は、肩の上で気軽に会話をしていたリシルを、まるで“未知の生物”でも見るような顔で凝視している。
「……なに、今の説明……猫が、喋ってた……よね……?」
リーネさんが眉をひそめ、思わず口に出す。
「うんうん……あの喋り方、聞いたことないくらい理知的だったし……あれ、あの子って……何者?」
ユーマくんも困惑したように眉を下げながら、リシルと私とを交互に見つめてくる。
「あっ」
私は思わず口元に手をやった。
……しまった、リシルが普通に喋ってたの、ユーマくんたちには秘密にしてたんだった!
そんな私の焦りなんて気にも留めず、リシルはくるんと尻尾を一振りすると、にっこり笑いながら言葉を紡いだ。
「ふふん、私はリシル。次、猫って言ったら――ただじゃおかないから。よろしくね?」
――けれどその笑顔は、どこかゾッとするような静かな怒気を含んでいる。
「え、えぇぇぇぇぇぇぇぇ……!?」
リーネさんとユーマくんが、声を揃えて思いきりのけぞった。
そのリアクションに、ついフィオナとティナが吹き出す。
「ぷぷっ、やっぱそうなるよね〜」
「びっくりしすぎ~、ふふっ!」
そんな賑やかな空気が戻ってきた草原に、いつのまにか、優しい風がまた吹きはじめていた。
ライオネルさんが少し声を落としながら、けれど確かな圧を込めて言う。
「――おい、今のは聞かなかったことにしとけよ」
いつもは穏やかなその声音に、珍しく鋭さが混じっていた。
「冗談で済む話じゃねぇ。口外したら、本気で怒るからな」
その眼差しは真っ直ぐに、リーネさんとユーマくんを射抜いていた。
「……っ、はい!」
「わ、わかってます!」
二人は思わず背筋を伸ばし、真剣な顔で頷く。
その様子を見て、私はほっと胸をなでおろす。
リーネさんもユーマくんも、ちゃんとわかってくれた。
ライオネルさんの言葉の重みも、リシルの秘密も――きっと、守ってくれる。
「……ありがとう、ふたりとも」
小さくつぶやくようにそう呟いて、私は改めて草原の風を感じた。
空は相変わらずどこまでも高く澄みきっていて、風は優しく草をなでていく。
――あとは、みんなで前に進むだけ。
「よーし、それじゃ出発だ!」
ライオネルさんの明るい声に、みんなが立ち上がる。
最後にもう一度だけ、地面に横たわるザルヴァインの巨体を振り返る。
異変の気配を残すその姿を目に焼きつけて、私は静かに前を向いた。
向かう先は――ライオネルさんの国。
(どんな場所なんだろう……)
心の中に、わくわくとした気持ちが小さく膨らんでいく。
見たことのない景色。出会ったことのない人たち。
そして、まだ知らない出来事が――きっと、そこには待っている。
私は、そっとティナの手を握った。
「行こう、ティナ」
「うんっ!」
その元気な返事が、草原の中に軽やかに響いた。
――そして、私たちは歩き出す。
風に背を押されながら、澄んだ空の下を。