31話_ 守る者として(1)
――くんくん。
あまい香りが鼻先をくすぐった。
それと一緒に、どこか賑やかな声が耳に届く。
「……んぅ……」
まぶたをゆっくりと開けると、ほんのり差し込む朝の光が視界を染める。
まだ眠気の残る頭を持ち上げたその先に――フィオナの笑顔があった。
「……あっ、リリ、起きた?」
柔らかな声とともに、彼女がにこっと笑いかけてくる。
その向こうでは、リシルがじとっとした目でこちらを見ていた。
「まったく、あんたは相変わらずお寝坊さんね」
呆れたような口調とは裏腹に、その声にはどこかあたたかさが滲んでいる。
「そう言ってやんな。こいつもいろいろ疲れてるんだよ」
ライオネルさんの笑い声が、馬車の奥から響いてくる。
どうやら皆、すでに朝ごはんを囲んでいるらしく、香ばしい香りが漂っていた。
「ふぁあ……おはよ〜……みんな早いねぇ……」
私は大きくあくびをしながら、のそのそと身を起こす。
「おはよ〜! リリ姉! もうみんなで朝ごはん食べてるよ!」
ティナが嬉しそうに振り返って、スプーンを口に運びながら満面の笑みを見せた。
ふと、馬車の小さな窓に目をやる。
朝の光が、地平線の向こうからゆっくりと昇っていた。
夜の名残をわずかに残しながら、世界がゆっくりと目を覚ましていく。
静かな馬車の中に、朝のぬくもりと、小さな幸せが満ちていく。
「リリ姉も食べる?」
ティナが満面の笑みでスプーンを掲げる。
「うん……もらおうかな」
私はのんびりと返しながら、お弁当に手を伸ばそうとした――そのときだった。
ガタンッ――!
馬車が急に揺れ、大きく前へと傾ぐ。
「きゃっ……!」
思わず身体が浮きかけ、私は反射的に座席をつかんだ。
ティナもお弁当箱を押さえて、必死に踏ん張っている。
馬車の中には、食器がカタカタと跳ねるような音が響き、一瞬の沈黙が訪れる。
「びっくりした……急になに?」
ティナが目を見開き、戸惑いながら私の方を見る。
馬車の揺れが収まると同時に、ライオネルさんは勢いよく立ち上がり、扉の取っ手に手をかけた。
「どうした! 何があった!」
外に顔を出して叫ぶその声には、鋭い警戒心がにじんでいた。
その声に反応するように、外からリーネさんの凛とした声が返ってくる。
「魔獣です! かなりの数がこちらに向かってきています!」
空気が一気に張り詰めた。
「……なんだと……?」
ライオネルさんの声が低くなり、真剣な気配が馬車の中にも伝わってくる。
馬車の外で警戒にあたっていたユーマくんが、声を上げた。
「ちょっと……これ、ヤバくない?」
その声に、リーネさんが目を閉じ、微かに眉をひそめながら魔力の気配を探る。
そして、少しして目を開き、静かに告げた。
「……うん。私の感知でも、数が多すぎる。この反応は――ザルヴァインね」
「ザルヴァイン……?」
私は身を固くしながら、名前を反芻する。
リーネさんは、馬車の扉越しに厳しい声で続ける。
「銀灰色の狼型魔獣よ。単体でも十分危険だけど……群れで行動するのが厄介なの。この規模は普通じゃないわ」
不安の波が、胸の奥にじわりと広がっていく。
「それは……お前らだけだと厳しいな」
ライオネルさんが、低く呟くように言った。
「はい……倒せないわけではないですが、何せ数が多すぎて……」
リーネさんの声にも、わずかな緊張がにじんでいる。
「しかたねぇ」
ライオネルさんは、外の気配を確かめるように一歩前へ出ると、肩の力を抜きながら、腕を軽く回した。
「……ライオネルさん?」
思わず呼びかけた私に、彼はちらりと笑いかける。
「俺も少し加勢するかな。ここで見てるだけってのも、性に合わねぇし」
その声は妙に落ち着いていて、どこか楽しげですらあった。
「いやいや、依頼主に――てか、ライオネル様に戦ってもらうのは……」
ユーマくんが戸惑い気味に声を上げる。その視線の先には、軽く腕を回すライオネルさんの姿。
「そんなこと言ってられないでしょ!」
リーネさんが鋭く言い返す。
「このままだと、私たち全員ここでやられちゃう。……バルド、いつまでもそんなとこで座ってないで、早く準備して!」
「ああ」
バルドさんが短く応じ、手綱を放して静かに馬車を降りる。その動作に無駄はなく、すでに戦う覚悟が伝わってくる。
「えっ!? ライオネルさん、戦うの!?」
ティナが目を丸くして声を上げる。
「でも、武器は……?」
フィオナが、眉を寄せて問いかけた。
「昨日から、持ってなかったよね?」
「ああ。忘れてきちまったよ」
ライオネルさんは笑いながら、肩をすくめる。
「だが、これぐらいなら――素手で十分だ」
「そんな……! 危険すぎます!」
私は思わず声を上げていた。
「それなら私も、一緒に――」
「おっと」
ライオネルさんは手のひらをこちらに向け、軽く制するように言った。
「“戦う”なんて言うなよ。フィオナとティナもだ」
その声に、思わず言葉を飲み込む。
「お前らに怪我なんてされたら――後が怖いからな」
冗談めかした口調だったけれど、その目は冗談じゃなかった。
ライオネルさんの中にある“責任”の重さが、その一言に詰まっている気がして――私は何も言えなくなった。
――ザッ……ザッ……ザッ……。
しばらくすると、森の奥から、何かの群れが地面を蹴るような、重たく湿った足音が響いてくる。
最初はわずかな音だったそれが、次第に数を増し、馬車の周囲の空気を圧迫するように大きくなっていく。
鳥の鳴き声が途絶え、木々のざわめきまでもが静まり返る。
緊迫の気配が、音もなく押し寄せる。
「来たな……」
ライオネルさんは軽く息をつくと、馬車から一歩だけ前に出た。
その背中は、どこかゆったりとした余裕を纏っている。
――だというのに、まるで獣の気配の中心に立っているかのような威圧感があった。
「さてと……狩りの時間だな」
口元には笑みを浮かべつつも、その目は冴え冴えとした光を湛えていた。
――ふざけているように見えて、本気だ。
その姿を見て、私は思わず言葉を失った。
馬車の中では、皆が息をのんでライオネルさんの背中を見つめている。
「……大丈夫かな……」
ティナがぽつりと不安げに呟く。
「大丈夫だよ。ライオネルさんは……そういう人だから」
フィオナが静かに答える声は、どこか信じるような響きを帯びていた。
私は唇を噛みながら、それでも目をそらさずに見守る。
一方そのころ、馬車の外――
バルドさんは静かに馬の手綱を外し、大剣の柄に手をかけていた。
ごつい身体からは想像できないほど静かな動作で、重厚な剣を引き抜く。
リーネさんはすでに魔力を展開し、静かに杖を構える。
杖の先端に宿った魔力が、ほのかに淡い光を灯す。
ユーマくんは両手に短剣を握り、軽やかに構えながら、木々の影に身を溶け込ませていく。
そして、その中央にいるのは――素手のまま、ひとりで前に出たライオネルさんだった。
ザッ、ザッ、ザザザ――!
やがて、銀灰色の影が、木々の向こうから姿を現す。
鋭い牙、獰猛な眼光、しなやかな脚。
ザルヴァインたち――銀灰の狼型魔獣の群れが、森の中を埋め尽くすように広がっていく。
その数、二十……いや、もっといる。
それでも、ライオネルさんは動じない。
「おーおー、今日はやけに元気がいいな」
軽く首を鳴らしながら、彼は歩を進めた。
「……さあ、どこからでもかかってこい。今朝はちょっと、身体を動かしたかったんだよな――」
そう呟いた瞬間だった。
ザルヴァインの一体が、猛然とライオネルさんに向かって飛びかかる――!
――次の瞬間。
ライオネルさんの姿が、ふっと消えた。
ドガッ!!!
重たい音とともに、空を裂くような咆哮。
ザルヴァインが跳ね飛ばされ、地面を転がった。
リーネさんが呟く。
「……速い……」
私は馬車の中で、拳を握りしめたまま、呆然と外の様子を見つめていた。
まるで――ひとりだけ、世界の速度が違うみたいだった。
その一撃を皮切りに、森の静寂が破られた。
――グルルルルッ!
群れの中から、さらに数体のザルヴァインが地を蹴り、牙を剥いて襲いかかってくる。
ライオネルさんは、まるで踊るようにそれらを迎え撃った。
一歩踏み出したかと思えば、腰をひねり、拳で一体を地面に叩きつける。
次の瞬間には肘打ち、膝蹴り、背後の敵にも的確な一撃を浴びせ――
「……な、なにあれ……!」
ティナが、思わず声を上げた。
彼女の目は大きく見開かれ、信じられないものを見たように固まっている。
「速すぎる……あんなの、人族の動きじゃないよ……」
その横で、フィオナが低く息を吐く。
眉をわずかにひそめながらも、真剣な眼差しで戦場を見つめていた。
「でも……ライオネルさん、ちゃんと狙ってた。無駄な動きがひとつもなかった」
その言葉に、私はぎゅっと拳を握った。
言葉にならない何かが、胸の奥から湧き上がってくる。
――あれが、本物の戦い。
私には、まだ到底届かない世界。
ライオネルさんの動きは、まるで武器を持った格闘家じゃない。
**“魔獣を素手で捌く”**という非常識のはずの光景が、目の前で繰り広げられているのに――どこか美しささえ感じた。
ふと、馬車の陰から別の影が跳び出す。
――バルドさんだ。
彼は重たそうな剣を軽々と振りかざし、走り込んできたザルヴァインの動きを見定める。
敵の動線を読んでいたかのように、無駄のない一撃――剣が空を裂き、ザルヴァインの動きが止まった。
「おおぉおっ……!」
重厚な一撃の振動が、地面を通じてこちらにまで響いてくる。
「バルドさんも……すごい」
私の手のひらは汗ばんでいた。
視線を巡らせると、馬車の向こう側――
リーネさんが、静かに杖を掲げていた。
杖の先端には、目に見えない風が集まるように空気が震えている。
「――《エア・スラスト》」
風鳴りの音が一瞬響いたかと思うと、次の瞬間、
ザルヴァインの一体が、まるで目に見えない刃で斬り裂かれたかのように吹き飛んだ。
その場にいた他の魔獣も、何かを感じ取ったように身を引く。
「リーネさん……」
誰もが力任せで戦っているわけじゃない。
彼女の戦い方は、計算と精密さの上に成り立っている。
そして――
「こっちはこっちで、やるしかないか……」
木々の間をすり抜ける黒い影。
ユーマくんが、舞うように戦場を駆け抜けていく。
手にした双剣が、しなやかな軌跡を描きながら、敵の足元を狙って切り裂く。
速度と機転。攻撃というより“攪乱”に近いその動きが、群れの連携を分断していく。
「……すごい……」
私は、ただ見守ることしかできなかった。
外の光景は、息を飲むほどの激しさと、それ以上の連携に満ちていた。
けれど、不思議と怖くはなかった。
――みんな、強い。
今はまだ、私の出る幕じゃない。
でも、ちゃんと分かる。
あの人たちは、本気で“護るために”戦っているんだ。
――そんな想いを胸に抱いた、まさにその時だった。
空気が、ふと変わった気がした。
森を包む風が止まり、ひやりとした静けさがあたりを支配する。
まるで、何かが“来る”とでも言うような……そんな予感。
――ガウゥゥゥゥッ!!
突然、群れの中でもひときわ大きなザルヴァインが、低く唸るような咆哮を放った。
その声に反応するように、他の魔獣たちの動きがぴたりと止まる。
「……っ?」
リーネさんが眉をひそめる。
ユーマくんも、一瞬足を止めて周囲を見渡した。
そして――
次の瞬間、ザルヴァインたちの動きが変わった。
それまでバラバラに突撃していた群れが、まるで“意思”を持ったかのように連携を取り始める。
左右からの挟み撃ち。
前方への陽動、そして背後からの包囲。
「なっ……動きが変わった……!?」
フィオナの目が驚愕に見開かれる。
「……うそ……さっきまで、ただの獣みたいだったのに……」
ティナの声が、わずかに震える。
馬車の中で私たちが見ていたのは、さっきまでの一方的な戦いじゃなかった。
――むしろ、これからが本当の戦い。
ライオネルさんが、二匹のザルヴァインをいなした直後、背後から飛びかかる影に気づき、身をひねってかわす。
「っ……!」
軽口はもう聞こえない。
その表情には、明らかに“戦士”としての緊張が走っていた。
「おいおい……こりゃ、ちょっとした運動ってレベルじゃなくなってきたな……」
低くつぶやいた声が、かすかに汗の混じった空気に溶けていく。
その間にも、バルドさんの大剣が弾かれ、リーネさんが杖で魔力を集中しながら後退していく。
ユーマくんも、敵の連携に追われるようにして位置を変え、さっきまでのような攪乱が効きづらくなっていた。
――何かが、変わった。
私は、胸の奥を締めつけられるような感覚とともに、その光景を見つめていた。
――状況は、明らかに悪化していた。
リーネさんが後退しながら、冷静な声で指示を飛ばす。
「バルドさん、右から回って! ユーマくん、左を牽制して! ライオネルさんは中央を維持!」
指示は的確だった。
だけど、敵の数と動きの速さが、確実に彼女たちの足を奪っていく。
(このままじゃ……)
胸の奥がざわつく。
手が汗ばんでいるのがわかる。
でも――私は、まだ動けないでいた。
(私が行ったところで、足手まといになるかもしれない……
それに、フィオナやティナを危ない目に遭わせることになったら……)
そんな迷いが、心を縛っていたその時――
とん。
膝に、何かが優しく触れた。
リシルだった。
私の膝の上に前足をちょこんと乗せて、じっと見上げてくる。
「まだ“守られる側”でいたいなら止めないけど……本気で守りたい相手がいるなら、行くでしょ? あんたなら」
その声は、静かだけど強い。
「大丈夫、あたしがサポートしてあげる。あんたはあんたのやり方で、戦えばいいのよ」
その言葉に――胸の奥で、何かが溶けていくのを感じた。
「……うん」
私は小さく頷き、膝の上に手を置いた。
震える指先に、少しずつ力が戻っていく。
立ち上がろうとした、まさにその瞬間だった。
「……しょうがないわね」
すぐ隣で、フィオナが肩をすくめた。
「リリ一人じゃ心配だからね。私も付き合うわ、当然でしょ」
そして、その言葉にぴょんと反応したのが――ティナだった。
「もうっ、なんでフィオ姉だけ! リリ姉が行くなら、わたしも行くに決まってるでしょっ! 今度はぜったい、わたしがリリ姉を守るんだから!」
「フィオナ……ティナ……」
名前を呼ぶ声が、自然と震えた。
でも、その震えはもう、迷いじゃなかった。
私は、ぎゅっと拳を握りしめ――小さく息を吸い込んだ。
その肩の上では、リシルが小さく身じろぎする。
尻尾がふわりと揺れ、まるで「行こう」と言っているみたいだった。
迷いのない足取りで、私は馬車の扉に手をかける。
フィオナとティナが、すぐ後ろからついてくる気配がした。
扉を押し開けると、外の空気が一気に流れ込んできた。
血の匂い、焦げた土の匂い、魔力がぶつかり合う気配――
だけど、不思議と、怖くはなかった。
私は一歩、馬車の階段を降りる。
その瞬間、肩の上のリシルが軽く尻尾を揺らした。
――あたたかなぬくもりが、背中を押してくれる。
そのすぐ先で、魔獣の群れと対峙していたライオネルさんが、こちらを振り返る。
「お、おい、お前らは馬車の中にいろって!」
驚いたような声が飛ぶ。
でも私は、まっすぐ彼を見つめながら、しっかりと応えた。
「大丈夫です。今の私は……もう、誰かの後ろに隠れているだけの存在じゃありません」
風が、私たちの髪を揺らす。
リシルの毛並みもふわりと風に乗ってなびいていた。
隣にはフィオナが、迷いのない目で前を見つめて立っている。
ティナも、その横でぐっと胸を張っていた。
そして、私の肩の上には、小さな神獣――リシルが共にある。
恐怖も、迷いも知っている。
それでも、守りたい仲間がいる。
なら、迷わず進むだけ――これが、今の私の力。




