1話_ 小さな魔王の、最初の一歩
カーテン越しに射し込む朝日が、髪を柔らかく照らしていた。
鏡の前に立つと、式典用のローブの襟がほんの少しだけ歪んで見える。
黒と深紅――重厚な色彩に包まれたその衣装は、魔王の威厳を象徴するもの。
……だけど今は、私の肩にずっしりと重くのしかかっていた。
「……やっぱり、似合ってない気がする」
ぼそりと漏れた私の声に、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。
「似合ってるってば、リリ! 何度言わせる気?」
フィオナの声は、いつも通り自信満々だった。
私の肩に手を置き、くるっと鏡の前で向き直らせる。
「ほら、ちゃんと“魔王”って感じするよ。ばっちり!」
「魔王“っぽい”って……それって褒めてる?」
「褒めてるよ? ちょっとだけ、ね」
くすっと笑ったフィオナは、私の髪を整えながら軽く首をかしげた。
鏡に映る私は、今日から“魔王”になる予定の女の子。
でも胸の奥はざわついたままで、実感なんて――正直、まったくない。
「リリ姉ー! 空がすっごく綺麗だったよ! 風も気持ちいいし……今日はいい日になると思う!」
勢いよく部屋に飛び込んできたのはティナ。
無邪気な声が、少し張りつめていた空気をゆるませる。
「ねえティナ。今日は大事な日なのよ? もう少し落ち着いて」
やわらかく制する声が続いて、ママが優雅に部屋へと入ってきた。
私の目元にそっと視線を向けて、静かに手を差し伸べる。
「緊張してるわね、リリ」
私は小さくうなずいた。
……だって、今日から私は、“魔王リリシア”になるんだから。
「ねえ、ママ……本当に包帯、取らなきゃダメ?」
おそるおそる右手に目を落とす。
袖の下には、ずっと隠してきた刻印がある。
それは、幼い頃に現れた――ディアブローム家の証。
だけど私は、どうしてもそれを好きになれなかった。
「ダメよ。今日は、あなたにとって大切な日なんだから」
ママは優しく笑いながらも、きっぱりとした口調でそう言った。
あまりにも当然のような響きに、私は返事ができず口をつぐむ。
「……まだ、みんなに見せる覚悟、できてないのに」
「覚悟は見せるものじゃないわ。――背負うものよ」
その一言に、フィオナが「かっこいい〜」と感嘆の声を漏らす。
……でも、私には少しだけ、重たかった。
遠くで鐘の音が鳴っている。
式の時刻が、もうすぐそこまで迫っていた。
「……わかったよ」
私は小さく息を吐いて、袖をまくる。
乾いた包帯が、肌をなぞるように静かに解けていく。
その下から、淡い桃色がかった刻印が――静かに姿を現した。
光ってはいない。ただ、そこに在るだけ。
……けれど、私にはその存在がずっと怖くて、重たく感じられた。
でも今日は――逃げられない。
「似合ってるよ、リリ姉!」
ティナの明るい声が、部屋に響く。
その笑顔はいつも通りで、無邪気で――それだけで、少しだけ心が軽くなった。
「ほんとよ。自信、持ちなさいな」
ママの声はやわらかく、でもどこか背筋が伸びるような強さがあった。
「リリが魔王で何が悪いのよ。堂々としてればいいの!」
フィオナが豪快に笑って、私の背中をどんっと叩く。
……ちょっと痛いけど、その勢いにつられて、私もつい笑ってしまった。
「……ありがとう、みんな」
私は刻印の上に、そっと左手を重ねる。
今日は、世界に“魔王リリシア”として立つ日。
胸の奥で、なにかが静かに灯るのを感じながら、深く息を吸った。
そして、一歩を踏み出す。
◆ ◆ ◆
城の上階に設けられた、白い石造りのバルコニー。
晴れ渡る空の下、そこからは広場と城下町が一望できた。
風に乗って、民のざわめきがかすかに耳に届く。
(……こんなに、たくさんの人が……)
思わず唾を飲み込んだ。
見渡す限りの視線が、まっすぐこちらへ注がれている気がする。
「リリ姉、がんばってね」
栗色のショートヘアを揺らしながら、ティナが小さく手を振ってくれる。
「私たちは、あっちの席で見てるからね」
フィオナもやわらかく微笑みながら、連合関係者の来賓席へと向かっていった。
ふたりの背中が、次第に遠ざかっていく。
残された私は、ママと並んで壇上の中央へと歩み出た。
(……脚が、震えてる)
一歩進むたび、自分の身体が思うように動いていないのがわかる。
心臓の音はうるさいほど響いて、指先まで震えていた。
それでも――進まなきゃ。
気づかれないように、そっと息を吸った。
そして壇上の中心。
そこに立つのは、パパ――マグナス・ディアブローム。
白髪混じりの髪に、漆黒のマント。
その風格は今も変わらず、見る者すべてを圧倒していた。
「……皆の者、よく聞け!」
パパの声が響いた瞬間、広場のざわめきが凍りつくように消えた。
空気そのものが震えた気がした。さっきまでの喧騒が嘘のように、静まり返る。
「ここに――新たなる《魔王》が誕生する!」
「わが娘、リリシア・ディアブロームを、その玉座へ迎え入れる!」
その宣言とともに、鐘の音が高らかに鳴り響く。
空から花びらが舞い、白い光のように風に乗ってひらひらと降ってきた。
(……今、わたしが……)
あらゆる視線が、たったひとりの少女――私に注がれる。
頭の中が真っ白になった。
口を開こうとしても、声が出ない。脚がこわばり、ほんのわずかによろけてしまう。
「リリシア、落ち着いて」
ママの静かな声が、そっと背中を支えてくれる。
(……できる。できる。わたしなら……!)
深く息を吸い、震える声をなんとか絞り出す。
「わ、わたしは……リリシア・ディアブローム、です……!」
少し裏返った声。でも、それでも続けなきゃ。
「こ、こんなに大勢の前で喋るのは……は、初めてで……」
「……いえ、そんなことより……」
胸元で、そっと手を握りしめる。
今日は、右手の包帯をママに外されていた。
その下にある“刻印”は、今も静かなまま、私の手の甲に存在している。
「……わ、わたしに……魔王が、つ、務まるのか……」
「お父様みたいに、強くて……大きくて……みんなを、導けるのか、わかりません……」
喉の奥が詰まりそうになる。
言葉がかすれ、視線が揺れて見える。
「で、でも……っ」
「それでも、わたし……! 前に、進みたいんです……!」
そのときだった。
「――大丈夫だぞー!」
「がんばれーっ!」
「わかってるよ、リリ様!」
「マグナス様に似てるもん!」
観衆の中から、いくつもの声が飛んだ。
それは、子どもの無邪気な声。
老いた人の、あたたかな笑い声。
そして兵士たちの、力強い励まし――
まるで、ディアヴェルドという国全体が、私の背中を押してくれているようだった。
(……あったかい……)
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
「……わたし、きっと――まだまだ、頼りない魔王です」
正直にそう言葉にすると、不思議と心が少し軽くなった。
「不安で、緊張して、今だって……足が、震えてるんです」
つい、少しだけ笑ってしまう。
「でも……それでも、皆さんの笑顔が、わたしにとって――何よりの力になります」
私は、まっすぐに前を見つめる。
「だから……わたしは、“自分にできること”から、始めたいです」
無理に飾らず、等身大の思いを伝えるように。
「立派な魔王かどうかは、分かりません……」
「けど――この国に生きる皆さんと、一緒に笑える魔王に……わたしは、なりたい」
静かに、けれど確かな決意を込めて、頭を下げた。
その瞬間――広場中に、万雷の拍手が響き渡る。
私は――確かに、足が震えていた。
喉は詰まりそうで、声も震えていた。
けれど、どうにか最後まで、自分の言葉で話し切った。
城下の広場から、あたたかな拍手と、応援の声が届いてくる。
でも……私の声が震えていたことが、情けなかった。
みんなの前で堂々と立てなかったことが、ただ、悔しかった。
――そんなときだった。
肩に、そっと重みがのしかかる。
……パパが、私の左肩に手を置いていた。
「皆よ――我が娘、リリシアの言葉を、聞いてくれて感謝する」
その声は、いつもより少しだけ優しくて。
けれど、しっかりと魔王としての威厳をたたえていた。
「彼女はまだ未熟だ。迷いもあるし、失敗もするだろう。だが……」
「私は知っている。誰よりも努力を重ね、悩み、歩き続けてきた子だということを」
うつむきそうになる顔を、ぐっとこらえる。
その瞬間――ママが、そっと私の手を握ってくれた。
そのあたたかさが、張り詰めていた心を、ふわりとほどいてくれる。
「どうか、願わくば――この新しき魔王を、見守ってやってほしい」
「その小さな背中に、未来があると……私は、信じている」
ふたたび、拍手が起こった。
今度のそれは、もっとやさしくて、包み込まれるような音だった。
パパは一拍置いて、ふっと口元をゆるめる。
「……ああ、ついでに言っておくが――」
「我が娘に変な気を起こすような不埒者がいれば、その時は……魔王である前に“父親”として全力で粛清するので、そのつもりで頼む」
「うぉお……」というどよめきが広場から返ってきた。
その中には、笑いを含んだ拍手も混ざっていた。
「パ、パパ……っ!」
耳まで真っ赤になって、思わず叫んでしまう。
さっきまでの緊張なんて一瞬で吹き飛ぶくらい、心の中が恥ずかしさでいっぱいだった。
隣を見ると、ママが口元に手を添えて、やさしく微笑んでいた。
「ふふ……リリ、顔が真っ赤よ?」
「も、もうっ、笑わないで……!」
観客席の方からも、くすくすと和やかな笑い声が広がっていく。
でも、それは決して冷やかしなんかじゃない。
きっと、あたたかくて、やさしい笑い。
この国の人たちは、ちゃんと――私を見てくれている。
そのことが、胸の奥に、じんわりと染み込んでいった。