25話_ 契約の余韻と寝坊姫
部屋に戻ると、ようやく緊張の糸が切れたみたいに、私はベッドの端に腰を下ろした。
深く息をつく。胸の奥が、まだざわざわしている。
隣では、肩から降りたリシルが軽く背伸びをして、尻尾をゆらりと揺らしていた。
その仕草がなんだか普通すぎて、さっきまでの会話が夢みたいに思える。
――神契術式。
――ドーン・グリフ。
――初代魔王。
それぞれの言葉が胸に突き刺さるみたいに重たくて、頭の中をぐるぐると回っていた。
考えれば考えるほど、息苦しさだけが募っていく。
「全然理解できてないって顔ね」
リシルが尻尾を小さく揺らしながら、私を見上げる。
「……うん」
自分でも情けないくらい、すぐに頷いてしまった。
「さっきの話で、私の刻印が特別なのは……なんとなく分かったの。
でも――結局、リシルが何者なのかは、よく分からなくて……」
口にした瞬間、自分でもドキッとした。けれど、それを隠すように視線を落とす。
リシルはふっと目を細めて、ゆっくりと尻尾を揺らした。
「……まあ、そうなるわよね。いいわ、少しだけ簡単に教えてあげる」
小さくため息をつき、私の膝の上に軽く腰を下ろす。
「初代魔王が契約した“魔神”と“神獣”。あれは確かに一対しか存在しない。
でもね、代が変わるたびに“魂を分けて”次代の魔王に宿ってきたの。
つまり私は――初代から受け継がれてきた“神獣のかけら”。」
「かけら……?」
「そう。同じ存在でありながら、完全に同じじゃない。
だから“私”は、今代のリリシアのためだけに生まれた神獣。
――そう思ってくれればいいわ」
「そう……なんだ……」
胸の奥に、まだ引っかかるものが残る。けれど、それを誤魔化すように、別の疑問を口にした。
「あ、あと……さっきは聞けなかったんだけど。
バルグロウやギーツさんと戦った時に使った魔法――あれも、刻印の特別な魔法なの?」
問いかけると、リシルは尻尾を揺らしながら、ふっと首を横に振った。
「ギーツの時の魔法は違うわ。あれは――あたしが力を貸す時に流れ込んだ魔神の力が、あんた本来の魔法に重なって、別の形に変わったの」
「……変わった……?」
「そう。あんた自身の魔法が“変異”したの。
刻印の力じゃなく、魔神の影響を受けた偶発的な現象に近いわね」
胸の奥が、きゅっと冷たくなる。偶発的――それはつまり、次も同じように扱えるとは限らないということ。
そんな私の表情を見てか、リシルはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「でもまあ、あたしが“フィルター代わり”になってるから、暴走とかは心配しなくていいのよ。
――感謝しなさい」
「……な、なんか言い方がいやらしいんだけど……」
「事実を言ったまでよ。ほら、もっと拝んでくれてもいいのよ?」
リシルはわざと偉そうに胸を張り、尻尾をぱたぱたと揺らした。
思わず苦笑いが漏れる。
さっきまで胸を締めつけていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。
――けれど、まだ気になることがあった。
「じゃあ……バルグロウと戦った時の、あの光の魔法は?」
私の問いに、リシルは小さく目を細める。
「……あれは少し違うわ。偶発じゃなく、あの時は“暁紋”が一瞬だけ反応したの。
あたしが力を貸すのに合わせて、追い詰められたあんたの想いに刻印が応えた――だから、あの魔法が出せたのよ」
「……じゃあ、私の力……?」
「力には違いないけど、安定して使えるものじゃないわ。
言ってみれば、あの瞬間だからこそ引き出せた奇跡みたいなものね」
口調はきついのに、尻尾の動きはどこか楽しそうだった。
「……奇跡、かぁ……」
小さくつぶやく私に、リシルはちらりと視線をよこした。
「ま、落ち込むことはないわよ。もしかしたら、練習すれば使えるようになるかもしれないし」
尻尾をひょいと揺らして、からかうように笑う。
「――あっ、でもね。今のあんたに“ちゃんと使える魔法”がひとつだけあるの」
「……えっ?」
顔を上げた私に、リシルはわざと勿体ぶるように片目を細めた。
「――それは、浄化魔法《浄化の光》よ」
「……なんだ、浄化魔法か。
それならママだって、すごいのを使えるし……」
思わず肩を落とす私に、リシルはぴしゃりと尾を振って言い放った。
「そんなチャチなものと一緒にしないで」
赤色の瞳が細く光る。
「これは、あらゆる呪いも闇魔法も断ち切れる力。――あんたが“持って生まれた刻印”だからこそ扱える、本物の浄化よ」
けれど、リシルはすぐに小さく肩をすくめ、独り言のようにぽつりとつぶやいた。
「……もっとも、今のあんたは“暁紋”の段階だから……せいぜい、強力な呪いや闇魔法を“少し抑える”くらいが限界ね。とはいえ――ティリスが使う浄化魔法なんかより、ずっと格が上よ」
小さな声だったけれど、私の耳にかすかに届いていた。
それは、十分すぎるほどの力に思えた。けれど同時に――まだ先があることも、はっきりと告げられた気がした。
「……ねぇ、それって、どうやってやればいいの?」
思わず身を乗り出す私に、リシルが呆れたように尻尾をぱたんと叩いた。
「はぁ? あんたバカじゃないの? 今ここに、呪いや闇魔法を食らってる人がいると思う? 実践しようがないでしょ」
「……あ、たしかに」
返す言葉もなく、私はただ視線を逸らした。
するとリシルは、わざとらしくふんっと鼻を鳴らした。
「まあ、心配しなくても大丈夫よ。そういう機会なんて――勝手に向こうからやってくるものだから」
「……やってこなくていいんだけど」
小声でつぶやいた私に、リシルはにやりと笑みを浮かべただけだった。
リシルの赤い瞳が、ランプの光を反射して小さく瞬いた。
そのにやりとした笑顔を見ながら、私は小さく息を吐く。
「……ほんと、あんたって調子が狂うんだから」
口ではそう返しながらも、胸の奥にあった重苦しさが、いつの間にか和らいでいた。
だけど――考えるべきことは、まだ山ほどある。神契術式、刻印、そして私自身の力。
答えを見つけなきゃいけないのに、今はまだ頭がまとまらない。
ふと横を見ると、リシルはすでにベッドの端に丸くなり、尻尾を小さく揺らしていた。
まるで何事もなかったかのように、あっという間に夢の中へ落ちていく。
「……いいなぁ、リシルは」
小さく呟きながら、私も布団に体を沈める。
思考はまだざわめいていたけれど、そのざわめきに疲れた心と体は、あっけなく眠りに落ちていった。
◇◇◇
「――リリ姉、まだ寝てるんじゃない?」
「ふふ、ほんとだ。こんな時間まで爆睡なんて珍しいね」
かすかに、耳に届く声。
夢と現実の境目で、ティナとフィオナのからかうような笑い声が混じり合う。
「……ん……?」
重たい瞼をこすりながら、私は寝返りを打った。
まだ頭がぼんやりして、体が布団に沈んだまま動けない。
「おーい、リリ姉〜? おきろ〜?」
「寝坊なんて珍しいね。昨日の会議で疲れた?」
にぎやかな声がだんだん近くなり、ようやく私は目を開けた。
差し込む光に顔をしかめながら、寝ぼけた声をもらす。
「……え、あれ……もう朝……?」
「おっそーい! リリ姉、完全に寝坊だよ!」
ティナが元気いっぱいに宣言する。
その横で、フィオナが腕を組み、少し呆れたようにため息をついた。
「ていうか……もう“朝”どころか“お昼”なんだけどね」
「えっ……?」
私は布団の中で瞬きを繰り返しながら、まだ夢の続きを引きずるみたいにぼんやりと顔を上げた。
「……あれ? フィオナ……? なんでいるの……?」
寝ぼけた声でそう口にすると、二人の間にしばし沈黙が落ちた。
そして――
「「…………ぷっ!」」
ティナとフィオナは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
ティナがベッドの脇まで駆け寄って、にやにや笑いながら覗き込む。
「リリ姉ほんとにまだ寝ぼけてる〜!」
そこへ、布団の中からひょこっと出てきたリシルが尻尾をぱたんと揺らして冷ややかに言い放つ。
「まったく……いつまで寝ぼけてるのよ」
「いい加減起きないと、ティリス様に怒られるよ〜?」
ティナが追い打ちをかけるように笑うと、私は思わず布団をかぶりそうになった。
そんな私を見て、フィオナが小さく肩をすくめる。
「……ほんと手がかかるんだから」
けれど、その声色はどこか優しくて、まるでお姉さんに叱られているみたいだった。
「うぅ……もう少しだけ……」
布団にしがみついて小さく甘える私に、フィオナがため息をつきながらも苦笑する。
「はいはい、早く起きて。お昼行くよ」
そう言って容赦なく布団を引っぺがされた。冷たい空気に肌が触れて、私は「ひゃっ!」と小さく跳ねる。
結局、逃げ場もなく支度を整えた。
◇◇◇
場所はダイニング。
すでに用意された昼食の香りが部屋に広がっている。
私は着替えを済ませたものの、まだ恥ずかしさが抜けきれず、そっと椅子に腰を下ろした。
「リリ姉、ほんと寝坊姫だよね〜」
ティナがにやにや笑いながらからかう。
「昨日は私をからかってたくせに、今日は寝坊だなんてね……」
フィオナも隣で肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。
「うぅ……やめてよ……」
思わずうつむく私。
その様子を見ながら、パパとママは向かいの席でくすくす笑っていた。
「ところで……なんでフィオナがいるの?」
気になって口にすると、フィオナは穏やかに微笑んだ。
「今朝ね、ティナから連絡があったの。ライオネルさんの国に行く前に、お土産を買いに行こうって誘われたんだ」
「……えっ」
思わずティナの方を見ると、本人はにっこり笑顔。
「で、なかなかリリが起きないから――助けてって呼ばれたの」
フィオナは楽しそうに笑いながらそう言った。
「……っ」
私は再びティナの方を見る。
するとティナは、しれっと口笛を吹きながら目を逸らしていた。
「ティナ……」
私は思わず低く名前を呼んだ。
ティナが「へ?」ときょとんとした顔をした、その瞬間――
「いい加減にしないと――怒るからね!!」
勢いよく声を張り上げる。胸の奥に溜まっていたものが一気に爆発したみたいだった。
「ひゃっ、出た! リリ姉の雷っ!」
ティナは慌てて後ずさりしながらも、にやにや笑いを浮かべている。
私はますます頬が熱くなって、ぎゅっと拳を握りしめた。
その横で、フィオナが「まったく……」とため息をつきながらも、口元に小さな笑みを浮かべていた。
「ふふ……賑やかねぇ」
ママが肩を揺らして笑い、パパは腕を組みながら妙に真剣な顔でつぶやく。
「……“寝坊姫”か。ティナ、いいあだ名を思いついたな」
「あなたまで便乗しないの!」
すかさずママの突っ込みが飛び、私は「パパまでぇ!?」と情けない声を上げる。
そんなやり取りを見ながら、フィオナは小さくため息をつきつつも、ほんのり笑みを浮かべた。
「……まったく、ほんと手がかかるんだから」
やさしく小言を言うその様子は、やっぱり少しお姉さんみたいだ。
「よーし決めた!」
ティナが勢いよく手を突き上げる。
「リリ姉、寝坊のお詫びに今日のおやつ奢ってよ!」
「なんでそうなるのよ!?」
私が思わず椅子から立ち上がると、ティナは「やったー!」と勝ち誇ったように笑い、パパとママまで楽しそうにくすくす笑っていた。
結局、私だけが顔を真っ赤にして、ますます場の笑い者になってしまうのだった。
「……で? なんで“お土産買いに行く”なんて話になってるの?」
私はスプーンを置き、ティナをじっと睨んだ。
「えへへ〜だってさぁ、ライオネルさんの国に行く前に、絶対お土産用意しといた方がいいじゃん? ほら、心遣いって大事だし!」
ティナは胸を張って堂々と言う。
「……それを思いついたのはいいけど、なんで私が寝坊してる間にフィオナを巻き込んでるのよ」
「そこはほら、“協力プレイ”ってやつ?」
ティナはにやにや笑って私を見る。
「でもまぁ、ちょうど私も暇だったから付き合うよ」
フィオナは肩をすくめて笑い、私の方に視線を向けた。
「フィオナまで……」
私はがっくりと肩を落とす。
「さぁ! お昼食べたら、街に出発〜!」
ティナはすでに立ち上がり、椅子をがたんと鳴らした。
「リリ姉は寝坊のお詫びに、荷物持ちね!」
「なんで私が……!」
抗議の声を上げるも、フィオナが「まぁまぁ」と笑いながら背中を押す。
「せっかくだし、三人で選んだ方が楽しいでしょ?」
結局、私はぐぅの音も出ず、ティナの笑顔とフィオナの優しい声に押し切られてしまう。
私は軽くため息をつき、肩をすくめながら問いかけた。
「……で? どこに買いに行くの?」
するとティナが口元に指を当てて、うーんと唸る。
「ん〜、グラディスのお土産は珍しさがないだろうし……」
言いながら、視線を天井に向けて考え込んでいる。
その隣で、フィオナがぱっと手を打った。
「じゃあさ、ここの城下町で買うのはどう? ディアヴェルドのお土産なら、人族には珍しいものが多いと思うし」
「たしかに……」
私は思わず頷いていた。
魔族領の文化って、連合の人たちからしたら不思議なものが多いし、ちょっとした工芸品でも話題になりそう。
「よし決まりっ!」
ティナが元気よく手を叩いて、勢いよく立ち上がる。
「リリ姉、荷物持ち頼んだよー!」
「……はいはい。どうせ私の役割はそれでしょ」
私は呆れながらも立ち上がり、二人の後を追った。