22話_ 笑い声の向こう側
グラディスの街は、今日も朝からお祭り一色だった。
記念式典の翌日とは思えないほどの賑わいで、通りには色とりどりの屋台が並び、甘い香りや香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。
「……ねぇ、わたし、ちょっとあれ見てくる!」
私が指さしたのは、大きなわたあめの屋台。
ふわふわとした白い雲みたいなお菓子が、くるくると棒に巻きついていくのが見えるたび、胸がわくわくした。
「リリ、また!?」
「ちょ、待ってよぉ〜!」
ティナとフィオナの声を背に、私は小走りで屋台に向かった。
並ぶのも気にならないくらい、今日は全部が楽しくて仕方がない。
そのあとは型抜きに、輪投げ、くじ引き……気がつけば両手にはお土産袋がいくつも増えていた。
「……リリ、それ持てるの?」
「まだ余裕だよ! ほら、これティナに!」
私は輪投げで当てた大きなうさぎのぬいぐるみをティナに渡して、どや顔を返す。
内心、ちょっと荷物が重いな……と思いながらも、顔には出さない。
次は焼きそばに、チョコバナナ、かき氷と、気になるものを片っ端から制覇する勢いだった。
フィオナには「仮にも魔王が……」なんて呆れられたけど、そんなの関係ない。
今日はただの“お祭りを楽しむ女の子”でいたい、それだけだった。
ふと空を見上げれば、気づけば陽がずいぶん傾いている。
頬を撫でる風も、昼間より少しだけ冷たくて、気持ちがいい。
「……そろそろ、ひと休みしよっか」
フィオナの声に、私たちは歩き疲れた足を休めるように、広場の端のベンチに腰を下ろして、買ったばかりのジュースを飲んでいた。
「……ふぅ、楽しかった……」
しみじみとそう呟いたのは、フィオナだった。
隣でティナも、頷きながらジュースをぐびぐび。
「はしゃぎすぎて、足が棒だよ〜……」
「えっ? そう? まだ全然いけそうだけど……!」
そう答えた私に、ふたりがほぼ同時にじろっと視線を向けてきた。
「……あんたが一番はしゃいでたじゃん、リリ」
「うん……ちょっと元気すぎる……」
「えっ、うそ、そんなこと――」
言いかけて、自分のお土産袋をちらりと見て、思わず言葉が詰まる。
「……うん、ちょっとだけ、はしゃぎすぎたかも」
自分でもおかしくなって、つい笑ってしまった。
ベンチの足元には、お祭りで買った袋がいくつも並んでいる。焼きそば、チョコバナナ、りんご飴、くじ引きの景品まで……見れば見るほど、手当たり次第だったのがよく分かる。
「でしょ?」と、フィオナがあきれたように肩をすくめる。
「でも、まあ……」
言いかけて、ふっと笑ってから、彼女は続けた。
「普段見れないリリが見れて、良かったかも」
「たしかに!」と、ティナもすぐに乗っかるように笑う。
私はむくれたふりで声を上げた。
「もう、なにそれ~!」
でも、怒る気なんて最初からなくて。私たちの間に、自然と笑い声が広がっていった。
私たちの笑い声が響く中、少し離れた通りの賑わいに紛れて、どこか場違いな視線を感じた。
「ねぇねぇ、君たち、こんなとこで何してんの?」
急に声をかけてきたのは、三人組の男たち。年は少し上に見えるけど、どこか軽薄な雰囲気があって、視線も馴れ馴れしい。
「せっかくのお祭りだしさ、俺らと一緒に回らない?」
「そっちの子、めっちゃ可愛いしさ。な?」
不躾な視線が、私に向けられているのがわかった。思わず言葉に詰まる。
「え、あの……いえ、私たちは――」
困っていると、すぐそばにいたティナが一歩前に出た。
「ごめんなさい、リリ姉、今ちょっと体調悪いの! だから行きます!」
ティナの声は明るかったけれど、足元には小さな緊張が見えた。
「え~、そんな冷たくすんなって。ちょっとくらい話そうよ」
男たちはしつこく食い下がってくる。フィオナが立ち上がり、じろりと鋭い視線を向けた。
「アンタたち、空気読めないの? こっちは楽しくしてたんだけど?」
その声音には、いつもののんびりした調子とは違う、ぴりっとした怒気が混じっていた。だけど、それでも彼らは引き下がらなかった。
「なぁ、別にちょっとくらい――」
そう言って、不良のひとりが、私の手首を無理やり掴もうとした――その時。
「おい」
ぴたりと、その男の肩に、大きくて分厚い手が置かれた。
えっ――と思って顔を上げる。
そこに立っていたのは、串焼きを片手にした男の人だった。
どこか余裕を漂わせた雰囲気で、でもその声には、不思議と逆らえない重みがあった。
「は?」と声をあげながら、不良が肩越しに振り向いた――その瞬間、ぴくりと動きが止まる。
「楽しむのは自由だけどさ――嫌がってる子を困らせるのは、ちょっとダサいぜ?」
そう言って、ニヤッと笑ったのは――ライオネルさん。
いつもの飄々とした笑みを浮かべているのに、なぜか空気が一気に変わる。
「……っ、あ、あんたは……」
不良の一人が怯んだように声を漏らす。
そのすぐ後ろでは、バスカさんが腕を組んで立っていた。大きな身体を少し前に出しながら、まるで“次は俺の番だ”と言いたげに視線を送っている。
さらに、セリルさんも隣に控えていた。相変わらず整った顔立ちで、けれどその瞳は静かに、不良たちを射抜くように見つめている。
すると、セリルさんがそのまま一歩前に出て――静かに口を開いた。
「ここは公共の場だ。君たちが誰に絡んでいるのか、理解したほうがいい」
落ち着いた声だった。でも、その静けさが逆に圧を生み、不良たちは一瞬で青ざめていく。
セリルさんの落ち着いた声に、不良たちは一瞬で硬直した。
「ま、まさか……リリシア……様……?」
私の顔を見て、誰かがそうつぶやく。
その瞬間、全員の顔が真っ青になった。
「す、すみませんでした!!」
声をそろえて頭を下げると、彼らはそのまま全力で――というより、逃げるように走り去っていった。
あっという間の出来事に、私はぽかんとしてしまって……それから、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「ガッハッハッハ! まさかお前らがナンパされるとはな!」
突然響き渡った大声にびくっとして振り返ると、バスカさんが腕を組んだまま笑っていた。
「だが……うちのフィオナに手を出そうとは、良い度胸してるじゃねえか」
そう言って、指をポキポキと鳴らし始める。
「お、お父さん、落ち着いて」
フィオナが困ったように眉をひそめて、すかさず止めに入った。
――うん、いつもの感じだ。
そのやりとりに、私はふっと笑ってしまって。それから、改めて隣に立つライオネルさんに向き直る。
「あ、ありがとうございます。助けていただいて……」
ぺこりと頭を下げると、ライオネルさんは飄々と肩をすくめた。
「良いって良いって。ちょうど通りかかっただけだしな」
その笑顔は、どこか兄のような安心感があって、つい私まで笑顔になってしまう。
「ところで、お前ら……今帰るとこだったか?」
その問いに、ティナが元気よく答える。
「うん! 朝からいっぱい遊んだもん!」
そして、私の手に抱えていた袋を見て、くすっと笑いながら手で口元を押さえる。
「リリ姉も、お土産たっぷりだしね!」
「ちょっと、ティナ……!」
思わず頬が熱くなるのを感じながら、私はティナに向かって軽く抗議の声を上げた。
でも、それすらも楽しくて、私たちは自然とまた笑い合う。
すると、ライオネルさんがにやりと笑いながら、串焼きの串を軽く振った。
「楽しめたようで良かったな。……じゃあ時間あるなら、この後俺たちに付き合わないか?」
「え?」
思わず三人で顔を見合わせる。
ライオネルさんは、にやっと笑って軽く手招きした。
「ほら、ついてきな。損はさせないから」
言われるがまま、私たちは足を早めてついていく。
しばらく歩くと――お祭りのメイン通りから少し外れた、石畳の細い道に入った。
そこは、さっきまでの賑やかな露店通りとはまるで違う雰囲気だった。
ほの暗い灯りに照らされた店先、格子戸の向こうからは香ばしい焼き物の匂いと、低く落ち着いた笑い声が漂ってくる。
行き交う人たちも、着飾った大人たちが多くて、どこか余裕のある歩き方をしている。
「わぁ……」
ティナが小さく声を漏らす。
隣でフィオナも、興味津々といった顔で周囲を見回していた。
私も、なんだか胸が高鳴っていた。
普段は滅多に足を踏み入れない、大人の世界――そんな空気がここにはあった。
ライオネルさんが立ち止まったのは、木製の引き戸がある一軒の店の前だった。
控えめな暖簾に「酒」の文字。戸の隙間から、温かそうな灯りが漏れている。
「さ、入るぞ」
バスカさんが豪快に戸を引き、店内の香りと暖かさが一気に外に流れ出る。
私たちは思わず顔を見合わせ、それから少し緊張しながら、その中へと足を踏み入れた。
店内は、木の温もりを感じさせる落ち着いた雰囲気だった。
壁には手書きの品書きが並び、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってくる。
奥の方からは威勢のいい笑い声や、湯気の立つ鍋の匂いも混じっていた。
「こっち、空いてるぞ」
バスカさんが大きな手で奥の小上がり席を示す。
私たちは靴を脱いで座布団に腰を下ろした。柔らかく沈む座布団に、思わずほっと息が漏れる。
「お嬢ちゃんたちは何飲む?」
「えっと……ジュースで」
「はいはい、じゃあ俺らは酒だな!」
バスカさんが笑いながら注文をまとめる。
やがて、湯気を立てたおでん、香ばしい焼き鳥、揚げたての天ぷらが次々と運ばれてくる。
最初はみんなで他愛ない話をしていたが、酒の入ったライオネルさんとバスカさんの声がどんどん大きくなっていく。
「しかし昨日のリリの挨拶はなかなかだったな!」
「おうおう、俺も聞いてたぞ」
ライオネルさんがジョッキを持ち上げながらにやっと笑う。
「堂々としてたじゃないか。――魔王就任式のときなんざ、カッチコチで、何言ってるかさっぱりだったのにな」
「ちょ、ちょっと! そんな前の話、今ここでしないでください!」
私は慌てて手を振る。
思い出すだけで顔が熱くなる。あのときは本当に、足が棒みたいで……声も震えて……。
「へぇ〜、そんなだったんだ?」
フィオナがくすっと笑う。
「でも、たしかにあの時は固かったよね。私たち、客席の方から見てたけど――もう、背筋ピンって伸びてて」
「うんうん。リリ姉、声もちょっと震えてたし可愛かったよね」
ティナまで楽しそうに頷く。
「か、可愛いとかじゃなくて……恥ずかしいんだから!」
机の下で足をバタバタさせる私に、セリルさんが口元を押さえて微笑む。
「でも、あの時に比べたら見違えるほど立派になったんじゃないか?」
――と言いながら、どう考えても楽しんでいる笑顔だ。
「だから、そういうのやめてくださいってば〜!」
そんなやり取りをしているうちに、テーブルの上はすっかり空の皿とグラスで埋まっていた。
笑い声と湯気に包まれて、時間が経つのも忘れる。
やがて、隣から聞こえていたライオネルさんの笑い声が、いつの間にか小さくなっていることに気づいた。
ちらりと見ると――
「……すぅ……」
ジョッキを片手にしたまま、テーブルに突っ伏して眠っていた。
ほんのり赤くなった頬が、なんだか子どもみたいで思わず笑ってしまう。
「相変わらず早ぇなコイツは」
バスカさんが肩を揺すってみせるけど、ぴくりとも動かない。
「……今日は放っといていいだろう」
セリルさんが苦笑しながらそう言って、湯呑みに口をつけた。
ライオネルさんはテーブルに突っ伏しながら、かすれた声でつぶやいた。
「……すまん、セリル……」
セリルさんは小さく息を吐いて、淡々と返す。
「……またそれか」
そのやり取りに、私は思わず首をかしげる。
隣のフィオナとティナが、ひそひそと顔を見合わせる。
「“また”って……何のことだろ?」
「さあ……」
私はそのやり取りを耳にして、思わずセリルさんの方を見た。
「……あの……何かあったんですか?」
セリルさんは一瞬だけ目を伏せ、湯呑みの中のお茶を軽く揺らす。
「……大したことではないよ。もっとも、昔の私にとっては――生きる理由そのものだったが」
その声はいつもより低く、静かだった。
「ルミエル連合が生まれる前……まだ種族同士が互いを拒み、敵意をむき出しにしていた時代だ。
私はエルフの母と、人族の父の間に生まれた。だが……どちらの世界でも、居場所はなかった」
セリルさんの目は、遠くの景色を見ているようだった。
「純潔主義が色濃く残るエルフの里では、幼いころから差別や偏見を浴び続けた。
人族の国では、ハーフエルフは認められず、見つかれば――処刑される運命だった」
フィオナが小さく息を呑む。
「……そんな……」
「だから私は、里の図書館や工房にこもって魔法を学び続けた。
外に出れば罵声が飛び、時には石を投げられたからな」
セリルさんの表情は変わらないけれど、その言葉には深い痛みが滲んでいた。
「……母も父も、人族に殺された。今の王――ライオネルとは何の関係もない事だが――それでも、彼は責任を感じているらしい」
私は思わず、突っ伏したままのライオネルさんを見やる。
酔いつぶれた彼の寝息が、妙に寂しく響いていた。
セリルさんは一瞬だけ視線を伏せ、それからゆっくりと続けた。
「……あの頃、世界はずっと戦っていた。魔族との戦争が激しくなり、エルフの里も例外じゃなかった。
魔法障壁が崩れて、たくさんの命が奪われた」
少し間を置いて、低く静かな声が響く。
「当時の私は、二十代半ば――エルフとしてはまだ少年のような年だったが……戦術結界を設計し、展開して、村を守りきった」
私は思わず息を呑む。
「……一人で、ですか?」
「仲間もいた。だが、あの場で結界を張れたのは私だけだった。
その功績が広まり、ルミエル連合から“戦術魔導顧問”として召集された」
フィオナが小さく感嘆の声を漏らす。
「……やっぱすごい人なんだ」
「戦地では、魔法兵装の支援や補給陣の指揮をした。……多くのものを失ったが、それ以上を失わないための戦いだった」
セリルさんの声には、悔しさと誇りが入り混じっていた。
「戦争の終わりが近づいたころ、当時の長が高齢で引退した。次の長を巡って混乱したが、私の現場での実績と、部族を守った行動、技術の貢献が評価され――異例だが若くしてエルフ族の長に就いた」
ティナが目を丸くする。
「でも、最初は反対とかあったんじゃ……」
「もちろんだ。純潔主義の者たちからは激しい反発もあった。だが、私は“過去ではなく未来を見る”と掲げた。戦場で種族を超えて共に戦った仲間たちが、その背中を押してくれた」
そう言って、セリルさんは少しだけ柔らかく微笑む。
「戦争が終わって……マグナスの呼びかけで中立国グラディスが建国された。
私はその理念に共鳴し、エルフ族の代表としてこの地に残ることを選んだ」
静かに語り終えたセリルさんは、ふっと息をつく。
「……まあ、今はこうしてアストレルで魔法の研究に没頭できる。戦場よりは、ずっと穏やかな日々だ」
セリルさんがそう締めくくると、テーブルに一瞬だけ静けさが落ちた。
――その沈黙を破ったのは、バスカさんの豪快な笑い声だった。
「ガッハッハッ! 穏やかな日々ねぇ! だったらたまには俺んとこにも遊びに来いよ! 研究ばっかじゃカビが生えるぞ!」
場が一気に明るくなり、ティナとフィオナもつられて笑い出す。
私も、思わず口元がほころんだ。
やがて、バスカさんがジョッキを置き、軽く伸びをする。
「……さて、そろそろいい時間だな。今日はこの辺でお開きってことでいいか?」
「うん、そうだね。お母さんも心配するし」
フィオナが素直に頷き、私たちもそれに続く。
その時、セリルさんがふとこちらを見た。
「――リリシア。近いうちに、マグナスやティリスを交えて話がしたい。少し……大事なことだ」
低く落ち着いた声に、私は自然と背筋を伸ばして頷いた。
「……わかりました」
そんなやり取りを終えると、バスカさんが笑って肩を叩いてきた。
「よし、今日はもう遅いし、リリシアとティナはうちに泊まってけ。外は暗ぇからな」
「えっ、いいんですか?」
驚く私に、バスカさんはにかっと笑って頷く。
「もちろん。部屋は空いてるし、フィオナも喜ぶだろ」
「そうだね、夜道を二人で帰らすのも危ないし」
フィオナが穏やかに微笑む。
こうして、私たちはそのままフィオナの家に泊まることになった。
外に出ると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。
遠くからは、まだ開いている店の灯りと、酔客の笑い声がかすかに流れてくる。
けれど、私たちが歩く路地は不思議と静かで――ほんの少しだけ、安心した気持ちになった。
でも、セリルさんが告げた「大事なこと」が、私の胸の奥に小さなざわめきを残していた。