21話_ 小さな背中に灯る光
……あのとき、ギーツさんは頭を下げて、まっすぐに頼んでくれた。
自分の家族のこと。
スラム街で、ひっそりと生きている人たちのこと。
“見捨てないでくれ”って――ただ、それだけを願って。
私には、何ができるんだろう。
魔王としての責任。
まだまだ未熟な自分。
でも、それでも、あのとき私は言った。
“絶対に見捨てたりなんてしません”って。
……だったら、きっともう、迷ってる暇なんてない。
――
「ねえ、リリ、聞いてる? おーい?」
不意に視界が動いて、目の前いっぱいにフィオナの顔が現れる。
「わっ……!? びっくりした……!」
「もう……。大丈夫? 急にぼーっとして」
「う、うん。ごめん。ちょっと、考え事してただけ」
私は照れくさそうに笑って、会場を見渡した。
あちこちで聞こえる笑い声。きらびやかな装飾と、ふんわりと香るごちそうの匂い。
皆が思い思いに語り、笑い、今日という日を楽しんでいる――晩餐会は、まだ終わっていなかった。
そこへ――にぎやかな笑い声とともに、聞き慣れた声が背後から飛んできた。
「おっ! リリシア、ここにいたのか!」
振り向けば、ライオネルさんが腕を組みながら近づいてくる。その隣には、落ち着いた足取りでセリルさんの姿もあった。
「ライオネルさん……」
「さっきの挨拶、良かったぞ!」
彼は大きな身振りで、胸をどんと叩きながら言う。
「お前の気持ちがこう……ドーンと! 伝わってきた!」
その勢いに思わず笑ってしまいそうになって、私はちょっとだけ照れながらぺこりと頭を下げた。
「……あ、ありがとうございます」
すると今度は、隣にいたセリルさんが、ふっと前髪をかき上げながら、優雅に一歩進み出る。
「……闇の帳が晴れ、黎明の光が舞い降りし時――
麗しき白銀のドレスに身を包んだ魔王の君が、まるで星辰の加護を受けし聖なる乙女のように現れた瞬間、我が魂は刹那、時を忘れた……」
詩のような、いや呪文のような響きで、セリルさんは真顔で言い放った。
「え……?」
思わず、戸惑いの声が漏れてしまう。
言っていることは……正直よく分からない。
「あ、あの……」
セリルさんの突然の言葉に戸惑いながら、私は思わず声を漏らして、ぎこちなく笑って言うと――
「もう……セリルさん、普通に喋れるんだから、その言い方やめたら?」
すぐ横で、フィオナが呆れたようにため息をついた。
その言葉に、セリルさんはふっと目を伏せ、少しだけ苦い顔を見せる。
「……それをやめたら、俺はただの美形になってしまうからね……」
「おーい、言っちゃってるぞ!」
ライオネルさんが豪快に笑いながら肩をすくめる。
「セリルはこの顔だ。普通にしてたら女子が押し寄せてくるんだよ。……いや、もう十分押し寄せてるけどな!」
そう言って、ライオネルさんが指差した先には――
「キャーッ! セリル様よ!」
「相変わらず何言ってるかわからないけど素敵ー!」
遠巻きに、黄色い歓声をあげる女性たちの姿があった。
私は思わずその様子に視線を向け――そして、苦笑い。
すぐに気を取り直して、隣に立つセリルさんへと視線を戻す。
「……いらしてたんですね。いつ頃、来られたんですか?」
「つい先ほどだ。昨日端末でマグナスから連絡があってな」
「き、昨日……ですか?」
思わず言葉を詰まらせた私に、セリルさんは小さくため息をつきながら、わずかに眉をひそめた。
「ああ。マグナスの奴、連絡が遅れたくせに――“明日パーティーするから、絶対来い”などと言ってな……」
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
その反応に、セリルさんはふっと表情をゆるめ、我に返ったように言った。
「……っと、すまん。それと、マグナスから聞いたぞ。リリシア、頑張ったみたいだな」
「い、いえ……あ、ありがとうございます」
少し照れくさそうに笑いながら、私はぺこりと頭を下げた。
すると今度は、ライオネルさんがリリシアとフィオナの方を見て、ぱっと声をあげる。
「おっ、そういえば! 向こうでティナが、2人のこと探してたみたいだぞ」
「ティナが?」
フィオナが目を瞬かせると、ライオネルさんは指先で会場の奥を指しながら頷いた。
「ああ。あっちのバルコニーの方で見かけたから、まだいるんじゃないか? 行ってきてやんな!」
ライオネルさんに言われ、私たちは会場の奥――開かれた窓の向こうにあるバルコニーへと足を進めた。
「ライオネルさん……セリルさんと仲良いんだね。二人でいるところ、初めて見たかも」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、隣のフィオナが肩をすくめる。
「んー……私もお父さんに聞いただけで、詳しいことは知らないけど、昔なにかあったみたいだよ? でも今はよく二人で飲みに行ってるんだって!」
「そうなんだ……ちょっと意外かも」
そんな会話を交わしていると――
「あら、リリシアにフィオナ。二人してどこ行くの?」
背後から軽やかな声がかかる。振り向けば、グラスを片手に優雅な足取りで、セレナさんが現れた。
「セレナさん! ティナが私たちを探してたみたいで、バルコニーに……」
「ふ〜ん……私も一緒に行くわ」
当然のような口ぶりに、私は少し戸惑いつつも頷いた。
「え? あ、はい……」
――そして、会場の奥に設けられた開放的なバルコニーへと出る。
そこには、遠くに見えるグラディスの街が、祭りの灯りに包まれてかすかに輝いていた。
わずかに届く音楽と人々の笑い声が、夜風に乗ってこちらまで運ばれてくる――
まるで、遠い場所から語りかけてくる夢の続きのように。
ティナはバルコニーの手すりにそっと寄りかかりながら、静かに遠くを見つめていた。
淡い黄色のドレスが夜風に揺れ、背中のリボンが小さくはためいている。
元気な彼女の印象とは少し違う、物静かな後ろ姿だった。
その小さな肩越しに、遠く灯るグラディスの光がちらちらと瞬いている――
「あ、いた! ティナ!」
私が呼びかけると、ティナはくるりと振り返り、ぱっと笑顔を見せた。
「リリ姉! フィオナ姉も!」
黄色いドレスの裾をふわりと揺らしながら、ティナが手を振る。
その明るい声に、私も自然と笑顔になる。
「ごめんね、探してくれてたんでしょ?」
「ううんっ、大丈夫! リリ姉の挨拶、すっごく良かったよ! 堂々としてて、かっこよかった! ドレスも……すっごく可愛かった!」
ティナは満面の笑みを浮かべて、親指をぐっと立てて見せる。
でも――その笑顔が、どこか少しだけ無理をしているように見えた。
「ありがと。ティナのドレスも、すごく似合ってるよ。」
「えへへ……ありがとー。このドレスね、見た瞬間に『これだ!』って思ったんだ!」
言いながらも、ティナはほんの少しだけ視線を落とす。
その一瞬の沈黙に、私とフィオナは顔を見合わせる。
「……ねぇ、ティナ」
「な、なに?」
「いや、なんでもないよ。……あっち、すごく賑やかだね」
フィオナがバルコニーの欄干越しに、遠くのグラディスの街を見ながら言った。
「……明日、みんなで行ってみよ?」
その言葉に、私は思わず顔を上げる。
ティナも、そっと視線を動かして、遠くの光を見つめていた。
「……うん。行きたい、みんなで」
ティナは笑った――けれど、どこか少しだけ、いつもより静かな笑顔だった。
すると――
「ふふっ、にぎやかで結構結構。でも……」
セレナさんの声が、後ろから静かに届いた。
「ティナ、いつものあなたなら、もっと弾けるみたいに笑うはずよ? ……何か、あった?」
「あ、あはは……やっぱ、セレナさんの目は誤魔化せないね」
ティナは頭をかくようにして笑ったけれど、その笑みはやっぱりどこか寂しげで。
「ティナ……何かあったの?」
私の問いかけに、ティナは一瞬だけ迷ったように視線をそらしてから――
「……あのね、リリ姉。私……今回も、守ってもらっちゃったなって」
ぽつり、とこぼれた言葉は、笑顔とは裏腹にどこか寂しげだった。
「リリ姉が魔獣に襲われて、ずっと寝たきりだった時、すごく怖くて……。
だから、ティリス様にお願いして、魔法の練習も増やして……ちゃんと、役に立てるようになりたくて、いっぱい頑張ったのに」
ティナの拳が、そっとドレスの裾をぎゅっと握りしめる。
「……結局、また守られる側だった。
リリ姉は、ちゃんと強くなってるのに……私は、なにも変われてない」
その言葉に、私は――
少しだけ、息をのんだ。
だってそれは、かつての私自身と、まるで同じだったから。
「ティナ、それは――」
フォローしようと、フィオナがそっと口を開いたそのとき――
「……待って、フィオナ」
私はゆっくりとティナの前に歩み出て、彼女の正面に立った。
そして、かつて――
何もできなかった私に、セレナさんとドラグニアさんがかけてくれた言葉を、思い出しながら――
「ねぇティナ。今、何もできなかったって顔してる?」
ティナがはっと目を見開いた。
「……もし、逆だったら? ティナが誰かに同じこと言われたら、きっと全力で『そんなことない』って言うと思うんだ」
私は小さく笑って、彼女の肩に手を置いた。
「だったら、ちょっとだけ自分にも優しくしてあげよ?」
ティナの瞳が、ゆっくりと揺れる。
「怖かったら、怖いでいいよ。悔しいなら、悔しがってもいい。
それって、ちゃんと前を見ようとしてるってことだから」
私はそのまま、ゆっくりと言葉を重ねた。
「ティナが悔しいって思ってるのは、立派な私の側近になりたくて頑張ってたからなんでしょ? それって、十分すごいことだと思う……」
ティナの唇が、かすかに震えた。
「……泣いてもいいよ。泣いて立ち上がれる人は、強いって、私――教わったから」
その瞬間、ティナの目にふっと涙が浮かび、ぽろりと頬を伝った。
フィオナがそっと手を差し出し、セレナさんも黙ってハンカチを渡してくれる。
私はそのまま、ティナをそっと抱きしめた。
「……ありがと、リリ姉。ごめんね、私……弱虫で……」
「ううん。弱くても、泣いても、立ち上がろうとしてるティナは、ずっとずっと強いよ」
そう言いながら、私はティナの背をそっと撫でた。
だけど、きっと――それでも、ティナの中に残る「情けなさ」までは、すぐには消せない。
そんな私たちのすぐ隣で、フィオナがふうっとため息をついた。
「まったくもう……ティナはティナで真面目すぎだし、リリはリリで甘すぎ」
「えっ?」
思わず顔を上げた私に、フィオナはじろっと鋭い目を向けてきた。
「……あんたが全部背負うから、ティナが勝手に自分を責めんの。ちょっとは考えなさいよ、まったく」
「うぐ……」
言い返せない。図星すぎて、ほんとに何も言えなかった。
でも、次の瞬間――
「……でも、知ってたよ」
フィオナは、そっとティナの頭を撫でながら、優しく続けた。
「ティナが、リリのためにこっそり魔法の練習、増やしてたの。ティリスさんに頼んでまで」
「えっ……!」
ティナがびっくりしたように目を丸くする。
「それにリリも。人知れず努力してんの、私が気づかないわけないでしょ。ほんと、二人して……不器用すぎなんだから」
ふっと笑って、フィオナはティナの手を取る。
「だからさ。もう一人で頑張るのやめよ? ――私も混ぜなさいよ、練習」
ティナは目を瞬かせて、それから小さく、嬉しそうに笑った。
その様子を見て、セレナさんがふっと私の肩越しに笑いかけてくる。
「ふふっ。まけてられないわよ、リリシア」
「……はい!」
セレナさんの言葉に、思わず背筋が伸びる気がした。
私も、もっと強くならなきゃ――そんな思いが胸の奥で、静かに灯っていく。
すると――
「ぱぁんっ」と、遠くの空で小さな花火がひとつ、夜を裂いた。
空に咲いた光の花は、音もなくふわりとほどけて、淡く、優しく、消えていく。
まるでそれが、今の私たちの気持ちにそっと重なるようだった。
フィオナは、ティナと私の顔を交互に見ながら、ふっと笑った。
「……ねえ、リリ。今度また討伐任務とかあるなら、私たちも誘いなさいよ」
「え?」
不意に言われて、思わず聞き返してしまう。
フィオナは肩をすくめながら、まっすぐ私を見た。
「だってさ、強くなるって言ったでしょ? ティナと二人で頑張るって決めたんだし――それに、リリがまた無茶しそうで心配だからね」
「……フィオナ……」
ティナが小さく息をのんで、私の方を見上げた。
その瞳には、まだ少し不安が残っているようだったけど――
それでも、ほんの少し、前を向こうとしているように見えた。
ぱん、ともう一つ、花火が咲いた。
今度は、少しだけ大きな音。光がバルコニーをやわらかく照らす。
「さっ! パーティーはこれからよ! 向こうで一杯やりましょ!」
セレナさんが明るく言う。
「セレナさん、私たちお酒はまだ……」
「もう、リリは真面目すぎ~」
フィオナがからかうように笑い、肩を軽くぶつけてくる。
「あっ! あっちにジュース置いてあったよ!」
ティナがそう言って、ぱっと手を上げた。
その笑顔は、まだ少し不安定かもしれないけれど――
遠く夜空に咲き続ける花火のように、少しずつ、広がっていく気がした。