19話_ 静寂のあとに
――静寂が訪れた。
崩れた壁、焼け焦げた床、そして倒れ伏したギーツの周囲に、誰も言葉を発せず、ただ時間だけが静かに流れていた。
重たく張りつめた空気が、部屋全体を覆っている。
それは、さっきまでの戦いの余韻と、ひとつの“答え”が出たことへの沈黙だった。
その静寂を破ったのは、廊下の向こうから響いてきた、複数の足音だった。
駆け寄るような靴音が、どんどん近づいてくる。
やがて――扉が勢いよく開かれる。
「リリシアっ!」
先頭を駆けてきたのは、パパだった。そのすぐ後ろには、バスカさんとノワールさんの姿もある。
息を切らした様子で部屋に飛び込んできたパパは、崩れた壁と焦げた床を見回し、そして、中央に膝をついたままの私を見つけた。
気づけば、私はぽつりとつぶやいていた。
「……パパ」
パパの顔に、一瞬強張った緊張が走る。
けれど次の瞬間、安堵したように、ふうっと息を吐いた。
「……無事……みたいだな」
私は静かに微笑み、うなずく。
「うん……」
パパは一歩進みながら、倒れたギーツをちらりと見やった。
だが、それ以上何も言わず、すぐに私の方へ視線を戻す。
「何があったかは――後で聞かせてくれ」
パパの言葉がひと段落したその時。
「フィオナァァァァァーーッ!!」
唐突な大声が、円卓の間に響き渡った。
フィオナが「うわっ」と小さく肩を跳ねさせた次の瞬間、バスカさんが猛獣のような勢いで駆け寄った。
「無事だったか!? ケガは!? 敵は!? 怖くなかったか――うおおおおおおおおっ!!」
「ちょ、ちょっと待って! 近い! 暑苦しいっ!」
フィオナが慌てて両手でバスカさんの胸を押し返す。
「もう、うざいっての! 恥ずかしいから離れて! 皆見てるしっ!」
「娘が無事だったら抱きしめるのが親だろうがあああ!!」
「うるさい! あとでちゃんと話聞くからっ!」
言葉とは裏腹に、フィオナの頬は少し赤く染まっていた。
そのやり取りに、思わず小さく笑ってしまいそうになる。
――けれど、その隣では、少し違う光景があった。
パパの後ろに、ずっと静かに立っていたノワールさん。
その存在に気づいたティナが、私のそばまで歩み寄り、ぴたりと足を止めた。
「……あの、ごめんなさい……」
小さな声だった。
私は、思わず「え……?」と顔を上げる。
ノワールさんは無言のままティナを見つめ――そして、やがて、短く言葉を返した。
「……無事なら、それでいい」
それだけ。
ティナは目を丸くし、ほんの一瞬ためらう。
すると、パパが小さくため息をつきながら、ノワールさんの背をぐっと押した。
「行ってこい。お前の番だぞ」
私も、そっとティナの背中に手を添えた。
「大丈夫。ティナなら、ちゃんと届くよ」
その一言に、ティナは小さくうなずくと、足を踏み出した。
そして――
「……お父さんっ」
勢いよくノワールさんに抱きついた。
ノワールさんの身体がぴくりと動く。
けれど、彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ静かに、黙ってティナの頭に手を置いた。
その小さな手に、ティナが顔を埋めて、声を殺して泣き出す。
ノワールさんは何も言わず、そっとその背を包み込むように抱き返した。
その様子を見ながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
――ようやく、全てが終わったんだ。そんな実感が、じわりと心に満ちていく。
しんとした空気の中で、誰もが少しずつ、肩の力を抜いていく。
そんな中、壁際にいたセレナさんが、傷を押さえながら静かに声を上げた。
「……外の様子は? それと、職員たちは――」
パパはうなずき、振り返る。
「敵はすでに掃討済みだ。外にいた連中も、ドラグニアたちが抑えた。
人質になっていた職員たちも、冒険者の援護で全員無事に救出されたそうだ」
「……そう。なら、よかったわ」
セレナさんが安堵の息をついた、その直後だった。
「失礼します!」
廊下から駆け込んできた兵士たちと、白衣を纏った医療班が、扉の奥から一斉に姿を現した。
焼け焦げた床。崩れた壁。破壊された円卓――
彼らは無惨に変わり果てた円卓の間を目にして、言葉を失ったように立ち尽くす。
「こ、これは……」
誰かが小さく漏らすのが聞こえた。
そんな中、パパが一歩前へ出ると、床に倒れたままのギーツを指差す。
「――あいつが、今回の首謀者だ。拘束して連行しろ」
「はっ!」
兵士たちはすぐに動き、声をかけながらギーツの身体を慎重に担ぎ上げる。ギーツは目を閉じたまま、微動だにせず、まるですべてを受け入れたかのようにされるがままだった。
鎖で両手をゆるく拘束され、そのまま廊下の奥へと運ばれていく。
その背が円卓の間から消えていくのを、私はただ黙って見送るしかなかった。
私はその様子を見ながら、ふと唇をかすかに噛み、そっとパパに目を向ける。
「……パパ……」
その一言に、パパはわずかに眉を動かした。
けれど、すぐに静かにうなずき、短く答える。
「……分かっている」
そう返したパパの横を、医療班の一団が通り抜けていく。
彼らは手際よく周囲の状況を確認しながら、それぞれ負傷者のもとへと散っていった。
壁際に座り込んでいたセレナさんのもとに、ひとりの若い男性の医師が駆け寄る。
彼女はちらりと顔を上げると、思わず肩をすくめた。
「まあ……男の子が来るとは思わなかったわ。でもいいわ、優しくしてちょうだい?」
「は、はいっ! すぐに処置します!」
しかし次の瞬間――
「っっ……いったぁいっ!! ちょっと、あなた、それ本当に消毒!? 火傷するかと思ったわよ!?」
「す、すみませんっ!」
医師が平謝りする横で、セレナさんはじろりと睨みながら、ぷいっと顔をそむける。
けれど、頬がほんのり赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。
一方そのころ、私の隣にいたティナは、消毒液をしみ込ませた布を当てられて、涙目になっていた。
「うぅ……ちょっと……しみるぅ……」
唇を尖らせて小さく体をすぼめながら、彼女はぺたんと座り込む。
その様子はまるで、濡れた子猫のようだった。
そして、少し離れたところでフィオナの治療にあたっていた別の医師が、困惑したように眉をしかめる。
「こ、これは……すごいアザですね……これは相当ひどい目にあったのでは……?」
フィオナは一瞬きょとんとしたあと、小さくため息をついて――ぼそりと呟いた。
「……それ、多分……さっきお父さんに抱きしめられたときのです……」
空気が、ピタリと止まる。
「………………」
医師は一瞬言葉を詰まらせ、フィオナの肩に目をやると、気まずそうに目をそらして言った。
「あ……あ〜、なるほど……」
当のバスカさんはというと、咳払いひとつしてから、なぜか窓の方を見つめていた。
「……つい、感極まっちまってな……」
場が少し落ち着いた頃、ふいにフィオナが何かを思い出したように、くるりとこちらを向いた。
「そういえばリリ、気になってたんだけど――その猫ちゃん、なに?」
その指の先には、すっかり堂々とした顔で、私の肩に乗っているリシルの姿があった。
「あっ! 私も気になってた!」
ティナが前のめり気味に声を上げる。
「戦ってるときも、一人で誰かと喋ってたよね!」
……ギクッ!
思わず背筋が伸びる。内心の動揺が顔に出てないか、不安になる。
ど、どうしよう……!
私は戸惑いのあまり声も出せず、ただ肩の上のリシルを見上げた。
するとリシルは、ひょいっと肩から飛び降り、みんなの前にちょこんと立った。
「はじめまして、リシルよ。よろしくね」
その言葉に、ティナとフィオナがそろって声を上げる。
「しゃ、しゃべったー!?」「ね、猫が……!?」
その言葉に、リシルの尻尾がピンと跳ね上がった。
「ちょっと! 誰が猫よ! ――あたしは“リシル”。れっきとした存在なのっ!」
ピンと尻尾を立てながら、ぷんすかと抗議するように鳴いたその姿に、周囲はただぽかんと口を開けて見守るばかりだった。
……だが、すぐに医師や兵士たちの間からざわめきが起こり、空気が一気にざわつき始める。
私は慌ててリシルの元に駆け寄る。
「ちょ、ちょっとリシル……! 喋っても大丈夫なのっ?」
リシルはくるんとこちらを振り返り、平然と――むしろ誇らしげに言った。
「いいのよ。どうせそのうち話すつもりだったし。……予定が早まっただけよ?」
「そ、そう……ならいいけど……」
内心まだドキドキしながらも、私は小さくため息をついた。
驚きに目を見開きながらも、パパが口を開いた。
「リ、リリシア……その子はいったい……」
私は思わず視線を周囲に走らせる。兵士たちや医師の何人かが、動揺を隠しきれない様子でリシルを見つめていた。
「え、えっと……」
どう言えばいいのか迷っていると、パパは私の表情からすべてを察したのか、ふっと頷いた。
「……なるほど。話は後で聞くとしよう」
そう言ってから、パパはすっと振り返り、兵士たちと医師に向かって声を張る。
「お前たち、今見たことは他言無用だ。口外すれば……分かっているな?」
その眼差しは普段の穏やかさとは打って変わり、まるで雷のような威圧感を放っていた。
「「はっ!」」
兵士たちが一斉に背筋を伸ばし、即座に敬礼する。医師たちも顔を引きつらせながら、慌ててうなずいた。
その様子を見て、私は胸をなでおろす。
……さすがパパ
リシルも満足げに「ふふん」と小さく鼻を鳴らした。
ざわついていた空気も、ようやく落ち着き始めたころ。
「――私たちはこのまま治療院に行ってくるね」
そう言って、フィオナがこちらに軽く手を振る。ティナもその隣でこくこくとうなずいていた。
「うん。ふたりとも、ちゃんと診てもらってきてね」
「リリ姉もだよ!」
ティナが指をぴしっと向ける。
「報告が終わったら絶対来なきゃダメだからね! 約束!」
「はいはい、わかってるってば」
私が小さく苦笑すると、ティナはどこか安心したように微笑んだ。
二人は医師たちに付き添われながら、ゆっくりと議事堂の外へと歩いていった。
――そのすぐあと。
「さて、私もそろそろ……」
セレナさんが壁にもたれたまま、そっと体を起こし、ひとり歩き出そうとする。
だが、その瞬間。
「ま、待ってください!」
傍らにいた医師のひとりが、必死に引き留めるように叫んだ。
「どこ行くんですか、あなたが一番の負傷者なんですよ! 動かないでください!」
「えぇ……別にいいじゃない、これくらい」
セレナさんは平然とした表情のまま、右腕に巻かれた包帯をちらりと見やる。
「自分でなんとかするわよ。たいした傷でもないし」
「そういう問題ではありません!」
医師は本気で困った顔で声を張り上げた。
医師に食い下がるセレナさんを見て、パパは「やれやれ」といった顔で小さくため息をついた。
「……バスカ、連れて行ってやれ」
「は!? なんで俺が」
思わず声を上げるバスカさんに、パパは静かに言い聞かせるように続けた。
「事後処理は俺とドラグニアでやっておく。……お前は、フィオナの側にいてやれ」
「……チッ、わかったよ」
バスカさんは頭をかいて一歩前に出ると、セレナさんに向かって声をかけた。
「おい、セレナ。わがまま言ってないで行くぞ」
「わがままじゃないわよ、心配されるほどの怪我じゃ――」
そう文句を言いながらも、セレナさんは結局バスカさんに押し切られる形で歩き出す。
そんなふたりのやり取りを見て、私は思わず微笑んだ。
――けれど。
「お前もだ、リリシア」
その声に振り向くと、パパがじっとこちらを見つめていた。
「えっ? でもこのあと、報告が――」
「そんなことは気にしなくていい」
その声は、いつもより少しだけ強くて、優しかった。
「……どれだけ心配させた思ってるんだ」
「……ごめんなさい」
私が素直に頭を下げると、パパはふっと微笑み、手を私の肩に置いた。
「後のことはパパに任せろ。今日はしっかり休みなさい」
私は思わず、少しだけ視線を落とした。
本当は、まだ何か――責任を果たさなくちゃ、と思っていたけれど……。
すると、肩の上から声が飛んできた。
「こういう時は、素直に言うことを聞くものよ!」
リシルだった。ふわりと尻尾を揺らしながら、ちょこんと肩に座ったまま、まるで当然のように言い切る。
「……そ、そうだよね」
私はリシルの言葉に背を押されるように、小さくうなずいた。
そしてパパと並んで、ゆっくりと議事堂の外へと足を踏み出す。
日が傾きはじめた空の下、ひんやりとした風が空気をかすめていく。
――終わったんだ。
肩の上でじっとしていたリシルが、やがてまぶたを閉じ、小さく呼吸を整えるように静かに身をゆらす。どうやら、うとうとし始めたようだった。
私はそっとその背をなでながら、遠くに見える治療院の灯りを見つめた。
そして、もう一度だけ、隣に立つパパの顔を見上げる。
「ありがとう、パパ」
パパは照れくさそうに眉を下げて、ぽつりと返す。
「……まったく、心配ばかりかけおって」
私はその言葉に、小さく笑った。
そのまま、二人で静かに歩き出す。
次の朝が、少しだけ優しいものでありますように――そう願いながら。