14話_ 銀の名、リシル
日が傾き、森の奥に静かな夕暮れが差し込んでいた。
バルグロウ討伐の余波はようやく落ち着き、私たちはキャンプ地への帰路についていた。
足元には、まだところどころに戦いの痕跡が残っている。
倒木、焼け焦げた土、そして――疲労を隠しきれない仲間たちの背中。
その中で、ひときわ目を引く存在があった。
私の隣を、ふわふわと歩く“銀色の獣”。
しなやかな身体に赤い瞳。どこからどう見ても猫にしか見えないのに――
その背中から漂う“何か”が、言いようのない緊張感をまとっていた。
「リリシアちゃん、その子……連れて帰るの?」
後ろから声をかけてきたのは、パーティの若い女性冒険者だった。
肩までの髪を揺らしながら、興味津々といった顔で銀色の獣をのぞき込んでいる。
「あ……うん。迷子、みたいで……」
「へぇー、可愛いね。毛並みとかツヤッツヤじゃん」
彼女は笑ってから、ふと思いついたように言った。
「なんかその子、リリシアちゃんに似てるね!」
「ふぇっ!?」
思わず変な声が出た。
その場で立ち止まりそうになるのを、慌ててこらえる。
「ほら、毛の色とか、目の雰囲気とか? なんか“おそろい”って感じしない?」
「そ、そうかな……!?」
「うん、するする。ねー、ユーマくん、そう思わない?」
後ろのほうから「確かに」「ほんとだー」なんて、軽い声が飛んできて――
私は顔が熱くなるのを感じながら、曖昧に笑ってごまかした。
――けれど、その場にいた全員が、同じように笑ってくれたわけではなかった。
「……リリシア」
「ん?」
並んで歩いていたドラグニアさんが、不意に声をかけてくる。
「そいつ……名前は?」
「えっ? えーと……まだ決めてなくて……」
慌てて答えると、ドラグニアさんはちらりとその子を見た。
銀色の獣はまるで何事もないように、尻尾をふわりと揺らしながらついてくる。
「……あれは、ただの獣じゃない。わかってるな?」
「……」
返す言葉が見つからなくて、私は思わずうつむいた。
だけど、ドラグニアさんはそれ以上は何も言わなかった。
ただそのまま、前を向いて歩いていく。
代わりに、すぐ後ろから別の声がかかる。
「まったく……次から次へとおもしろい子ね、あなたは」
振り返ると、セレナさんが微笑を浮かべていた。
けれどその瞳には、どこか観察するような光が宿っていた。
「あなたの魔法も、あの子の存在も。普通じゃ説明がつかない。……ねえ、リリシア。少しくらい、話してくれてもいいんじゃない?」
「……わたしにも、よくわからないんです」
それが、正直な気持ちだった。
あのとき現れた銀色の獣、そして力の正体。自分でもまだ、何も掴めていない。
「……ふうん。今は、それでいいわ。――でも、また聞くから覚悟しておいてね?」
セレナさんの声は柔らかいのに、なぜか背筋がひんやりした。
◇◇◇
夜の帳が降り、キャンプ地はにわかに賑わいを増していた。
中央では、大きな焚き火が燃え上がり、木の皿に盛られた食事や酒瓶が次々と運ばれていく。
バルグロウを倒したことで、仲間たちは今にも歌い出しそうな勢いだった。
「ほらほら、飲めって! 今夜くらい盛り上がらなきゃ損だろ!」
「まったくだ。明日は筋肉痛で動けねぇかもな!」
そんな声が飛び交う中で――
私は少しだけ輪から離れ、焚き火のはずれに座っていた。
隣には、静かに丸くなった“銀色の獣”。
炎の揺らぎが、銀の毛並みに赤く映る。
その姿は、どこからどう見ても猫。でも――やっぱり、普通じゃない。
仲間たちは「可愛い猫」として受け入れていたけれど。
ドラグニアさんやセレナさんの目は、鋭かった。
「……みんな、楽しそうだね」
ぽつりとつぶやくと、銀色の獣がちらりとこちらを見た。
「あなたは、行かないの?」
「うん。……なんだか、まだちょっと、落ち着かなくて」
そう答えながら、私は手元の枝を指で転がした。
「ねえ……あなたのこと、少しだけでも教えてくれる?」
銀色の獣は目を細めて、しばらく火を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「まず、名乗っておくわね。――あたしは《リシル》。あなたの光に呼ばれた存在」
「リシル……」
その名前が、どこか懐かしく感じたのは気のせいだろうか。
しばらくして、誰かの足音が近づいてきた。
「……リリシア」
後ろから、聞き慣れた声がした。ドラグニアさんだった。
その隣には、手にカップを持ったセレナさんもいる。
「向こうはすっかり盛り上がってるわよ。来ないの?」
「あ……ううん。ちょっと、リシルと話してて……」
私は慌てて笑って見せたけど、ふたりはすぐに視線をリシルへと向けた。
「リシル……その子の名前か?」
「……うん。さっき教えてもらったの」
ドラグニアさんの目がわずかに鋭くなり、セレナさんも火を見つめながら肩をすくめる。
「私たちも、聞いていて構わないかしら?」
その問いに、リシルはちらりとふたりを見た。
そして――目を細め、静かにうなずく。
「ふたりになら、問題ないわ。……あなたの力が、これから進むべき道を選ぶ時の、手助けになるかもしれないから」
私は驚いてふたりの顔を見るが、ドラグニアさんもセレナさんも、真剣な表情で黙ってうなずいた。
それを見届けると、リシルは火を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……あたしは、リリシアの“想い”に呼ばれて現れた存在よ」
「“想い”……?」
思わず、私はその言葉を繰り返した。
「あなたが誰かを救いたいと強く願った時、その想いが、かたちになったの。
それが、今のあたし。――まだ不完全だけどね」
リシルは、焚き火を見つめながらそう告げた。
その声はどこかあたたかくて、だけどほんの少し、寂しげにも聞こえた。
私は、胸の奥がきゅっとなるのを感じながら口を開いた。
「でも……あの時、私が街で襲われた時……あなたは、来てくれなかった……」
気づけば、ずっと心の奥に引っかかっていた疑問が、ぽろりとこぼれていた。
リシルはほんの一瞬、視線を伏せた。
「……ごめんなさい。あのときのあんたは、とても揺らいでいて……
無理に応えれば、かえってあんたを傷つけてしまうかもしれなかったの」
その言葉に、胸の奥がふっと軽くなるような気がした。
責めるような響きはひとつもなくて――ただ、私のことを想ってくれていたんだと、わかった。
リシルはそっと顔を上げて、私を見つめる。
「でも――あんたを守ることはできた。
生きていてくれて、本当によかったと思ってるわ」
そのまなざしは、まるで誰よりも私のことを大切に想っているかのようで――
私は、胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
リシルは、ふっと表情を緩める。
「まぁ……でも、お寝坊さんなところは直した方がいいわね。
あたしが起こしてあげなきゃ、いったいいつまで寝てたのかしら?」
「うっ……!」
私は思わず顔を赤くする。
確かにあの日、目覚めの直前に――誰かの優しい声を聞いた気がしていた。
「やっぱり……その声、夢の中で聞こえた……あれ、リシルだったんだね……」
ポツリと漏らした私の言葉に、リシルは得意げに尻尾を揺らす。
そのやり取りを見ていたドラグニアさんとセレナさんは、そろってため息をついた。
「まったく……緊張感のねぇ奴だな」
「ふふ……でも、あの子らしくていいじゃない」
二人の苦笑混じりの声に、私はますます恥ずかしくなって、焚き火の炎に顔を向けた。
そんな私に、リシルがそっと問いかけてくる。
「ねぇ、リリシア。あなたはこの“刻印”のこと、どこまで教わってるの?」
「……えっと、『昔の魔王が作った特別な魔法』って。
すごく強いけど、ちゃんと自分を保てる者にしか扱えないって……パパが」
自分でも、どこか曖昧にしかわかっていないと気づいて、思わず言葉が弱くなる。
リシルは、そんな私を責めることなく、ゆっくりと焚き火を見つめながら言った。
「……それは間違いじゃないけど、ほんの一部だけね。
本当は――刻印魔術は、ふたつの“契約”から成り立っているの」
「ふたつ……?」
「“魔神”と“神獣”。
相反する存在の力を、ひとつの体に宿して均衡させる魔術。
初代魔王が、自分自身を器にして作り上げた“禁術”よ」
焚き火の明かりが、リシルの銀色の毛並みをやさしく照らす。
「あなたの中には、すでにその一端がある。
だから私は――“神獣側の契約”として、あなたのもとに呼ばれた」
「……!」
私は、自分の右手に刻まれた刻印を見つめた。
今まで、それがどれほど重いものなのかなんて、考えたこともなかった。
「……でも、それって……」
言いかけて、私は思わずリシルを見た。
「パパは、そんなこと……何も言ってなかった。
刻印魔術は“魔族の力”だって。魔神や契約の話なんて……」
私がそう言うと、リシルはわずかに目を伏せ、焚き火の炎を見つめた。
「……それは、仕方のないことよ。
その“誤解”は、ずっと昔から、意図的に、あるいは無意識のうちに、歴史の中でそう書き換えられていったの」
「……書き換え、られて……?」
思わず声が揺れる。パパが――知らなかった?
「じゃあ……パパも、本当のことは……?」
私の問いに、リシルはそっと首を横に振った。
「彼もまた、“刻印魔術は魔族が生んだ力”だと教わって育った。
本来の起源……“魔神と神獣、ふたつの契約を内に宿す魔術”という真実を知る者は、今となってはごくわずかよ」
焚き火の火花が、ぱちりと弾ける。
隣で黙っていたドラグニアさんが、低くうなった。
「……そうか。つまりこれは、“封じられた真実”ってわけか」
その言葉に、焚き火の明かりを受けたリシルの横顔が、わずかに陰った。
そして――
「リシル、今の話……マグナス殿には話せないのか?」
真っ直ぐに問いかけるドラグニアさんの目は、いつになく真剣だった。
リシルは静かに彼の目を見返し、しばし考えるように間を置いてから、口を開いた。
「……タイミング次第ね。
彼が“それ”を知ってどう動くか、あたしには読めない。
でも、話すべき時が来たら……その時は、あたしから話すわ。――もっと詳しく、すべてを」
そう言い終えると、リシルはふわっとあくびを漏らした。
「……今日はもう疲れたわ。あたしは先に休ませてもらうわね」
焚き火のそばから静かに立ち上がり、くるんとしっぽを揺らしながらテントの方へ歩いていく。
「……なんだかマイペースな子ね」
セレナさんが呆れたように笑い、ドラグニアさんも小さく肩をすくめる。
私はまだ残る火のぬくもりを感じながら、燃える薪をじっと見つめて、さっきのリシルの言葉を何度も反芻していた。
初代魔王が……刻印魔術を……? リシルは、何を……
そんなとき、横からふわりとカップが差し出された。
「ほら、あったかいの」
セレナさんだった。湯気の立つカップと一緒に、やわらかい笑みを浮かべている。
「リリシア、今は考えてもしょうがないわ。どうせすぐに答えは出ないものよ?」
「でも……」
「でもじゃないの」
セレナさんは言葉を遮るようにして、私の腕をぐいっと引いた。
「昼間は見事だったじゃない。みんな、あなたのおかげで助かったんだから。だから今くらい、胸を張って祝われなさい?」
「え、ちょ、ちょっと――!?」
「セレナ、お前はまた無理やり……」
呆れたような声で、ドラグニアさんが後ろからつぶやく。
「……けど、まぁ。今のお前には、それくらいの方がいいかもな」
私は引きずられるようにして、笑い声のあふれる輪の中へと連れていかれた。
その背中を、焚き火のあたたかな光が、やさしく見守っていた。
祝宴の輪は夜遅くまで賑やかに続いていた。
焚き火の炎がゆらめき、酒と笑い声が空に溶けていく。
誰もが今日という勝利を称え合い、束の間の平和をかみしめていた。
――翌朝。
「――リリシア。朝よ、起きなさい」
耳元で、柔らかな声がささやく。
「んぅ……あと……ちょっと……」
マントにくるまりながら、私は顔をくしゃくしゃにして寝返りを打つ。
「ダメよ。もうみんな起きてるわよ」
やさしく、それでいてきっぱりとした声。だけど私の頭は、まだまったく起きる気配がなかった。
「ん……?」
もぞもぞと顔を出すと、目の前にふわふわの銀色の毛が見えた。
「あ……うわ〜……可愛い、猫ちゃんだぁ……」
ほわほわと笑いながら、私はリシルのほっぺに頬ずりしようと手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと!? やめなさい、リリシア! 誰が猫よ!」
リシルが慌てて距離を取るけれど、私はまだ夢の中の住人。
「……んへへ、もふもふ……さいこう……」
寝ぼけたままふにゃっと笑い、手をパタパタと伸ばす私。
「まったく……朝に弱いのも大概にしなさい」
ぺしっ
軽い衝撃が額に走る。
「いった……! なに今の……」
目を開けると、目の前には銀色のモフモフ――リシルの前脚が伸びていた。
「やれやれ……朝弱いんなら、もっと早く寝なさい」
「昨日はみんな盛り上がってて……なかなか寝れなかったんだもん……」
「言い訳はいいから、さっさと顔洗ってきなさい」
リシルはふわっと尻尾を揺らしながら、まるでお姉さんのようにぴしゃりと叱ってくる。
「……はい」
私は気まずそうに返事をして、寝ぼけた足取りでテントの外へ出た。
朝の空気はひんやりとしていて、ほんの少しだけ頭が冴えていく――
……と、すぐ目の前でしゃがみ込んでいる人影が見えた。
「くそっ……酒に負けるなんて……竜人の名折れだ……」
うめくような声。ぐったりとうずくまっているのは、どう見てもドラグニアさんだった。
その後ろで、にこにこと楽しそうにカップを手にしているのは――
「もう、飲み過ぎるからよ。完全に自業自得ってやつね?」
セレナさんだった。口元は優雅に笑っているのに、目が完全に楽しんでいる。
「……うぅ……セレナ……お前、あんなに飲んでたのに……なんでケロッとしてやがる……」
「あなたが弱いだけよ。あれくらい、私にはちょうどよかったもの」
ふたりのやり取りに、私は思わず目をぱちくりさせてしまった。
「……おはようございます?」
「おう、リリシア……お前、今朝は元気そうだな……うっぷ……」
「リリシア、顔洗っておいでなさい。朝の一杯、用意しておいてあげるから」
セレナさんがにっこり笑う。
私はなんとなく背筋を伸ばしながら、朝の洗顔に向かった。
顔を洗いながら、ひんやりとした水の感触に少しずつ意識がはっきりしていく。
――今日からまた、現実が動き出す。
洗顔を終えた私は、キャンプ地へ戻り、帰還の準備に取りかかる。
静かに片付けが進むその場所にも、まだ昨夜のぬくもりがわずかに残っていた。




