11話_涙のあとに
グラディスの中心にそびえる議事堂。その重厚な扉の奥――円卓を囲む会議室には、既に各種族の代表たちが集まっていた。
私は、少し緊張しながらその場へ足を踏み入れた。
今日はティナが別の用事で同行できず、代わりにノワールさんが護衛としてついてくれている。
黙って私の背後に控えるその姿は、いつも通り静かで、けれどとても心強い。
「おはようございます」
私の一言に、皆が振り返る。視線を一身に浴びるのにはまだ慣れないけれど、それでも私は真っ直ぐ前を見た。
「リリシア様、お身体は……」
セレナさんが口元に手を添えて、少しおどけた口調で続ける。
「もう、完全復活ってことでいいのかしら?」
「ええ、もう大丈夫です。ご心配おかけしました」
「ほんと、無理はしないでね」
フィオナが軽く肩をすくめながらも、ほっとしたように笑いかけてくる。
その笑顔に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった
ドラグニアさんも腕を組んだまま、うなずくように目を細める。
「無理はするな。だが、顔を見られて安心した」
私は小さく微笑んで応え、自分の席へ静かに歩を進めた。
定位置に腰を下ろすと、ようやく少しだけ肩の力が抜けるのを感じる。
本来なら、今日の進行は私の役目だった。前回の会議の“サイコロくじ”でそう決まっていたのだ。でも――
「えー、本日のまとめ役は俺が代わりに務めさせてもらう。前回のくじではリリシアだったが……まあ、今回は病み上がりってことでな」
バスカさんがいつもの豪快な声でそう言うと、場の空気が少しだけ和らいだ。私の代わりだなんて、きっとやりづらいはずなのに……そんな様子はまったく見せない。
「ふふ、サイコロの女神も気を利かせてくれたってところかしらね」
セレナさんが、口元に手を当ててクスッと笑う。
私は思わず、少しだけ肩をすくめて笑い返す。
「……ごめんなさい、バスカさん。お願いしてしまって」
「気にすんな。こういう時は助け合いってな」
そう言ってバスカさんは、ポン、と拳で自分の胸を軽く叩いた。
その頼もしさに、私は思わず、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
「……さて。それじゃあ、そろそろ始めようか」
バスカさんが席から身を乗り出し、低く太い声を響かせる。
「本日の議題は、リリシア襲撃事件についてだ」
空気が一気に引き締まる。
皆、真剣な表情でこちらを見た。
「すでに報告は通ってると思うが、改めて整理しておく。
襲撃があったのは前回の会議の翌日。リリシアが一時的にフィオナたちとはぐれ、魔獣と正体不明のフードの男に遭遇している」
その場にいた私にとっては、まだ胸の奥がざわつくほどの記憶だった。
バスカさんは私に視線を向けながら続ける。
「リリシア、その時の詳細を、言える範囲でいい。改めて話してもらえるか?」
「……はい」
私は小さくうなずき、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「その男は、突然現れました。最初はまったく気配もなくて……気づいた時には、私の後に立っていて」
喉の奥がひりつくような感覚を、必死に抑える。
「……彼が、指を鳴らしたんです。その瞬間、黒い霧が広がって――その中から、魔獣が現れました」
ざわっ、と小さな反応が広がる。
「……あれが魔法なのか魔導具なのかは……私には判断できませんでした」
「……魔獣の召喚、か」
ドラグニアさんが腕を組み、低く唸る。
「召喚魔法そのものは、存在する。だが、魔獣を召喚対象とする事例は、記録上にはない」
「生きた個体をその場に出現させるなんて、普通の術式じゃ無理よ。何かしら、特殊な“魔法具”があるはず」
セレナさんの表情も、いつになく険しい。
私の背後で控えるノワールさんは、相変わらず無言のまま。けれど、その気配はしっかりと私を守るようにそこにあった。
――本当は、もう一つだけ、話していないことがある。
魔獣に襲われた直後。
私の右手から、あふれるように放たれた、眩い光。
でもそのことは、誰にも伝えていない。
セリルさんとパパが、「今はまだ話さない方がいい」と判断したからだ。
……私自身も、あの光が何だったのか、まだわかっていない。
ただひとつ言えるのは――あれは、ただの偶然なんかじゃなかった。
そして、その沈黙を破るように、間延びした声が空気を撫でた。
「黒い霧から魔獣、ねぇ……。やっぱ悪役って登場シーンが大事だよなあ。俺も今度から霧の中から現れようかな」
「……は?」
思わず聞き返してしまうと、他の全員も一瞬ポカンと固まる。
セレナさんが呆れたように肩をすくめた。
「……ライオネル、あなたの登場はできればない方が平和よ」
「ええっ!? なんでだよ! 盛り上がるじゃん、こういうの!」
「お前が霧の中から出てきたら、誰かがとどめ刺しに行くぞ……」
バスカさんが低く唸るようにツッコんで、思わず私は吹き出しそうになった。
ライオネルさんは肩をすくめ、わざとらしく嘆いてみせる。
「ひどくないか? 俺、そんなに不審者顔してるかね……?」
苦笑混じりにそう言いつつ、視線をバスカさんへ向ける。
「ま、それはともかく。――結界の反応については、セリルから聞いてないのか?」
場の空気が、再び真剣なものに戻っていく。
「現段階ではまだ不明だそうだ……部下に調査させているとは言っていたが、セリル自身が今は不在だからな。やはりまだ、“急に魔獣の反応が現れた”ってところまでしか分かっていないようだ」
バスカさんは眉間にしわを寄せながら、どこか悔しそうに続けた。
バスカさんが渋い顔でそう言うと、間髪入れずにセレナさんがため息まじりに声を上げた。
「こういう時に限って、肝心な人がいないのよね。ほんと、タイミングが悪いったら」
口調は柔らかくとも、その目はどこか苛立ちを含んでいた。
その言葉に、私は思わず肩をすくめ、申し訳なさそうに視線を落とす。
「……ごめんなさい。私のせいで、みんなに迷惑を――」
「違ぇぞ、リリシア」
バスカさんが、低いがはっきりとした声で言った。
「誰のせいでもねぇ。お前はちゃんと戦った。あの場にいたのが他の誰でも、きっと同じだったさ。気にすんな」
顔を上げると、バスカさんの視線がまっすぐ私を見ていた。あの時と同じ、あたたかく、頼もしいまなざし。
「そ、そうよ! 誰もリリシア様のこと責めてないんだからっ」
セレナさんが慌てたように声を上げ、勢いよく立ちかけてから気まずそうに腰を下ろす。
その様子に、胸の奥が少しだけほぐれるのを感じた。
「お前が余計なこと言うからだろうが……」
ドラグニアさんが呆れたようにため息をつきながら、隣でぼそっと漏らす。
「……うるさいわね、ちょっと黙っててよ」
セレナさんが口を尖らせて小さく言い返す。
そんなやり取りを眺めながら、ライオネルさんが両手を広げ、軽く笑った。
「ま、セレナも言ってたけどよ、リリシアは元気でここにいてくれるだけで花丸だって! なあ? ほら、こうして集まることもできてるんだし!」
その言葉に、私はふっと小さく息を吐いて、こくんと頷いた。
「……ありがとうございます」
周囲に漂っていた重苦しさが、少しだけ溶けた気がした。
けれど――みんなが優しくしてくれるほどに、胸の奥に残る小さな痛みは、かえって消えてくれなかった。
少しだけ空気が緩んだそのとき、バスカさんが再び声を上げた。
「――さて、話を戻すぞ。ドラグニア、あれから外の魔獣の動きについて、何かわかったか?」
名前を呼ばれたドラグニアさんは、静かにうなずく。
「前回の報告以降、グラディス周辺に現れた魔獣は、確かに数を増していた。
ただし、どれも小規模な個体で、痕跡も薄い。今のところは一時的な現象……あるいは偵察の可能性もある。」
ホッとしかけたその時――
「だが……日を追うごとに出現頻度は上がっている。今後は、討伐隊の増員や周辺警備の強化も視野に入れるべきだろう」
ドラグニアさんの低く引き締まった声が、場の空気を再び緊張させた。
私は思わず、手のひらを膝の上でぎゅっと握る。
魔獣の増加、黒い霧、正体不明の男……どれもが、これから起こる“何か”の予兆のように思えてならなかった。
――でも、まだ私は、何もできない。
そんな焦りと無力感が、胸の奥でゆっくりと渦を巻いていく。
そのとき、カーン……と澄んだ鐘の音が、グラディスの街に静かに広がった。
「……昼の鐘か。じゃあ、ここらで一旦、休憩とするか」
バスカさんの言葉に誰も異を唱えなかったが、それでも、誰も立ち上がろうとはしなかった。
気のせいかもしれない。けれど、誰かの視線を、そっと感じた気がする。
――私がうつむいてるから。きっと、みんなもそれに気づいてる。
そんなふうに思ってしまう自分が、少しだけ情けなかった。
そんな空気の中で、ぽん、と肩を叩かれた。
「リリ。お昼、一緒に行こ?」
フィオナだった。いつもと変わらない調子で、でもどこか、遠慮がちで心配そうな声。
私は小さく笑って、首を横に振る。
「……ごめんね。今日は……ひとりで食べたいんだ」
「……そっか。じゃあ、無理しないで。あとでまたね」
「うん……ありがとう」
フィオナはそれ以上なにも言わず、笑顔だけを残して席を離れた。
私は椅子から静かに立ち上がると、皆に軽く頭を下げ、《円卓の間》をあとにした。
重たい靴音が、静かな廊下に、ぽつりぽつりと響いていた。
……あの時、私の右手から光が溢れて――
気がついたら、魔獣とフードの男は消えていた。
でも、あれは私の力なの?
本当に、私が“戦った”と言えるの?
わからない。
バスカさんは「ちゃんと戦った」って言ってくれたけど、
私には……自分でそう思えなかった。
だって私は――ただ、怖くて、混乱して、
何もできないまま気を失って、
目が覚めたら全部終わってて……。
あの光が助けてくれた。
けれど、それすら自分で出したわけじゃない。
セリルさんなら、ドラグニアさんなら、フィオナだって
きっとちゃんと、最初から最後まで立って戦えていた。
……“魔王”って、こんなにも無力でいいの?
そう思ってしまう私は、やっぱりまだ“魔王”になれていない。
そう思いながら歩いていたそのとき――
ふと、頬に風を感じて顔を上げた。
視線の先、廊下の端にある大きな窓が、わずかに開いていた。
その向こうには、昼下がりの陽射しに包まれたテラス。
誰の姿もないその場所が、まるで呼んでいるように思えて、
私は、ゆっくりと足を向けた。
テラスに出ると、昼の風が頬をなでる。
遠くで街のざわめきが、ぼんやりと耳に届く。
けれど、胸の中に渦巻くものは、消えてくれなかった。
……たしかに、あの時は光が出た。
私の右手から、あふれるように――。
それなら今も、できるの?
私はそっと、両手を前に差し出す。
手のひらを見つめながら、深く息を吸い、意識を集中させた。
――出て。お願い。
その瞬間を、必死に思い出しながら、右手の刻印に力を込める。
けれど――
……何も、起こらなかった。
風だけが、さらりと指先をすり抜けていく。
……そうだよね。そんな都合よく、できるはずないよね。
喉の奥が、ぎゅっと詰まるような感覚。
私は、力の抜けた手をそっと下ろすと、
そのまま、足元に崩れるようにしゃがみ込んだ。
膝を抱えると、視界がじわりと滲んでいく。
自分の力も、存在も、何も信じられない。
――私は、いったい、何なんだろう。
そんな思考の底に沈みかけていた、そのときだった。
ふわり、と。肩に、やさしい温もりが降りた。
「……泣かないの。リリシア様」
静かな声とともに、背後から優しく語りかけられる。
私は驚いて振り返った。
そこには、穏やかな微笑みを浮かべたセレナさんが立っていた。
普段の気まぐれで小悪魔的な雰囲気は影をひそめ、
まるで夜の波のように落ち着いたまなざしで私を見つめていた。
そのすぐ後ろには、ドラグニアさんの姿もあった。
腕を組んだまま黙っていたけれど、その眼差しは
なによりも真っすぐで――どこか、痛みを分かち合うようだった。
「ごめんなさい。一人になりたい気持ちは、わかるわ。でも……放っておけなかったの」
セレナさんの手が、そっと私の背中をさすった。
「だって私たちは――あなたの味方なんだから」
「……そんなふうに優しくしないでください」
ぽつりと、震える声で呟いたその瞬間――
胸の奥から、悔しさと怒りが一気にこみ上げてきて、私はゆっくりと立ち上がった。
「私……何もできなかったんです……!」
立ち上がった体がわずかに震える。
目元が熱くなり、視界が滲んでいく。
「怖くて、混乱して……結局、光に助けられただけで。
それなのに、“ちゃんと戦った”なんて……そんなの、違う……!」
拳を握りしめたまま、私は言葉を吐き出す。
「私が“魔王”なら……あの場で、ちゃんと立ってなきゃいけなかったのに……っ!」
ぐっと歯を食いしばる。
涙が零れ落ちるのを止められなかった。
私が言葉を絞り出したその瞬間、セレナさんがふわっと、そっと私の身体を包み込むように抱きしめてくれた。
その温もりに、堪えていた涙が音もなく頬を伝った。
「……ねえリリシア。何もできなかったって言うけど」
セレナさんの声は、静かで、でも迷いがなくて。
「もし逆だったら? あなたが誰かに同じこと言われたら、きっと全力で『そんなことない』って言うでしょ?」
私は、何も言えなかった。だって、それはたぶん本当にそのとおりだから。
「だったらさ、自分にも少しぐらい優しくしてあげなさいな」
優しいのに、ずるいくらい核心を突いてくるその言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「怖いなら怖いでいいのよ。泣きたいなら泣けばいい。そういうの、女の子の特権なんだから」
冗談めかした口ぶり。でも、その優しさは本物で。
「“魔王”だからって、全部ひとりで背負おうとしないで。あなたには、頼っていい仲間が、ちゃんといるんだから」
――そんな言葉をかけられたら、もう、だめだった。
私は静かに目を閉じて、ぎゅっと唇をかみしめた。
……涙が、止まらなかった。
「……お前が自分を責める気持ちは、わかる。けどな――」
ドラグニアさんの低く落ち着いた声が、そっと背中に届く。
「お前がどれだけ怖かったか、どれだけ混乱してたか……みんな、ちゃんとわかってる。現場にいなかった私でも、伝わってくるくらいだ」
私は、ただ黙って聞いていた。
悔しさも、情けなさも、どこにもぶつけられなくて。
「今のお前にできる精一杯を、お前はちゃんと出した。それで十分だ。……あとは、私たちが支える番だろ?」
優しい言葉だった。
でも、それでも涙は止まらなくて――
次の瞬間、ふわりと温かな布が頬に触れた。
「ほら、泣き顔のままじゃ、可愛いのが台無しよ?」
気づけば、セレナさんが私の顔を拭いてくれていた。
そっと涙をぬぐう指先は驚くほど優しくて、まるで壊れ物に触れるみたいだった。
「涙も悔しさも、そのままでいい。でも……顔を上げたら、少しは楽になるかもよ?」
ぽん、と頭に乗せられた手が、髪を撫でる。
――あたたかくて、やわらかくて。
誰にもぶつけられなかった想いが、胸の奥で静かに溶けていくような気がした。
少しだけ顔を上げると、視線の先にドラグニアさんがいた。
ふと見ると、その目は真剣なままで、私をまっすぐ見つめていた。
「……泣くのは、悪いことじゃない。むしろ、泣いて立ち上がれる奴は、強い」
ドラグニアさんの言葉は不器用で、けれど真っ直ぐで。
私は静かに頷いた。
すると彼女は、ふと目を細めて、少しだけ声の調子を変えた。
「なあ、リリシア。明日からの討伐任務……試しに、お前も一緒に来てみるか?」
「……え?」
思わず聞き返してしまった私に、彼女は真剣なまなざしを向けて続けた。
「もちろん、無茶はさせない。でも……現場を見て、感じて、考えることが、“次”に繋がるはずだ。お前が前に進みたいなら、な」
私は少しだけ迷った。でも――
「……行きたいです。私、自分で……もっと強くなりたい」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「ふっ、いい返事だ」
ドラグニアさんが小さく笑った、そのすぐ後――
「……まさか、それに私を置いて行こうなんて思ってないわよね?」
セレナさんが、半分呆れ顔で割り込んできた。
「……セレナさん?」
「なんだ、お前も来るのか?」
ドラグニアさんが、片眉を上げて低くつぶやいた。
「当たり前よ、あなた一人に任せてたら精神修行とか言って無茶なことやらせそうだし。それに、リリシアのことは、私がちゃんと見てたいの」
そう言って、すっと私の隣に並ぶ。
「ありがと、ございます……」
「ふふっ、感謝なんていらないわよ。どうせ私も、今のうちに体を動かしておきたかったしね」
「……じゃあ、決まりだな」
ドラグニアさんが腕を組み直して頷く。
空に浮かぶ雲が、ゆっくりと流れていく。
私の中にも、ほんの少しだけ――前へ進む風が吹き始めた気がした。
「その前に、昼食ね。泣いたあとは、ちゃんと食べないと」
そう言って、セレナさんが軽く私の背を押した。
「……はい」
まだ胸の奥には不安も残っていたけれど、足取りはさっきよりずっと軽い気がした。
廊下を抜け、中庭を通り抜けたあたりで――セレナさんがふいに口を開く。
「そうそう、リリシア。さっきの会議のあと、フィオナが一人で食べてたの、見たわよ」
「……え?」
思わず振り返った私に、セレナさんは少しだけ肩をすくめて笑った。
「あなたのこと、きっと心配してたのよ。でも無理に追いかけてくるような子じゃないでしょ?」
「……うん」
胸の奥に、また違う種類の痛みが広がる。
「後ででいいから、ちゃんと声をかけてあげなさいな。あの子、ちょっと寂しそうだったもの」
私は、ほんの少し迷ったあと、小さくうなずいた。
「……ありがとうございます。ちゃんと謝ってきます!」
どこか少し、すっきりした気持ちで、私はふたたび前を向いた。
もう、ただうつむいて立ち止まるだけの“魔王”ではいられないから――。