10話_ 光に導かれて
……目を開けた。気がした。
目の前には、真っ白な光が広がっていた。
でも、不思議とまぶしくはなかった。
ふわりと包みこまれるような、やさしいあたたかさ。
足元に境界はなく、風も音もないのに――そこは、どこか懐かしい空気に満ちていた。
「……ここは……どこ……?」
問いかけは、誰に向けたものでもない。
けれど、その言葉に――応えるように、声がした。
「……リリシア……」
とても静かで、穏やかで、知らないはずなのに、どこか懐かしい声だった。
「……起きなさい。あんたは、まだ終わっていないわ……」
声はやさしく、でも確かな響きをもって胸に届く。
「……みんな、あんたを待っているわよ……」
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
……遠くで、別の誰かが呼んでいる。
やわらかくて、あたたかくて、どこかくすぐったい声。
「リリ姉ー、いつまで寝てるのー?」
ふふっと笑うような声が、霧の奥から届いてくる。
「ほらほら、早く起きないと……朝ごはん、ぜんぶ食べちゃうんだからね?」
懐かしいような、日常の一コマみたいな言葉。
だけど、どうしてだろう――胸の奥が、きゅっと苦しくなった。
……声が、少しだけ震えてる。
「……リリ姉……」
その声が、すぐ近くでささやく。
「ねぇ……起きてよ……」
「また三人で、遊びに行こ……ね?」
涙をこらえているような声だった。
――ティナだ。
呼ばれてる。必死に、私を。
「……帰らなきゃ」
その瞬間、まばゆい光の中に、ひときわ強い輝きが浮かんだ。
……まぶしい。
まぶたの奥に、やわらかな光が差し込んでいた。
布団のぬくもり。ほのかに鼻をくすぐる薬草の香り。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が視界に入ってきた。
「ここは……私の部屋……?」
かすれた声が、静かに空気を揺らす。
ぼんやりとした視界が少しずつ輪郭を取り戻し、意識が身体に戻ってくる。
「そうだ……あのまま、気を失って……」
あの日のことが、断片的に頭をよぎる。
――黒いフードの男。
――魔獣の咆哮。
――あの、右手の……光。
胸の奥が、少しだけ締めつけられた。
思わず、右手に目を落とすと、包帯が巻かれた手が、誰かの手に、優しく握られていた。
「……ティナ……」
ベッドの端に、ティナがうつ伏せになるようにして眠っている。
頬は少し赤くて、口元はむにゃむにゃと動いていた。
泣いたあとかもしれない。寝顔なのに、どこか不安そうで――
私は、そっとその手を握り返した。
「……ありがとう、ティナ」
あなたが、そばにいてくれてよかった。
あの時、怖かった。でも……ひとりじゃなかった。それだけで、どれだけ救われたか分からない。
もう一度、右手に目をやる。
包帯の奥に、あの時の光が、まだぬくもりとして残っている気がした。
「……あれは……なんだったんだろう」
自分の力なのか。刻印の力なのか。
それとも、あの男が言っていた“何かを継いだ”という言葉と、関係があるのか――
分からない。けれど確かに、あの光は、あの瞬間だけは私を突き動かしてくれた。
ただ、守りたい。それだけで。
ふと、静寂を破るように――扉の開く音が響いた。
ゆっくりと振り向くと、そこには、驚いたように立ち尽くすフィオナの姿。
口元がわずかに開いて、彼女は小さくつぶやいた。
「……リリ……」
その声は震えていて、涙をこらえているようにも見えた。
私は、そっと笑ってみせた。
「……おはよう、フィオナ」
フィオナは、かたまっていた身体をようやく動かすと、
次の瞬間、勢いよく私のもとへ駆け寄ってきた。
「リリ……!」
ベッドの端に身を乗り出し、私の肩をそっと抱きしめる。
その腕には、確かな震えが伝わってきた。
「よかった……本当によかった……目を覚ましてくれて……!」
声はかすかに涙を含んでいて、私の胸にまっすぐ届いた。
「……ごめんね、フィオナ。心配……かけたね」
そう言って、私もフィオナの背中に手を添える。
少しだけ力が戻ってきた体で、そのぬくもりを受けとめた。
「ったくもう……どれだけ焦ったと思ってるのよ……」
フィオナはそう言いながらも、目元をぬぐい、少し笑った。
私は小さく首をかしげて、問いかける。
「……私、どれくらい眠ってたの?」
「三日。もう、心配しすぎて、胃に穴あくかと思ったんだからね!」
「えっ、三日も……?」
思わず息をのむ。
そのあいだ、みんなは……ずっと、待っててくれたんだ――
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
その時だった。
ティナの体が、もぞ……と小さく揺れた。
握ったままだった私の手に、かすかな力がこもる。
「……ん、ふぁ……?」
まぶたがひくひく動き、次第にゆっくりと目を開ける。
ぼんやりとした視線がこちらを向き、私と目が合う。
「……リリ、姉……?」
かすれたような、小さな声。
それに、私はそっと微笑んで返す。
「……うん。おはよう、ティナ」
その瞬間、ティナの目がぱちんと大きく見開かれた。
「リリ姉っ!!」
叫ぶような声とともに、ティナは椅子から勢いよく身を乗り出し、私の胸元へ飛び込んできた。
小さな体が勢いのまましがみついてくる。
「よかったぁぁ……! リリ姉ぇぇ……っ!!」
そのまま、ティナはしゃくりあげるように泣き出した。
大粒の涙が頬をつたって、私の胸元を濡らしていく。
泣き声は、子どものように――けれど、それだけ、心配してくれていたのが伝わった。
私は、そっとティナの頭に手を置き、優しくなでる。
「……ありがとう、ティナ。ずっと、そばにいてくれて……」
ティナのしゃくりあげる声が、さらに強くなる。
私の胸元に顔を押しつけながら、小さな手でぎゅっと服を握りしめていた。
「……ごめんね……心配、いっぱいさせちゃって……」
その言葉に、ティナは小さく首を横に振った。
フィオナは小さく肩をすくめるように笑って、目元をそっとぬぐった。
「私、おじさんたち呼んでくるね」
「リリが目を覚ましたって、教えてあげなきゃ」
そう言うと、静かに扉の方へ向かい、カチャリと音を立てて部屋を出ていった。
ティナと、ふたりきりの静けさが戻ってくる。
泣き声はだいぶ小さくなっていたけれど、まだ時おり鼻をすする音が聞こえる。
「……落ち着いた?」
私がそう声をかけると、ティナはこくんと小さくうなずいた。
「……うん」
ぐしぐしと目元をこすりながら、ティナがぷくっとほっぺたをふくらませる。
「……もう、リリ姉のばか」
「えっ、いきなり?」
「だって! あんな倒れ方するから……! 心配したんだからねっ」
「そ、それは……ごめんってば」
私は思わず苦笑いしながら、頭をかいた。
ティナはまだむくれているけど、その頬は少し赤くて、泣いた直後のわりに元気そうだった。
「ほんとに……起きなかったら、ずっと看病してやるんだって思ってたんだから……」
「なにそれ、嬉しいけど、ちょっと怖い……」
私が冗談っぽく返すと、ティナは「ふんっ」と小さく鼻を鳴らしてそっぽを向く。
でもその耳は、明らかに真っ赤だった。
私は思わず笑ってしまって、そっと天井を見上げる。
あの、白くてあたたかい光の世界が、ふっと胸の奥に蘇った。
「ねえ、ティナ。……夢の中でね」
言いながら、自分でも少し不思議な気持ちになる。
あれが本当に夢だったのか、それとも――
「遠くのほうから、声が聞こえたの。『起きて』って……やさしくて、でもちょっと泣きそうな声だった」
言葉を選ぶように、私はゆっくりと語った。
ティナが、ちらりとこちらを見る。目元にはまだ赤みが残っていたけれど、その瞳は真剣だった。
「……それって」
ぽつりと、戸惑うような声。
問いの続きを口にするのが、少しだけ怖い、そんなふうに聞こえた。
私は、ゆっくりと微笑んで、ティナのほうに目を向ける。
「うん。ティナの声だったよ」
ティナが小さく目を見開く。
そして私は、そっと言葉を重ねた。
「……あの声でね、ちゃんと帰ってこられた気がするの」
「……ティナのおかげだよ」
ティナはしばらく黙っていた。
でも、その肩がぴくりと揺れたかと思うと、勢いよく顔をそむけた。
「も、もう……っ!」
頬はりんごみたいに真っ赤になっていて、耳までほんのり熱を帯びている。
「次からは……あんまり心配させないでよね!」
そっぽを向いたまま、ぷいと拗ねたように言うその声が、かえってリリシアへの優しさに満ちていて――私は、そっと笑った。
……それにしても――
あの時、夢の中で聞こえた声。
あれは、誰だったんだろう――?
胸の奥に、微かな余韻が残っていた。
けれど、それを確かめる間もなく――
廊下の向こうから、ドタバタと足音が響いてきた。
そしてそれに重なるように、聞き覚えのある声が叫ぶ。
「リリィーーーーー!!」
私とティナは、顔を見合わせて――思わず扉の方を見た。
バンッ!!
勢いよく扉が開き、部屋の中に風が巻き起こる。
現れたのは――
「リリィーーーーッ!!」
白髪の混じった黒髪をなびかせ、パパがものすごい勢いで駆け込んでくる。
次の瞬間、私はふわっと宙に浮き、そのまま力いっぱい抱きしめられた。
「パ、パパっ!? く、くるしい……!」
ぎゅうぎゅうと押しつぶされそうな腕の中、でもその震えに気づいたとたん、胸が締めつけられる。
「……よかった……本当に、よかった……!」
パパが私の肩に顔をうずめたまま、小さく息を吐く。
私はそっと背中に手を回し、静かに答えた。
「……ただいま、パパ」
そのとき、扉の外からもう一組の足音が近づいてきた。
「あらあら、そんなに抱きしめたらリリが潰れちゃうわよ」
さらりとした声とともに、ママが部屋へ入ってくる。
その後ろには、無言で控えるノワールさんと、ほっとした表情のフィオナの姿が続いた。
「……おっと。すまんすまん」
パパはようやく我に返ったように、少しだけ照れくさそうに笑って私を放した。
その腕の温もりが離れると、今度は、ママがそっと私の肩に手を置いて、優しく抱きしめてくれる。
「おかえりなさい、リリ。――よく頑張ったわね」
そのひと言が、胸の奥にじんわりと染みてくる。
私は小さく息を吸い、顔を上げてそっと口を開いた。
「……心配かけて……ごめん、なさ……」
そこまで言ったところで、言葉が喉につかえてしまった。
胸の奥が熱くなり、こらえていたものがあふれ出す。
「……っ」
ぽろり、と涙が頬をつたう。
言い切れなかった“ごめんなさい”の続きを、代わりに涙が語ってくれた。
ママは何も言わずに、私を抱き寄せる腕にそっと力を込めてくれる。
パパも、大きな手で静かに私の頭をなでながら、優しくうなずいた。
そのぬくもりに包まれているうちに、こみ上げていたものが少しずつ落ち着いていく。
私はそっとまぶたを閉じて、小さく息をついた。
――ちゃんと、帰ってこられたんだ。
心の奥に、ようやく実感が宿っていく。
やがてママが、抱き寄せていた腕を少し緩めて、私の頬に手を添えた。
「もう、大丈夫ね」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
ティナやフィオナの顔が頭に浮かぶ。
みんなが、私を待ってくれていた。
こんなふうに、迎えてくれていた――そのことが、たまらなく嬉しかった。
「……リリ」
ふいに、低くてあたたかな声が降りてきた。
パパが、私の名前を呼ぶ。
顔を上げると、パパは優しい目で私を見つめていた。
真っ直ぐで、だけどどこか迷いのある――そんなまなざし。
「よかった。本当に、無事で……」
そう呟いてから、少し間をおいて――
「……話せるか? あのとき、何があったのかを」
責めるでも、急かすでもなく。
ただ、娘の言葉を待つ父の声だった。
私は、小さく息をのみ、こくりとうなずいた。
そのときだった。
開け放たれた扉の向こうから、静かな声が響く。
「……俺にも、聞かせてくれないか」
思わず扉の方を見ると、声の主がすっと中へ足を踏み入れる。
見慣れたその姿に、私は一瞬、言葉を忘れた。
セリルさん――気を利かせて、ずっと外で待っていてくれたのだろう。
「君に起きたこと。そして、“あの光”のこと」
そう言いながら、セリルさんは静かにこちらへ歩み寄ってくる。
私は、思わず息をのんだ。
「……見ていたんですか?」
「あぁ……俺は異変を感じて、現場に向かった。着いた時には、君はもう意識を失っていた。魔獣の姿はすでになく……その場には、かすかな光の余韻だけが残っていた」
セリルさんの声は落ち着いていて、優しかった。
問い詰めるでもなく、ただ“聞く覚悟”を持った、まっすぐな声音。
私は、ベッドの上でそっと膝を引き寄せて、小さくうなずいた。
「……あの日、少しだけ、一人になってて」
「フィオナたちとは、途中で別れちゃって……私だけ、少し道を外れてたの」
私はふと、窓の外を見つめる。記憶の奥に刻まれた、あの冷たい感覚が胸をかすめた。
そして、私は――魔獣と、あのフードの男のことを話した。
気配もなく現れたこと、黒い霧、そして魔獣の出現。
あの時の恐怖を、少しずつ、言葉にしてゆく。
「……ティナとフィオナが来てくれて、ホッとしたの。すごく……安心して」
「でも、その分、二人を危険に巻き込んじゃいけないって思って……“守らなきゃ”って、強く、強く思ったの……」
私は、そっと自分の右手を見つめる。
「その瞬間……刻印が光って……私の中から何かがあふれるみたいに、強い光が出て……魔獣がその光を嫌がるように苦しみだした」
そして、右手を胸のあたりにそっとあてる。
あの時、確かにそこから何かが生まれたような気がした――そんな思いが胸をよぎる。
「……それからのことは、あんまり覚えてないの。気がついたら、ここだったから」
話し終えたあと、部屋の中に、しんとした静けさが満ちる。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
けれど、その沈黙は重たいものじゃなくて――ただ、私の話を、ちゃんと受け止めてくれた“証”のように感じられた。
やがて、パパが小さく息を吐く。
「……よく話してくれたな、リリシア」
隣にいたママも、私の髪にそっと手を添える。
やさしく撫でるその仕草に、言葉以上の想いが込められていた。
ノワールさんは、静かに目を閉じ、小さくうなずく。
表情は変わらないのに、不思議と心が落ち着く。
フィオナは腕を組んだまま、すこしふてくされたように顔をそらし――それでも、目元は優しく揺れていた。
ティナは、隣にいたまま、そっと私の手を握ってくれた。
小さな手のひらから伝わってくる、あたたかな想い――それだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
誰もすぐには言葉を発さなかった。
ただ、静かに――想いだけが、空気の中に満ちていた。
その沈黙を破ったのは、セリルさんの静かな声だった。
「……ありがとう、リリシア。話してくれて」
視線を向けると、セリルさんがこちらをまっすぐに見ていた。
その目は、まるで何かを確かめるように、真剣な光を宿している。
「それは確かに、“刻印”の力だろう」
「だが……君の刻印は、通常のものとは明らかに違うようだ」
その言葉に、場の空気がわずかに揺れる。
ママもパパも、ノワールさんも、静かに耳を傾けていた。
セリルは少し視線を伏せ、考えるように小さく息を吐くと――
顔を上げて、パパに向き直る。
「マグナス……俺は一度、里に戻る。確認すべきことがある」
セリルの言葉に、マグナスはひとつうなずいた。
「……わかった。皆には、俺から言っておく」
すると、セリルが視線を向けながら静かに言葉を続けた。
「その前に、君にも話しておきたいことがある」
マグナスは少しだけ目を細め、考えるように短く息を吐いたあと――
「フィオナ、すまないが、帰ってバスカに伝えておいてくれないか?」
不意に名前を呼ばれて、フィオナは「え?」と小さく瞬きをしたが、すぐに頷く。
「うん、わかった。じゃあ、今日は帰るね、リリ」
私に小さく手を振って笑いかけると、パパは続けてノワールさんに声をかける。
「ノワール、フィオナを送ってやってくれ」
ノワールは静かに一歩前へ出ると、短く答える。
「……心得た」
それだけを告げて扉の方へ向かい、フィオナもその後に続く。
フィオナは振り返って、私に少しだけ得意げな顔を見せた。
「ちゃんと休みなさいよ? 明日また顔出すからね!」
その言い方が少しだけお姉さんぶっていて、私は思わず笑ってうなずいた。
フィオナたちが部屋を出て行ったあと、セリルさんがパパに小さく頷いた。
二人はそのまま静かに踵を返し、私に一度だけやわらかな笑みを向けてから、廊下へと姿を消していく。
扉が閉まり、部屋には穏やかな静けさが戻った。
ふと気づくと、横に座っていたティナが、いつになく真剣な表情をしていた。
「……ティナ?」
私が小さく呼びかけると、ティナは少しだけうつむいてから、そっと立ち上がる。
そして、向き直った先――ママの方を見つめて、背筋を正す。
「……あの、ティリス様。少し……お話があります」
その声はどこか緊張を帯びていて、それでいて、しっかりとした意思を感じさせた。
ママは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、わかったわ。……場所を変えましょうか?」
ティナの言葉に優しくうなずいたあと、再び私の方に向き直る。
「リリは起きたばかりなんだから、今日はもう無理しないで、ゆっくり休んでちょうだい」
「……うん」
私は素直に返事をして、ベッドに身体を預ける。
ママは布団をそっと引き上げ、私の肩まで優しくかけてくれた。
「おやすみなさい」
ママの声は、いつも通り落ち着いていて、あたたかい。
「……おやすみ、リリ姉」
続いて、ティナの小さな声。
ママとティナは、そっと足音を忍ばせるように、静かに部屋を出ていった。
カチャン、と扉が閉じる音がして――
私は、再びゆっくりとまぶたを閉じた。
光のぬくもりに導かれるように、私は再び静かな眠りへと落ちていった。