9話_ 黒き来訪者と光の応答
支度を終えた私たちは、それぞれの《魔導端末》を大事そうに鞄にしまい、玄関に揃って立った。
「よし、準備OKっと!」
ティナが元気に腕を伸ばし、ぱんっと軽く手を叩く。
フィオナは端末がちゃんと入っているかをもう一度確かめてから、軽くうなずいた。
私も鞄の中をそっと確認し、小さく息を整える。
すると、リーヴァさんがエプロン姿のまま、私たちのあとを追うように玄関まで来て、やわらかな笑みを浮かべた。
「ふふ、気をつけて行ってきてね」
そう言いながら、ひとりずつに手を振ってくれる。
「……あ、そうそう」
玄関の扉に手をかけた私たちに、思い出したように声をかけた。
「ノワールさんが夜にはお迎えに来るみたいだから、夕方には帰ってくるのよ?」
「「「はーい!」」」
3人声をそろえて返事をすると、リーヴァさんがふっと目を細めて笑った。
やさしい見送りの気配に背中を押されるように、私たちは扉を開ける。
まぶしい朝の光に包まれながら、活気づくグラディスの街へと、一歩を踏み出した。
グラディスの中心通り――朝の光に照らされた石畳を、私たちは並んで歩き始めた。
カラフルな屋根の店々が並び、店先にはもう準備を始めた商人たちの声が響いている。パン屋からは焼きたての香りが、花屋からは色とりどりの花が風に揺れていた。
「まず、どこ行こっか?」
私がそう問いかけると、
「うーん……とりあえず、商店街をひと通り歩いてみよっか」
フィオナが軽やかに笑って、まっすぐ通りの方を指さした。
「さんせ〜いっ!」
ティナが元気いっぱいに答えると、私たちは三人で顔を見合わせて、自然と足取りを弾ませた。
そのまま私たちは、賑やかな通りをゆっくり歩き始めた。
「わっ、このアクセサリー、すっごく可愛い〜!」
ティナが真っ先に飛びついたのは、小さなガラス細工のアクセサリーを並べた店。光に透ける小瓶のペンダントや、草花を封じた指輪がずらりと並び、見るだけでも胸が躍る。
「この色、ティナに似合いそうだね」
フィオナが指差したのは、淡い緑のイヤリング。ティナは照れくさそうに笑って頬を赤らめた。
「えへへ……似合うかな?」
「きっと似合うよ。わたしは……この本の栞、気になるかも」
少し先の文具屋で見つけた、魔法陣の模様が描かれた栞に、私はそっと指を伸ばす。紙とは思えないほど精巧な模様に、自然と手が伸びてしまった。
「リリ、こういうの好きそう。……あ、でもその隣のノートも可愛い!」
「ほんとだ……あ、表紙に星の刺繍が……」
ふと顔を上げると、ティナとフィオナが夢中になって並んだノートを眺めていた。
陽射しにきらきらと反射するウィンドウ、その向こうに揺れる小物たち。気づけば、あっちへこっちへと目移りして、私たちはすっかり“グラディスの朝”に溶け込んでいた。
通りをひとめぐりして、路地の奥まで歩いたり、小さな広場をのぞいたり――気がつけば、手にはいくつもの紙袋が揺れていた。
どこか満ち足りた気分と、ほんの少しの疲れが足取りに混じる頃、私たちは通り沿いのベンチに腰を下ろした。
「ふぅ〜、結構歩いたね〜!」
ティナが腕をぐるぐる回しながら、店先のベンチにぺたんと腰を下ろす。
「でも楽しかった。雑貨屋もアクセサリー屋も、みんな見て回れてよかったね」
私もその隣に腰を下ろし、手に提げた小さな紙袋を膝にのせた。
「私、あのガラス細工の指輪、ほんとに気に入った!」
フィオナはうれしそうに袋を軽く持ち上げる。
「うん、すっごく似合ってたよ。あの淡い青、フィオナの目の色と同じだった」
「えへへ、ありがと。……リリもちゃんと見てたんだね」
「もちろん。ふたりとも、夢中であれこれ試してたし」
「リリ姉だって、あのカチューシャずっと触ってたじゃん〜」
「えっ……そ、それは……」
思わず耳まで熱くなって、言葉がつまる。ティナがニヤッと笑ったのが、横目でもわかった。
「買えばよかったのに〜。あとで後悔しても知らないよ〜?」
「う……そ、そんなことないもん……!」
私が慌てて言い返すと、フィオナがにっこり笑いながら肩をすっと寄せてくる。
「ふふ、じゃあまた今度、一緒に来ようね」
その柔らかな声に、胸の奥がじんわりあたたかくなる。自然と、私も笑みを返していた。
そんな空気の中、ふと風に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。
「……ねぇ、お腹すかない?」
ティナがぽつりと言うと、私もフィオナも同じように匂いの方を振り向いていた。
「パン屋さんのカレーパン……!」
「あと、向こうの屋台、スープとサンドイッチのセットだって」
「座れる場所もあるし、あそこで食べよっか?」
私がそう言って立ち上がろうとした瞬間――
――ガサッ。
手提げ袋のひとつがバランスを崩し、足元に落ちてしまった。
「あ……」
慌ててしゃがみこんで袋を拾い上げる。
顔を上げたときには――
ティナとフィオナは、楽しそうにおしゃべりしながら、そのまま人混みの向こうへ歩いていってしまっていた。
……その瞬間だった。
「君が……リリシア……だね……」
不意に背後からかけられた、低く落ち着いた男の声。
……え?
思わず振り向こうとした足が、ぴたりと止まった。
ぞくりと、背筋を冷たいものが撫でていく。
振り返りたいのに、体が言うことをきかない。まるで、見えない鎖に縛られていかのように。
そして何より――
その声の主からは、“魔力”の気配がまったく感じられなかった。
抑えているのではなく、最初から“ない”ような、そんな奇妙な感覚だった。
声を出すことさえ、少しだけ勇気がいった。
「……だれ、ですか……?」
かすれるようなその問いは、風に溶けるように小さく響いた。
すると、背後から返ってきたのは――妙に愉快そうな、男の声。
「……へぇ。これが“魔王”? ふふ……ずいぶんと、壊れやすそうな姿をしてるじゃないか」
その声音には、あきらかな嘲りも、敬意もなかった。ただ、状況を楽しむような、不気味な軽さだけが残っていた。
それなのに――
誰も、その存在に気づいていない。
通りを歩く人々は笑いながら会話を交わし、屋台の店主は元気な声で客を呼び込んでいる。目の前でそんな声が響いていたというのに、誰一人として、異変に反応する者はいなかった。
まるで、彼だけがこの世界から“切り離されている”みたいに。
そんな……
私は声にならない声で喉を震わせた。立ち上がったはずの足はまだ動かず、心臓の鼓動ばかりが耳にうるさく響く。
どうして……どうして誰も、気づかないの……?
恐怖というより、理解できないことへの本能的な拒絶が、背筋を凍らせる。
すると、男はもう一度、愉快そうに――しかし、どこか興味を失ったかのような口調で、ぽつりとつぶやいた。
「……あれ? その包帯――何で隠してるの?」
私は思わず、右手をかばおうとした。けれど、体はまだ動かないまま――ただ、心の中で叫ぶことしかできなかった。
その隙に、男の指先がすうっと包帯の上をなぞるように触れる。力はなかったのに、全身の神経が逆撫でされるような感覚が走る。
足元から冷たいものが這い上がってくる。恐怖というより、“理解できない”という種類のざわめき。
そして――
「……君、“知らない”んだね。自分が、何を継いだのかも」
囁くようなその声が、まるで呪いのように耳に絡みついた。
「な、なにを……言って……」
声にならない声を、震える唇がようやく絞り出した、そのとき――
男は、ふっと笑って右手から指を離した。
その仕草には、どこか興味をなくしたような、乾いた温度がにじんでいた。
「……まぁいいや。今の君じゃ、つまらない」
その声音は、期待していた玩具が壊れていたと知った子どものように――どこか冷めていた。
「せっかく直に確かめに来たのに。これじゃあ、拍子抜けだ」
男の視線は、まだ私に向けられていた。なのにその気配だけが――まるで、もう遠くへ行ってしまったかのように感じられた。
「……でも、せっかく会えたんだし。少し――遊ぼうかな」
その声には、どこか投げやりな気配が滲んでいた。
「僕のペットを――紹介するよ」
男は、愉快そうに笑うと、わざとらしく顔を傾けた。
「あ、そうだ。その前に……君、まだ動けないんだったね」
パチン、と乾いた音が響いた瞬間――
全身を縛っていた見えない鎖が、ぷつりとほどけたように、感覚が戻った。
――動ける。
私はその場に立ち尽くしたまま、震える手をそっと胸に当てた。
早鐘のように高鳴る鼓動を押さえようと、深く息を吸い込む。
けれど肺の奥まで空気が届かず、視界が少しだけ揺らぐ。
「……落ち着いたかい?」
背後から、男の声がふたたび投げかけられた。
私は、おそるおそる――上半身だけを、そっと振り返る。
そこに立っていたのは、黒いコートを身にまとった男だった。
その姿はまるで闇に溶けるようで、フードは深く顔を隠し、表情はよく見えない。
けれど、影の奥から感じる“視線”だけが、鋭く私を捉えていた。
男はほんのわずかに首を傾けると、愉快そうな声で言った。
「じゃあ、改めて」
「僕のペットを――紹介するよ」
そして、くすっと笑いながら、さらりと続ける。
「……と言っても、さっきからずっと隣にいるんだけどね」
再び、男が指を鳴らした。
次の瞬間――足元から黒い霧がにじみ出し、地を這うように一気に広がっていく。
その霧はまるで生き物のようにうごめき、男の隣で渦を巻いたかと思うと――
**ズルリ――**という不快な音と共に、霧の中心から“それ”が姿を現した。
魔獣――。
黒紫の鱗に覆われた異形の身体。背には鋭くねじれた棘が何本も突き出し、全身からは黒い瘴気を漏らしている。そして、赤黒い眼光。
「――ガアァァアアアアアッ!!」
空気を裂くような咆哮が街に響き渡った、その刹那――
――ブゥオオオオオ……!
けたたましい警報音が、グラディスの空に鳴り響く。
それは、グラディス全域を覆う結界が発する非常警報だった。
結界による自動警戒が、異常魔力を感知したのだ。
その直後、遠巻きにいた人々が一斉に足を止めた。
「きゃああああっ!」
「な、なにあれ――!?」
「魔獣!? なんでこんなところに……!」
次々にあがる悲鳴。通りはたちまち混乱に包まれ、駆け出す人影が散っていく。
リリシアは、目の前の異形に思わずのけぞった――そして、足がもつれ、ぐらりと体が傾く。
そのまま、石畳の上にしりもちをついた。
「うそ……さっきまで、いなかったのに……!」
私は思わず口を押さえて、息を呑んだ。
確かに、ほんの少し前まで――そこには“何も”いなかったはずなのに。
──『結界をすり抜ける魔獣がいる』
──『結界に反応せず、侵入の痕跡だけが残されていた。』
セリルさんの言葉が、脳裏に蘇る。
それは、昨日の会議で交わされた会話の断片――。
あのときは、どこか他人事のように聞いていた。
けれど今、それが現実として、私の目の前に突きつけられている。
「ふふ……見てごらん。ねぇ、可愛いと思わない?」
男はまるで、何かを誇示するように魔獣を指差して微笑んだ。
「こいつはね――壊すのが、大好きなんだ。ぼくと同じでさ」
声はどこまでも優しく、どこまでもおかしかった。
「泣いて、叫んで、壊れて……そのたびに、もっと美しくなる。ね? 素敵だろう?」
ぞっとするようなその言葉の余韻が残る中、私は――動けなかった。
ただただ恐怖に凍りついて、指一本すら動かせない。
男は、フードの奥で口角をつり上げながら――まるで心底楽しんでいるかのように、私の様子を見下ろした。
「……あれ? おかしいなぁ。せっかく動けるようにしてあげたのに……なんで、また動けないの?」
そう言いながら、男はゆっくりと手を伸ばし、私の顎にそっと指を添えた。
その仕草は穏やかで、どこか優しささえ感じさせる――けれど、そこにあるのは、冷たい狂気だけだった。
涙がこみ上げる。頬に伝う前に必死でこらえるけれど、視界がじんわりと滲む。
顔をそむけたくても、首すら動かせない。
その距離感に、ただ震えるしかなかった。
「……まぁいいや。今の君には、もう興味ないし……」
男は、つまらなそうにそうつぶやくと、私の顎から指を離した。
指先が離れた瞬間、息が漏れそうになるのをなんとかこらえる。
けれど、膝の震えは止まらなかった。
「この街も――もう充分、観察できたしね」
そう続けながら、男は私に背を向け、ゆっくりと数歩、石畳の上を歩き出す。
「――てわけで、壊していいぞ」
男が軽く手を振るように言うと、魔獣はゆっくりと、足音を響かせながらこちらへ歩み寄ってきた。
ズズ……ザッ、ザッ……
その巨体から発せられる瘴気が空気を歪め、地面を擦る爪が不快な音を響かせる。
私は、逃げられなかった。
膝が崩れたまま動かず、腕も足も、まるで異物のように震えているだけ。
魔獣が私の目の前まで来た。そして――
フシュゥッ……
低く湿った鼻息が、私の顔に吹きかかった。
生ぬるい、血と鉄と腐臭の混じった匂いが肌を撫で、全身が総毛立つ。
「っ……ぅ……!」
私は目をぎゅっと閉じて、思わず肩をすくめる。
震えが強まり、呼吸がうまくできない。
怖い。怖い。怖い――!
そのとき、遠くから――聞き慣れた声が飛び込んできた。
「リリー!!」
「リリ姉ーっ!!」
フィオナ……ティナ……!
二人の声が、風に乗って耳に届いた瞬間、
胸の奥に、ほんの少しだけ光が差し込んだ。
助かった――
そう思ってしまいそうになった。
でもすぐに気づく。
振り向かなくても分かる。フィオナとティナが、もう私のすぐ後ろにいる。
もし、このまま私が動けなかったら――
二人が巻き込まれるかもしれない。
ダメ……来ちゃダメ……!
私のせいで、大切な人たちが危ない目に遭うなんて……!
怖い。体はまだ震えている。
だけど、胸の奥で――何かが小さく灯った。
……守らなきゃ。
その瞬間だった。
右手の包帯の奥から、じわりと光が滲み出す。
淡い、けれど鋭い光。熱でも痛みでもない、不思議な感覚が右腕を駆け抜けた。
「――っ!」
目の前が、まばゆく染まった。
(……なに、これ……初めてのはずなのに……)
光が、私と魔獣、そしてその周囲を柔らかく包み込む。
世界が白く満たされていくような錯覚に、思わず息を飲んだ。
「……グルゥ……ア……ッ」
魔獣が、声を漏らした。
赤黒い目が、かすかに揺れる。
全身を覆う黒紫の鱗がわずかに軋み、息遣いが濁った。
ぎしり――ッ。
爪が石畳を削る音とともに、魔獣は――一歩、私から下がった。
暴れはしない。咆哮もしない。
けれど確かに、あの魔獣は、私の放った光を“嫌がって”いた。
私は、呆然と見つめていた。何が起きているのか、わからない。
――魔獣を挟んだ向こうで、男が低く笑う声が聞こえた。
「……へぇ」
その声には、さっきまでの軽さはなかった。
ただ、静かな驚きと――喜びが、そこにはあった。
フードの奥で、目が笑っているのがわかった。
「なるほど、そりゃ“あいつ”も期待するわけだ」
まるで宝物を見つけた子どものように、男は目を細めた。
フィオナとティナの足音が荒い息づかいと一緒に近づき、私の前でぱたんと止まった。
ティナが両肩に手を置き、心配そうに覗き込む。
「リリ姉、大丈夫っ!?」
震えが残る身体をどうにか支えながら、私はこくりと小さくうなずく。
「……うん、平気……」
けれど声は掠れて、自分でも頼りないとわかる。
フィオナは、呻くように身をよじる魔獣を見て目を細めた。
「……あれ、魔獣が……苦しんでる?」
彼女はゆっくりと視線を移し――私の周囲にほのかに漂う光に気づく。
「……この光……リリから……?」
その声には驚きと、どこか確信めいた響きが混ざっていた。
かすれた囁きに答える余裕はない。ただ胸の奥で、まだ温かく脈打つ何かを感じていた。
──ズルリ、と鱗を擦る音。
魔獣が咆哮を飲み込み、苦悶するように一歩退く。男はそれを眺めて、肩をすくめた。
「まぁ、今はこの程度で十分かな……」
ゆっくりとこちらに背を向け、足を一歩、踏み出す。
「――続きは、また今度のお楽しみってことで」
その声が消えると同時に、足元から黒い霧が立ち上った。
霧は男の体を包みこむように渦を巻き、やがて、魔獣の姿ごと――影のように、掻き消えていった。
残ったのは、私の右手に瞬いた淡い光と、明るい昼の通りに戻りかけた喧噪。
警報はまだ鳴り続け、人々の悲鳴も遠くで渦巻いている。
霧が晴れたその場所には、もう何も残っていなかった。
男も、魔獣も――まるで初めから存在しなかったかのよう
に。
……なのに、あの異形の気配は、まだどこかにこびりついているようだった。
それでも、少しずつ“現実”が戻ってきていた。空気の温度、遠くのざわめき、誰かの足音――世界が、確かに日常の側へ引き戻されていく。
「……消えた……?」
フィオナが、警戒を解かぬまま小さくつぶやく。
「なんだったの? あの人……」
ティナはリリシアの隣で、不安そうにあたりを見回していた。
そのとき、私の周囲に漂っていた光が、ふわり――ゆっくりと淡くなっていく。
淡い輝きが空気に溶けていくように、静かに、穏やかに消えていった。
視界がにじむ。
ふと、身体の力が抜けていくのを感じた。
ティナの声が聞こえた。何か叫んでいる。でも――もう、はっきりとは聞き取れない。
「リリ姉っ……! ねえ、リリ姉……!」
「リリ!しっかりして……!」
フィオナの声も、どこか焦っていた。
でも、その声さえも――だんだんと遠ざかっていく。
……声が届かない。手も、動かない。
それでも、右手の包帯の奥には、かすかな光のぬくもりが残っていた。
まるで、誰かの手を握っていたような――そんな錯覚とともに。
意識は、深い海の底へと沈んでいくように――すうっと、静かに闇へ落ちていった。