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誤差3km

作者: 齋藤

第一章:誰も気づかない誤差


「事故です。船の上から落ちました。すぐに浮き輪を投げましたが、もう姿が見えなくて──」


通報の声は震えていた。通報者は藤村聡、地元でも評判の温厚な男だった。警察署内ではその録音データを聞いた誰もが、これは単なる不幸な海の事故だと判断した。


ただ一人を除いて。


新人刑事・海堂智一は、会議室の隅で小さく首を傾げた。ホワイトボードには、通報があった海域の座標と捜索範囲、そして“行方不明者:井口翔平”の顔写真が並んでいる。


「何か気になるのか?」


隣にいた先輩刑事が尋ねる。海堂は少し迷ったあと、小声で言った。


「……釣果写真の位置情報が、落水の通報地点から数キロ離れてるんです。しかも、そっちは沿岸の浅場。通報の方は、沖合の潮流が早い地点」


「移動したんだろ。釣れなかったからポイント変えるなんて普通だ」


「はい。ただ……釣果の時間と、通報の時間が近すぎるんです。わずか30分以内。船の航行記録を確認すれば、物理的にそんな距離を移動できるかどうか──」


「……新人、そんな細かいとこ突いても無駄だぞ。事故だよ。死体が見つからないのは、潮に流されたからだ」


その言葉で、話は終わった。だが海堂の中では、何か小さな棘が残っていた。



夜。彼は一人で警察署の資料室にいた。港の潮流図、釣りポイントの傾向、そしてGPSデータを重ね合わせていく。


「通報地点の潮、時間的に逆潮……つまり、遺体は陸に向かわず、さらに沖へ──」


海堂の指が、地図のある一点で止まる。海底が急に深くなっている、自然の谷のような場所。周囲の潮も複雑で、海流のぶつかる“静寂帯”が形成されている。


「……ここなら、遺体は浮かない。風も波も、何も押し出さない」


証拠はない。理屈だけの仮説だ。だが、直感が告げていた。


──遺体は、この海底にある。

──そして誰かが、それを知っていた。


海堂は、誰にも告げず手帳にその地点を書き込んだ。

「事故として処理するなら、それでもいい。でも俺は、誤差の意味を探す」


その夜、波音が静かに地図の上を這っていた。




第二章:逆潮の先に


警察署の一角、通称「戦力外」扱いの空き部屋に、地図と気象資料が無造作に並べられている。そこに海堂はこもっていた。休憩時間をすべて注ぎ込み、昼も夜も、彼は紙とモニターに向かっていた。


モニターの前には、気象庁の海況データ、過去一週間分の潮流と風向きの解析結果。机には海底地形図。さらに漁業協同組合が出している魚群分布の年次データ。


──魚は死体の痕跡を知っている。


そう信じていた。魚が寄らない区域、それは“何かがある”証かもしれない。



海堂は、無許可で海底の異常を探る権限など持っていない。だから、足で稼ぐしかなかった。


その日、彼は私服でとある漁港に降り立った。県南部、波が穏やかで漁も盛んな入り江の村。釣り人の間では“当たり外れが極端”と言われるポイントでもある。


「すみません、ちょっとお話を伺いたくて……最近この辺で、網が変に引っかかったりってありましたか?」


漁協を何軒も回って、ようやく一人の老人が足を止めた。


「おまえ、警察か?」


「いえ、ただの……釣り好きな者です」


「嘘つけ。その目、波を信じてる目だ」


その老人の名は真壁源治。地元で五十年以上も海に出続けてきた、年季の入った老漁師だった。


「谷間のことを聞きに来たんだろ?」


「谷間?」


「“静かな谷”。流れが止まり、魚も沈黙する場所さ。ここにゃ、誰も近づかん」


真壁は、紙にざっとした地図を描いた。そこはまさに、海堂が地図上で目星をつけていた“逆潮の合流点”だった。


「網がちぎれることもある。変な塊が引っかかることもな。誰かが捨てた船かもしれねえって、みんな口にしねえけどな」


「その地点、見せてもらえますか?」


「おまえ、何を捜してる?」


海堂は一瞬迷ったが、静かに答えた。


「“落ちた人間が、落ちたくて落ちたわけじゃない”ことを証明したいんです」



翌日。海堂は真壁の小型漁船に便乗した。朝焼けの海は、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。


「海ってのはな、死んだものがいちばん静かに眠る場所なんだよ。生きてる人間が、無理に騒がない限りはな」


真壁はそう呟きながら、ロープに水中カメラを取り付け、深さ数百メートルの“谷”へと降ろしていく。


「魚群探知機は使わない。海堂、おまえの目を信じる。見張れ」


その日から数日間、彼らは毎朝同じ地点へ向かった。カメラを降ろし、映像を記録し、異常を探す──。


最初の三日は何も映らなかった。ただ、灰色の砂、沈殿した水草、波のない水底が、カメラのレンズを静かになぞった。


四日目、変化があった。カメラの向こうに、人工的な直線が映った。


それは、砂に半ば埋もれながらも、人工の塊があると告げていた。


コンクリート。


表面は波に削られ、苔に覆われていたが、あきらかに“不自然”な影があった。


海堂は思わず、呼吸を止めてモニターを見つめた。


「……いた」


海の底に、誰にも知られず眠る死体。その沈黙は、ようやく破られようとしていた。




第三章:沈黙する海


「これが……人間の……?」


カメラが映し出したコンクリートの塊。最初はただの“人工物”にすぎなかった。しかし角度を変えて確認するにつれ、それが人間の体形を型どった異形の塊であることが明白になった。


肩のような膨らみ。大腿部に相当する形。表面には割れ目が一つあり、そこから何かが微かに浮き出ていた。


「コンクリで……遺体を……」


海堂は言葉を失った。

同時に、彼の中に確かな怒りと、確信が生まれた。


──事故じゃない。

──これは、殺人だ。


だが、それは海堂一人の中だけの事実だった。



「遺体はまだ発見されていません。人工構造物らしきものが確認されただけです。確証には至りません」


「海堂、それを言いたいがために、本庁の会議に資料持って乗り込んできたのか?」


会議室の空気が凍る。上席の捜査一課長は、冷たい目を向けていた。


「しかも君、外部の協力者と勝手に捜索活動を行っている。監督責任の逸脱だ。地方署の新人が越権行為とはどういうつもりだ」


「ですが……あの海底には遺体が──!」


「それは君の“感想”だ。法的な証拠は?」


沈黙。


現場の映像も、物証もない。任意の捜索でしかなかった。


会議が終わると、海堂は廊下に立ち尽くした。制服のまま、拳を握りしめた。


──本当にやるなら、俺がやるしかない。

──証拠も、証人も、自分で探すしかない。


彼は再び真壁に連絡を取った。


「協力してもらえますか。正式な指示は下りませんでした。でも、俺は行きたい」


真壁は一言だけ答えた。


「……おまえ、ようやく“海の人間”になったな。明日、午前四時に出るぞ」



再び船の上。再び谷の上。


今度はカメラではなく、簡易の磁気探知器を使って調査を進めた。許可がなくても、漁業調査という名目でなら何とかなる。金属反応があれば、それは遺体を封じるコンクリの中に含まれた可能性がある金具や装飾品だ。


三度目の調査で、明確な反応が出た。


しかも、人間の身体位置に一致する高さに──“時計型の反応”がある。


「スマートウォッチ……?」


海堂は確信した。

犯人は用心していたが、取り外しを完全にはできていなかった。もしくは、遺体がつけていたのは防水非対応の旧型で、外すのを忘れていた。


「……位置記録が残っていれば、日付も時間も照合できる」


この小さな“電波の証明”が、すべてを変える。


「それが出てきた瞬間、事故の証明は消える。誰かが、落としたんだ」


静かな海の底で、沈黙していた“証拠”が今まさに、語ろうとしていた。




第四章:浮かび上がる嘘


海堂は、スマートウォッチの微弱な信号が“遺体の中にある”ことを確信していた。だがそれを表に出せば、またしても「証拠能力に欠ける」という壁にぶち当たる。今、彼に必要なのは“確実に、引き出すための一手”だった。


そこで、海堂は方針を変えた。

技術ではなく、人間を揺さぶる。心理を突く。



容疑者の名は藤村 聡。

事故当時の同行者であり、唯一の証言者。表向きは、友人を不運な海難事故で失った悲劇の目撃者。だが、海堂の目には違って見えていた。


事故当日の通報内容。通話の時間。声の冷静さ。SNSの投稿タイミング。そして、釣果の写真。


「“釣れた後に移動した”と語るには、移動の距離が大きすぎるんです」


海堂は、捜査員たちが聞き流していた供述書とGPSログを照らし合わせた。

友人が落ちたとされる海域と、写真の撮影場所。潮流の方向とスピード。いずれも一致しない。


──落ちた場所は、写真を撮った場所の“逆潮”にある。

──あの場所まで流されることは絶対にない。


だから、藤村の証言には虚偽がある。

だが、それを本人に突きつけても「記憶違いでした」と言われれば終わりだ。

決定的な“揺さぶり”が必要だった。


海堂は一計を案じた。



ある日、藤村のもとに警察から連絡が入った。


「捜索で引き揚げられた人工構造物から、電子機器が検出されました。詳細確認のため、話を伺いたい」


呼び出された藤村は、以前と同じように悲しげな顔で現れた。しかし、対面したのは本庁の刑事ではなく、あくまで“新人”の海堂だった。


「藤村さん。あの日のこと、もう一度確認させてください」


海堂はあくまで低姿勢を崩さなかった。被疑者を扱うのではなく、遺族の一員に語りかけるように。


「写真、残ってますよね。釣れた魚の」


「ああ、はい。……すごいのが釣れたから、記念に」


「位置情報、残ってるの、ご存じでした?」


藤村のまぶたが、一瞬だけピクリと動いた。だが表情は変えない。


「たしか、移動してから撮ったんだと思います」


「ですよね。ただ、移動距離が“通常の釣行ではまず考えられない”ほど長かったんです。……本当に、釣れてから移動したんでしょうか?」


沈黙が走る。


海堂は間を置かずに続けた。


「それと、船に残されていたスマートフォン。GPSのログに、途中で“停止”してる区間がありました」


「……バッテリーが切れてたんじゃ」


「違います。“機内モード”です。しかも、友人の方のスマートウォッチの記録と“ぴったり一致”してました」


藤村の頬が、わずかに引きつる。

だがまだ動かない。

だから海堂は──虚をついた。


「コンクリートの塊、引き揚げました。今、科学捜査で調べてます。もう時間の問題です」


実際には、まだ引き揚げていない。

だが“見つかっている”という事実だけで、心理の均衡は崩れる。


藤村の瞳が、揺れた。


「……なんで……なんで、あいつだけ……」


その瞬間だった。声が震え、沈黙の殻が割れ始めた。


「……俺は……ちゃんと助けようとしたんだよ。でも、無理だった。……あいつが、勝手に落ちたんだ……!」


崩れる供述。言い訳の連続。

それは事故を装おうとした“加害者”の、錯綜する焦りに他ならなかった。


海堂は黙って、録音機器を止めた。

証拠能力はなくても、この動揺は決定的な“端緒”になる。


あとは、本物の遺体を見つけるだけ。




最終章:静かなる証明


六月下旬、曇天の空の下。

海堂は、再びあの海に立っていた。

真壁の船の上、冷たい風が容赦なく頬を打つ。


前回得た磁気反応の座標。

藤村の供述と矛盾する位置。

そして、潮の流れから見て絶対に“流れ着くことのない”その海底。


ここにある。

――あのとき、藤村が「落ちた」と証言した場所とは真逆の方角に。


「ポイントまであと50メートル。……準備しろ」


真壁の声にうなずき、海堂は揚重装置の操作に入る。

簡易な小型クレーン。だが、引き上げられるのは最大で200kg程度。

もしコンクリート塊がそれを超えていれば、作業は失敗に終わる。


それでも、やるしかなかった。


「ロープ、張った。……沈めるぞ」


グラップルフック(かぎ爪)を投下し、磁気反応があったあたりの海底を探る。

数回、何も掛からない。

しかし──4回目、巻き上げたとき。


「……きた」


重い。水の抵抗ではない。

引き上げのワイヤーが、ギシリと軋んだ。


海堂は目を見開いた。

ロープの先に現れたのは、セメント灰色の異形な塊だった。


波に濡れ、岩のように見えるそれは、しかしどこか人間の体のように不自然な形をしていた。

半ば割れた表面の隙間から、白骨化した腕の一部が露出していた。


「……やったな」


真壁がつぶやく。

海堂は、無言で塊に近寄り、慎重に外装を調べる。


コンクリート内部に埋め込まれた、金属片。その一つが、スマートウォッチのバンドだった。

時計部分は破損していたが、データ記録チップは無事だった。


「日付、出るか?」


「……出ました。6月7日、午後3時17分──心拍停止とGPS途絶。しかもここです。釣果写真の位置じゃない」


「つまり……ここで死んだ」


海堂は静かにうなずいた。

新人である自分に、令状も、支援もなかった。

だが、自分の足と頭でここまで辿り着いた。


沈黙していた海が、ついに証言した。



数日後――


藤村 聡は、死体遺棄と殺人の容疑で逮捕された。

決め手となったのは、GPS記録と釣果写真の矛盾、そして捜査協力者が回収した“コンクリート塊に封じられた遺体”。


供述は曖昧で、殺意の有無は争点になったが、遺体の処理の方法や場所の選定はあまりにも計画的だった。


「事故」だったものが、「事件」になり、

「行方不明者」だった男に、「死者」としての名前が戻った。


それは、たった一人の新人刑事の執念によるものだった。



その日。海堂は、署の屋上から沈みかける夕日を眺めていた。

静かな風が、彼の髪を揺らしていた。


「海の上で、真実は沈むと思ったか。……甘いな。沈んだ真実ほど、浮かび上がる力は強い」


独り言のようにそう呟くと、海堂は背中越しに空を見上げた。

次の事件が、どこかで彼を呼んでいる気がした。


彼の中の疑問が沈黙することは、もうない。

海堂は、新人刑事としての一線を、確かに超えていた。





エピローグ:静かなる証明


警視庁の一角にある、古びた応接室。

午前10時、湿った梅雨の空気が窓のすりガラス越しに差し込んでいた。


新人刑事・海堂は、黙ってノートを広げていた。

目の前にいるのは、警部補・倉本誠。捜査一課所属、二十年選手のベテラン刑事だ。


「……で? お前ひとりで“遺体の場所”を割り出したって?」


倉本は半信半疑の目で、海堂のノートを覗き込んだ。


「はい。最初におかしいと感じたのは、釣果の写真でした」


海堂はページをめくる。

地図上にマーカーで書き込まれた“釣果の位置”と“通報位置”、そして潮流の方向が視覚的に示されていた。


「写真が撮られた時間帯と潮の流れを調べたんです。魚が釣れた場所と、通報した場所はおよそ3キロ以上離れていました。でも、当日は風も潮も西向きだった。……つまり、“そっちには流れない”。流れるはずがないんです」


倉本の眉が動いた。


「ってことは……藤村が通報した“落水位置”はウソだってことか」


「ええ。最初に殺して、重りを付けて沈めた場所は、釣果のあったポイント。

その後、藤村は場所を移動してから、“友人が落ちた”と偽の通報をした。

移動した理由も“釣れなくなったから”という自然な理由を用意して。完璧に見える話でした」


「……だが、GPSはウソをつかないってわけか」


「はい。釣果の写真に埋め込まれたメタデータが、“本当の死の場所”を教えてくれました」


海堂はさらにページを繰る。

次に示したのは、スマートウォッチとスマートフォンのログデータ。


「藤村は事故を装うために、スマート機器を被害者から外させて船内にしまわせていました。……でも、その機器が、内部の記録を“密かに残していた”」


「つまり、殺害時刻も……」


「わかります。心拍停止のログがある。それが、通報より数十分前だった」


倉本は目を細めて黙った。


「そして、被害者はコンクリートに詰められ、海底に沈められていた。ガスの発生を抑えるための工作。だが……」


「金属成分が混じっていたため、僅かな磁気反応を拾えました。海底の地形図と潮の当たり方を照合して、“人工物が溜まりやすい凹み”を割り出して、漁師の真壁さんに協力をお願いしました。……機材は民間の小型揚重装置だけです」


倉本はゆっくりと椅子に身を預け、天井を見上げるようにして言った。


「お前、警察学校で何学んだんだ? こんな捜査、ベテランでも思いつかねぇぞ」


「……たぶん、疑う癖だけは人より少し強く教わりました」


「“釣れた場所”を疑ったのか」


「はい。釣果って、嬉しいからつい撮ってしまう。……だからこそ、藤村は“本音”をその写真に残してしまった。

彼にとっての誤算は、写真の喜びが“真実”を写していたということです」


倉本は笑った。


「……その発想、いいな。お前、次も何かあったら俺に声かけろ。今度は“チーム”でやってやる」


海堂は少しだけ照れくさそうに、でもはっきりと頭を下げた。


「ありがとうございます、倉本さん。でも、できれば……誰も死なない事件がいいです」


外では、雨が止み始めていた。

梅雨の隙間から、わずかな光が差し込んでいる。


その光のように、

沈んだ真実は、海堂の手で引き上げられ、ようやく日のもとに晒されたのだった。


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