表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

第七話 優しい大人のいない場所

 夜の作業が終わると、俺はしばらく川から離れられずにいた。


 水音が、まるで“何かを押し流した音”に聞こえる。


 ナギが、作業場の明かりの隅にいた。着替えもせず、缶コーヒーを両手で持っている。


「…寒くないの?」


 俺が声をかけると、ナギはふっと笑った。


 それは、表情の乏しい彼女が見せた、ささやかな笑顔だった。


「寒いけど、ここがいちばん安心する」


「川が?」


「うん。川の音って落ち着く」


 俺は横に座った。川面を渡る風が、濡れた袖を撫でる。


「さっき、管理人に言った。“あそこにもう行きたくない”って」


「なんか言われた?」


「“じゃあ別の人に頼む”って。それだけ」


「別の人…?」


 ナギは答えず、川面をじっと見ていた。


「ねえ、伊吹」


「ん?」


「家って、帰る場所のことじゃないよね」


 唐突な問いだった。俺はすぐに回答しなかった。


「…じゃあ、何?」


「“安心して過ごせる場所”。そういうのが、家だと思ってた」


 ナギの声は、川の音にかき消されそうなくらい小さかった。


「家に帰りたくないって思ったの、いつからか覚えてない。でも、どの夜だったか、すごくはっきり覚えてる」


「…」


「外の方が安全だって思った夜。鍵を閉めないで出てった。ずっと歩いてた。どこに行くとかもなくて」


 俺は言葉を探した。でも、何も見つからず黙った。


「そのあと、いろんなとこ渡った。ネットカフェとか、シェアハウスとか…でも一番信用できなかったのは、優しくする大人だった」


「…なんで?」


 ナギは静かに笑った。でもその笑顔は、どこか壊れかけていた。


「“あの人は優しかった”って、言わされるのがいちばん嫌だったから」


 風が、テントのビニールを揺らした。遠くで発電機の唸る音がする。誰もこっちを見ていない。


「だからね、伊吹」


 ナギは俺の方を見ないまま、缶をそっと置いた。


「私、“守る”って言葉、ちょっと苦手なの」


「…言ってないよ」


「言いそうだった」


 俺は笑った。ナギも笑った。


「でもさ。もし、もしもだよ。もし全部終わって、どこかに帰れるなら」


「うん」


「私は、優しい大人のいない場所に行きたい」


 それは、ものすごく静かな願いだった。


 川の流れが少し強くなっていた。


 水音が、空白みたいに心の中をさらっていく。


 俺はポケットに入れた付箋のことを思い出していた。


“GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.”


 もしかしたら、ナギも、「もう戻れない場所」の住人なのかもしれない。


 それでも、俺はまだ「まだ戻れる人間」でいたかった。


 夜は、そのまま静かに過ぎていった。翌朝、ナギは姿を消していた。


 テントの中には、使いかけの煙草と、書きかけのメモが残されていた。


“外に出ただけ。探さないで。”


 だけど俺は分かっていた。彼女は探してほしくないんじゃない。


 もう、傷つきたくなかっただけなんだ。


 俺はその紙を折り、そっと胸ポケットにしまった。


 ちょうど、あの付箋の隣に重ねるようにして。


 その日、川は少し濁っていた。


 まるで、何かの気配が水の中に混ざっているようだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ