第七話 優しい大人のいない場所
夜の作業が終わると、俺はしばらく川から離れられずにいた。
水音が、まるで“何かを押し流した音”に聞こえる。
ナギが、作業場の明かりの隅にいた。着替えもせず、缶コーヒーを両手で持っている。
「…寒くないの?」
俺が声をかけると、ナギはふっと笑った。
それは、表情の乏しい彼女が見せた、ささやかな笑顔だった。
「寒いけど、ここがいちばん安心する」
「川が?」
「うん。川の音って落ち着く」
俺は横に座った。川面を渡る風が、濡れた袖を撫でる。
「さっき、管理人に言った。“あそこにもう行きたくない”って」
「なんか言われた?」
「“じゃあ別の人に頼む”って。それだけ」
「別の人…?」
ナギは答えず、川面をじっと見ていた。
「ねえ、伊吹」
「ん?」
「家って、帰る場所のことじゃないよね」
唐突な問いだった。俺はすぐに回答しなかった。
「…じゃあ、何?」
「“安心して過ごせる場所”。そういうのが、家だと思ってた」
ナギの声は、川の音にかき消されそうなくらい小さかった。
「家に帰りたくないって思ったの、いつからか覚えてない。でも、どの夜だったか、すごくはっきり覚えてる」
「…」
「外の方が安全だって思った夜。鍵を閉めないで出てった。ずっと歩いてた。どこに行くとかもなくて」
俺は言葉を探した。でも、何も見つからず黙った。
「そのあと、いろんなとこ渡った。ネットカフェとか、シェアハウスとか…でも一番信用できなかったのは、優しくする大人だった」
「…なんで?」
ナギは静かに笑った。でもその笑顔は、どこか壊れかけていた。
「“あの人は優しかった”って、言わされるのがいちばん嫌だったから」
風が、テントのビニールを揺らした。遠くで発電機の唸る音がする。誰もこっちを見ていない。
「だからね、伊吹」
ナギは俺の方を見ないまま、缶をそっと置いた。
「私、“守る”って言葉、ちょっと苦手なの」
「…言ってないよ」
「言いそうだった」
俺は笑った。ナギも笑った。
「でもさ。もし、もしもだよ。もし全部終わって、どこかに帰れるなら」
「うん」
「私は、優しい大人のいない場所に行きたい」
それは、ものすごく静かな願いだった。
川の流れが少し強くなっていた。
水音が、空白みたいに心の中をさらっていく。
俺はポケットに入れた付箋のことを思い出していた。
“GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.”
もしかしたら、ナギも、「もう戻れない場所」の住人なのかもしれない。
それでも、俺はまだ「まだ戻れる人間」でいたかった。
夜は、そのまま静かに過ぎていった。翌朝、ナギは姿を消していた。
テントの中には、使いかけの煙草と、書きかけのメモが残されていた。
“外に出ただけ。探さないで。”
だけど俺は分かっていた。彼女は探してほしくないんじゃない。
もう、傷つきたくなかっただけなんだ。
俺はその紙を折り、そっと胸ポケットにしまった。
ちょうど、あの付箋の隣に重ねるようにして。
その日、川は少し濁っていた。
まるで、何かの気配が水の中に混ざっているようだった。