第六話 荷物とラベル
翌朝、管理人が俺の名を呼んだ。
「伊吹。今日、川下の保管スペースに資材を運んどいてくれ」
タブレットをいじりながら、目を合わせることはなかった。
「昨日の小屋な。中の在庫、軽く整理もしといて。発泡とパック分けて、置き場を整える感じで」
「俺が、ひとりで?」
「他のスタッフも入ってるから問題ないよ。あそこ、正式に拠点化するんだと。“会社”からの通達で、物流ルートを見直してるんだってさ」
“会社”。その単語だけが浮き上がって聞こえた。
どこの会社か、何の名義か。詮索するだけ無意味だと、もう分かっている。
「鍵は?」
「最初から開けっ放しだよ。監視カメラあるし、問題ないって」
管理人は微笑んだ。だが、その目には、何も映っていなかった。
テントを出ると、杉田が缶コーヒー片手に立っていた。
「また、“あそこ”か」
「うん。資材運びって」
「……昨日、何か見たろ」
「何もないよ」
視線をそらした瞬間、杉田が小さく息を吐いた。
「嘘つくとき、まばたきが増えるぞ」
それが忠告だったのか、ただの独り言だったのか。俺には判断できなかった。
仮設歩道を抜けると、ナギがしゃがんでスニーカーの泥を落としていた。
「また行くの?」
「ああ」
ナギは立ち上がり、泥をぬぐった手をジーンズで拭き取る。
「誰かに行き先、伝えてある?」
「……あんたには言った」
「それじゃ足りない」
短い沈黙が流れたあと、彼女がぽつりとつぶやいた。
「昨日、夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「川に白い影がいくつも流れててさ。声を出そうとしても、何も言えなくて。ただ、押し流されていくのを見てるだけで、すごく、寒かった」
ナギはフードを深くかぶった。
俺は黙ってうなずいた。ただ、それだけだった。
川下の小屋は、昨日よりも“施設”に近づいていた。
ソーラーパネルが屋根に固定され、出入口にはラベル付きの収納ケースが整然と並んでいる。
その静謐さが、かえって不気味だった。
ここで行われているのは、狂気ではない。予定通りの業務。予定通りの手続き。
冷蔵室の中、積み上がった発泡ケース。そのうちのひとつ、角に貼られたバーコードが剥がれかけていた。
そこに黒インクで記されていた手書きの略号「I.S」。
かすれた筆跡と不揃いな線が、生々しい“誰かの手”を連想させた。印刷物にはない、感触。
喉がつまる。
管理票、バーコード、在庫リスト。すべてが整っている。すべてが“正常”な業務の顔をしている。
俺の感覚の方が、異常なのかもしれない。
管理人から渡されたスマホが震えた。
《物流車到着予定:14:30》
配送先コード:N-ZX-27 / 担当者:No Record
送り主の名は「KRM」。
“管理人”より、さらに上の誰かがこの組織にはいる。
俺の背中を、薄氷が這うように冷気が走った。
帰り道、テント裏でナギが煙草を吸っていた。
彼女が煙草を口にしているのを見るのは、初めてだった。
「帰ってきたんだ」
「ただいま」
火を缶に押し付けて潰す手が震えていた。
「帰れるうちは、帰らなきゃ」
「…俺はまだここにいるよ」
「でもね。名前が書かれたら、終わりなんだよ」
「箱のラベルのことか」
「見たでしょ? ここでは、人が“荷物”になるの」
ナギは真っ直ぐこちらを見ていた。
「でも、荷物が自分で箱を閉じることだってある。選べるうちは、まだいいよ」
その夜、川の音はどこか遠く、くぐもっていた。
胸ポケットの中、付箋は湿った布のように重みを増していた。
GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.
俺はまだ戻れるのか。
それとも、もうすでに、誰かに分類され、ラベルを貼られた“何か”になっているのか。