表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第五話 冷蔵所

 中洲へ向かう道は、川沿いの仮設歩道を外れてすぐ、藪とぬかるみに呑まれていた。


 昨日まで一緒に作業していた面々の声が、背後でしだいに遠ざかっていく。


 ここは本来、誰も入らない場所だ。


 けれど俺は、ノートに描かれた地図の、細い赤線をなぞるようにして足を進めた。ぬかるみに踏み込むたび、足元の感覚が鈍くなっていく。


 木々の隙間から差す光に照らされ、地面にはうっすらと踏みならされた痕跡。長靴の跡があった。


 ここを、誰かが使っていた。


 やがて水音が近づき、森が途切れる。


 川本流と交わるその場所に、ぽつんと掘っ立て小屋のような構造物が立っていた。トタン屋根、コンクリの基礎。錆びついたドアに鍵はかかっていない。


 俺は扉の前で一度、深く息を吐いた。


 きぃ、と音を立てて金属の扉が開く。


 中は思ったよりも広く、打ちっぱなしの壁とコンクリ床が、冷たい空気を保っていた。照明はないが、壁の隙間から差す薄明かりが床を斑に照らしている。


 壁際には金属のテーブルと冷蔵庫、発泡スチロールの箱。


 そして、その奥に、冷蔵室。


 「冷蔵所」とノートに記された印の場所だった。


 思わず拳を握っていた。


 手の中で、汗に濡れた付箋が貼りついている。


 なぜ、あいつはここを目指したのか。


 俺はその答えを、自分の目で確かめたかった。


 重たい扉を引くと、冷気が顔を撫でた。


 中には、白い発泡のケースがいくつも並んでいた。


 その片隅に、一つだけ異なる箱があった。小さく、そして丁寧すぎるほど封がされている。


 俺がその封を剥がしかけた時、背後で物音がした。


 がさっ。


 振り返る。誰もいない。けれど、風では開かないはずの扉が、わずかに揺れていた。


 胸の鼓動が、急に耳に響きはじめる。


 何かがいる。気配ではない。突き刺さるような視線を感じた。


 そのとき、小箱の隙間から、何かが床に転がり落ちた。


 乾いた音。


 見下ろすと、透明なビニールの中に、小さな“端部”が封じられていた。干からびて、青白く、爪のような突起が不自然な角度でついている。


 何かの指、か?


 人間のものとは言いきれなかった。ただ、目がそう認識してしまう形をしていた。


 脳が拒絶する。


 視界の隅で、何かが動いたような錯覚と同時に、俺は冷蔵庫を飛び出し、外へと駆け出した。


 視界が滲み、上手く走れない。


 風が吹いていた。濁った川の匂いを巻き上げながら、森を揺らしていた。


 振り返ると、扉はぴたりと閉じていた。まるで、最初から誰の出入りもなかったように。


 川辺で、俺は膝に手をついてしばらく呼吸を整えた。


 夕陽が水面を金色に染めている。静かな川の流れが、すべての記憶を洗い流そうとしているようだった。


 だが、冷気の中で見た“あれ”の印象だけは、こびりついて離れなかった。


 なぜ、あんな場所にあんなものが?


 発泡の箱は“保管”されていた。誰かが意図して封じたのだ。

 

 足元の砂利を踏みしめ、俺は仮設歩道へ戻る道をたどった。


 森を抜けると、湿った土の匂いが鼻を刺す。


 テントの灯りが見え始めたころ、エンジン音が聞こえた。重機ではない。もっと小さく、低く、唸るような。バンかトラックの音。


 俺は咄嗟に藪に身を伏せた。


 音は、あの冷蔵所の方向へ向かっていた。


 “運搬”か?


 車の音が遠ざかるまで待ち、それから俺はテントへと戻った。


 中では、ナギがひとり、カップ麺を啜っていた。


「遅かったね。川下まで?」


「ああ……ちょっと、迷ってさ」


 ナギは俺の顔をちらと見て、すぐに目を逸らした。


 けれど、その一瞬に何かを読み取ったようだった。


 彼女は麺のふたを静かに閉じ、スプーンを置いた。


「…ねえ。何か、見たの?」


 その声は、わずかに震えていた。


「知らない方がいいことも、あるだろ」


 俺がそう返すと、ナギはただ、まっすぐ俺を見ていた。


「知っちゃったら、もう戻れないんだよ。そういうのって、あるから」


 その口調は、妙に重かった。


「お前も、何かあったのか?」


 俺が尋ねると、ナギはかすかに笑った。だが、目は笑っていなかった。


「この前、一度だけ“冷蔵所が稼働しているかの確認”を頼まれたことがある。管理人からね。『ちゃんと動いているか見てきてくれ』って」


「…で、行ったのか?」


「行った。でも、開けなかった。開けたら、何かが終わる気がして」


 それ以上、彼女は何も言わなかった。


 俺たちは黙ったまま、川の音に耳を傾けていた。


 その夜、夢を見た。


 濁った川を、白く細い何かが、いくつも流れてくる夢だった。


 そして、向こう岸に、ミャンマーが立っていた。あの掘っ立て小屋の前で。


 彼は何かを言おうとしていたが、声は届かない。


 ただ、手に掲げられたノートの付箋だけが、やけに鮮明だった。


 GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.


 風が吹いた。目が覚めると、テントの中は朝焼けに染まっていた。


 管理人の声が、どこかで何かの作業指示をする声が聞こえた。


 たぶん、ここは“金のためだけ”では終われない場所だ。


 俺にはまだ、帰るべき場所がある。


 けれど、この川の底には、戻れなくなった誰かたちが、封じられたまま沈んでいる。


 胸ポケットの中で、あの付箋は今もじっと、川の音を吸い込んでいる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ