第五話 冷蔵所
中洲へ向かう道は、川沿いの仮設歩道を外れてすぐ、藪とぬかるみに呑まれていた。
昨日まで一緒に作業していた面々の声が、背後でしだいに遠ざかっていく。
ここは本来、誰も入らない場所だ。
けれど俺は、ノートに描かれた地図の、細い赤線をなぞるようにして足を進めた。ぬかるみに踏み込むたび、足元の感覚が鈍くなっていく。
木々の隙間から差す光に照らされ、地面にはうっすらと踏みならされた痕跡。長靴の跡があった。
ここを、誰かが使っていた。
やがて水音が近づき、森が途切れる。
川本流と交わるその場所に、ぽつんと掘っ立て小屋のような構造物が立っていた。トタン屋根、コンクリの基礎。錆びついたドアに鍵はかかっていない。
俺は扉の前で一度、深く息を吐いた。
きぃ、と音を立てて金属の扉が開く。
中は思ったよりも広く、打ちっぱなしの壁とコンクリ床が、冷たい空気を保っていた。照明はないが、壁の隙間から差す薄明かりが床を斑に照らしている。
壁際には金属のテーブルと冷蔵庫、発泡スチロールの箱。
そして、その奥に、冷蔵室。
「冷蔵所」とノートに記された印の場所だった。
思わず拳を握っていた。
手の中で、汗に濡れた付箋が貼りついている。
なぜ、あいつはここを目指したのか。
俺はその答えを、自分の目で確かめたかった。
重たい扉を引くと、冷気が顔を撫でた。
中には、白い発泡のケースがいくつも並んでいた。
その片隅に、一つだけ異なる箱があった。小さく、そして丁寧すぎるほど封がされている。
俺がその封を剥がしかけた時、背後で物音がした。
がさっ。
振り返る。誰もいない。けれど、風では開かないはずの扉が、わずかに揺れていた。
胸の鼓動が、急に耳に響きはじめる。
何かがいる。気配ではない。突き刺さるような視線を感じた。
そのとき、小箱の隙間から、何かが床に転がり落ちた。
乾いた音。
見下ろすと、透明なビニールの中に、小さな“端部”が封じられていた。干からびて、青白く、爪のような突起が不自然な角度でついている。
何かの指、か?
人間のものとは言いきれなかった。ただ、目がそう認識してしまう形をしていた。
脳が拒絶する。
視界の隅で、何かが動いたような錯覚と同時に、俺は冷蔵庫を飛び出し、外へと駆け出した。
視界が滲み、上手く走れない。
風が吹いていた。濁った川の匂いを巻き上げながら、森を揺らしていた。
振り返ると、扉はぴたりと閉じていた。まるで、最初から誰の出入りもなかったように。
川辺で、俺は膝に手をついてしばらく呼吸を整えた。
夕陽が水面を金色に染めている。静かな川の流れが、すべての記憶を洗い流そうとしているようだった。
だが、冷気の中で見た“あれ”の印象だけは、こびりついて離れなかった。
なぜ、あんな場所にあんなものが?
発泡の箱は“保管”されていた。誰かが意図して封じたのだ。
足元の砂利を踏みしめ、俺は仮設歩道へ戻る道をたどった。
森を抜けると、湿った土の匂いが鼻を刺す。
テントの灯りが見え始めたころ、エンジン音が聞こえた。重機ではない。もっと小さく、低く、唸るような。バンかトラックの音。
俺は咄嗟に藪に身を伏せた。
音は、あの冷蔵所の方向へ向かっていた。
“運搬”か?
車の音が遠ざかるまで待ち、それから俺はテントへと戻った。
中では、ナギがひとり、カップ麺を啜っていた。
「遅かったね。川下まで?」
「ああ……ちょっと、迷ってさ」
ナギは俺の顔をちらと見て、すぐに目を逸らした。
けれど、その一瞬に何かを読み取ったようだった。
彼女は麺のふたを静かに閉じ、スプーンを置いた。
「…ねえ。何か、見たの?」
その声は、わずかに震えていた。
「知らない方がいいことも、あるだろ」
俺がそう返すと、ナギはただ、まっすぐ俺を見ていた。
「知っちゃったら、もう戻れないんだよ。そういうのって、あるから」
その口調は、妙に重かった。
「お前も、何かあったのか?」
俺が尋ねると、ナギはかすかに笑った。だが、目は笑っていなかった。
「この前、一度だけ“冷蔵所が稼働しているかの確認”を頼まれたことがある。管理人からね。『ちゃんと動いているか見てきてくれ』って」
「…で、行ったのか?」
「行った。でも、開けなかった。開けたら、何かが終わる気がして」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
俺たちは黙ったまま、川の音に耳を傾けていた。
その夜、夢を見た。
濁った川を、白く細い何かが、いくつも流れてくる夢だった。
そして、向こう岸に、ミャンマーが立っていた。あの掘っ立て小屋の前で。
彼は何かを言おうとしていたが、声は届かない。
ただ、手に掲げられたノートの付箋だけが、やけに鮮明だった。
GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.
風が吹いた。目が覚めると、テントの中は朝焼けに染まっていた。
管理人の声が、どこかで何かの作業指示をする声が聞こえた。
たぶん、ここは“金のためだけ”では終われない場所だ。
俺にはまだ、帰るべき場所がある。
けれど、この川の底には、戻れなくなった誰かたちが、封じられたまま沈んでいる。
胸ポケットの中で、あの付箋は今もじっと、川の音を吸い込んでいる。