第四話 残されたノート
次の日は、朝から土砂降りだった。
ようやく止んだのは日も暮れかけた頃で、地面は酷くぬかるんでいた。
夜の漁の準備をしていると、ふと気づく。
“ミャンマー”の姿が見えない。
小柄で猫背の、寡黙なあいつ。
いつも開始時刻には無言でヘッドライトを点け、川に最初に入っていくのが常だった。
「ミャンマーは?」
俺は杉田に聞いた。
「…ああ。そういや、朝から見てねぇな」
杉田の声は、わずかに低かった。
「体調、崩したとか?」
「さぁな。聞いてねぇ。でも、まぁ…たまにあるから」
「たまに?」
杉田は黙って川の方を見た。
川の音が強くなった気がした。風はないのに、葉が鳴った。
「何人か、急にいなくなるやつがいるんだよ。前の年にもいた。前触れなく、ふっと」
「やめたんですか?」
「…どうだろうな。やめたって話は、聞いてない」
言葉の意味を噛み砕く間もなく、作業の開始を告げるサイレンが鳴った。
皆が持ち場へと散っていく。無言で、決まった動きで。
俺も腰に網を下げて、川へと入る。
水温は昨日と同じ8度台。胴長を通して、冷たさが刺すように伝わってくる。
川面に浮かぶ光の中、俺は思った。
ミャンマーは、ただ姿が見えないというだけではない。
“いなくなった”のだ。そこには、気配すら残っていなかった。
その夜、俺の網には一匹のシラスウナギもかからなかった。
ーー
翌朝、川辺の仮設休憩所に戻ると、ミャンマーの荷物がそのまま残っていた。
テントの端に置かれた、青いスポーツバッグ。
いつもと変わらない風景のはずなのに、そこだけが取り残されたように感じられた。
誰も触れようとしなかった。
まるで、はじめから無かったかのように、皆が視線を逸らす。
管理人は何も言わなかった。いつものようにタブレットをいじり、今日の作業割りを読み上げただけだった。
作業が終わった頃、俺は休憩所に戻り、そっとそのバッグに目をやった。
テントの中は、昼間でも薄暗い。
川から上がった濡れた長靴の匂い、ストーブの煤けた匂いが混じる。
皆が川に出ている隙、俺はそっと青いスポーツバッグの前にしゃがんだ。
誰もいないはずなのに、背後で何かが軋む音がした。
風でテントのシートが揺れるだけ、そう思い込む。
ファスナーを引く。
乾いた埃の匂いが、ふっと立ちのぼった。
潮と油と古い布、そしてわずかに、香辛料のような
異国の空気。
中には、予備の下着、くたびれたTシャツ、巻かれた軍手、空のペットボトルが無造作に詰め込まれている。
その奥に、ノートが一冊。
表紙は色褪せ、見慣れない文字が鉛筆でびっしりと書かれていた。
ページをめくる。
ビルマ語だろう。意味は分からないが、滑らかな筆跡と、日付や数字の列が繰り返されている。
「1kg=4200000」
「4人」
「あと2週」
数字の羅列の合間に、小さな地図のようなものがあった。
川の流れ、中洲、物置、冷蔵所らしきマーク。
その先に、点線で囲まれた“場所”が描かれている。
点線の内側、貼られた一枚の付箋。
そこには、乱れた筆跡でこう書かれていた。
“GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.”
胸がじわりと冷たくなった。
このノートは、ただの記録じゃない。
俺は反射的に付箋をノートから剥がし、胸ポケットにしまった。
彼が、“消される前”に残した、最後のメッセージなのだろうか。
ノートを戻して、バッグをそっと元通りに閉じる。
立ち上がると、テントの外で低い声が聞こえた気がした。
「…見たか?」
思わず振り返ったが、そこには誰もいなかった。
川の音が強くなっている。
夕暮れの空の下、風が重く吹いている。
それから数日、現場は何も変わらないふりをして続いた。
ミャンマーの荷物は片隅に置かれたまま、誰も触れない。
管理人は淡々と作業割りを読み上げ、杉田もナギも、そのことには一切言及しなかった。
けれど、夜ごと川に入るたび、俺の中の“違和感”は少しずつ大きくなっていく。
どうして、誰も「いなくなった」ことを気にしないんだろう。
俺がノートを調べたことに、もしかしたら誰か気づいているのかもしれない。
テントの空気はどこか張りつめ、互いの距離が広がっていく。
ある晩、仕事を終えて、休憩所の外でひとりで缶ジュースを飲んでいると、杉田が隣に来た。
「眠れねぇか」
「…なんか、気持ち悪いんですよね。みんな普通にしてるけど」
杉田は煙草の煙を吐き出し、低く言った。
「ここは“そういう場所”なんだよ」
「でも、誰も“何があったか”言わないんですね」
静かな沈黙。
その沈黙の向こう、ナギが仮設トイレの脇でじっと川を見ている姿が目に入った。
ふと、彼女と目が合った気がしたが、すぐに視線を外された。
その晩、寝つけずにいた俺は、ノートの地図を思い出した。点線で囲まれた“あの場所”。
“GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.”
ここで働き始めたときは、「金のためだけだ」と割り切ることに何の罪悪感もなかった。
だが、今は、そう思えなくなっている。
消えた人間。誰も語らない出来事。
“金のためだけ”に流されていく自分。
でも、川のどこかには、流されないで踏みとどまろうとした誰かの跡が、確かに残っている。
翌朝、思い立ったように俺は管理人のところへ行った。
「今日、時間ある時に川下まで道具を運びます。…中洲の方に」
管理人は一瞬だけ、表情を動かした。
「危ないぞ、あそこは。流れが強い。用がないなら、近づくな」
その口ぶりは、警告のようでもあり、逆に「見られたくない」ものがあるような、微妙な抑揚を帯びていた。
「気をつけます」
人間は、知らないことを“危険”だと直感する。でも、人間は、それを見ずにはいられない動物だ。
俺はポケットにしまった付箋の存在を確かめながら、点線の向こうへ、足を踏み出した。