第三話 川の野営地
川に戻ったのは、夕方五時すぎだった。
日が落ちるとすぐに冷え込む。空はまだ明るいのに、川面はもう夜の顔をしていた。
管理人は車のボンネットに腰をかけ、タブレットをいじっていた。俺が軽バンから降りると、目線だけを寄こした。
「問題なかったか?」
「はい。冷蔵所に届けて、伝票ももらいました」
「ああ、確認した。データ、共有されてるから」
あっさりとした確認だった。
俺が手渡した“百二十万円相当の白いダイヤ”も、もう管理人の中ではただの数値に変わっているようだった。
「今日は戻って川に入れ。明日も運搬やらせるかは、こっちで決める」
命令のような言い方だったが、不思議と抵抗はなかった。
この場では、命令と依頼の区別が薄れていた。
作業着に着替えて川に向かうと、杉田さんが手を振った。
「戻ったか。どんな感じだった?」
「…意外と“ちゃんとして”ましたね、冷蔵所」
「ふーん、ならまだいいほうかもな」
杉田は濁したように言った。
夜も更けて、作業を終えた俺達は、拠点戻った。
仮設テントの薄明かりの下、みんな黙って飯を食う。
アルミのコンロの上にやかんが置かれ、弱い火が小さく鳴っていた。
弁当だけじゃ足りなかったので、コンビニで買ったカップ麺にお湯を注いでいると、フードを被った少女、ナギが、そっと俺の隣に腰を下ろした。
ナギは多くを語らないが、どうやら複雑な家庭環境から逃れるようにここに辿りついたらしい。一人で音楽を聴いているところをよく見る。
お互い言葉を交わすでもなく、ただ湯気の向こうで顔が曇って見える。
「寒いね」
小さな声でナギが言った。
「ああ、寒い」
返事をしたつもりなのに、思ったより声が掠れていた。
その向こう、杉田さんは缶コーヒーを手にしている。
彼は、静かに川の方を見ていた。
「仕事、慣れたか」
杉田さんがぼそりと聞いてきた。
「まあ、なんとか」
「そっか」
それから、沈黙が流れた。
やかんがコトリと音を立てる。誰も何も言わないが、その沈黙が居心地悪いわけじゃない。
夜の川風がテントのビニールを鳴らす。
外の気温はさらに下がっている。俺たちの手だけが、わずかな熱を求めてカップ麺やコーヒーに触れていた。
ミャンマーが、端の方でノートに何かを書いている。
日本語じゃない文字。何日も会話をしたことはないが、作業中は不思議と呼吸が合う。
気がつくと、ナギはスマートフォンのカメラを覗いていた。
「何撮るの?」と聞こうとして、やめた。彼女はただ、外の黒い川面にレンズを向けている。
管理人がテントの入口に現れる。
「持ち場に忘れ物ないか、確認しろよ」
はい、とみんなが返事をした。
管理人は淡々と名簿にチェックを入れる。
その顔に感情はなく、まるで川の流れを読む水鳥のようだと思った。
「明日も同じ時間。遅れるようなら連絡しろ」
指示はそれだけ。誰も質問しない。
夜が更けていく。
自分の手のひらが、少しだけ温かいのが嬉しかった。
ふと、川の方を見た。
水音が少しだけ強くなっていた。
その音の中に、誰かの声が混じっていた気がしたけれど、それが誰のものかは、分からなかった。