第二話 運搬の仕事
朝方、管理人のワゴンが川辺に現れたとき、俺はすでに胴長を脱ぎ、凍えた足を車のヒーターであたためていた。
「伊吹、お前な。今日はあっち」
窓を下ろした管理人は、顎で空のクーラーボックスを指した。運搬班への異動。
昨日の杉田の言葉が嘘じゃなかったことを、淡々と実感する。
助手席に積まれた名簿の一番上に、俺の名前があった。
「これ、冷蔵所。ナビ入れてあるから」
スマートフォンと、見慣れない地図アプリの画面。
運搬車は白い軽バン。車内には簡易冷蔵庫がひとつ。
シラスウナギを詰めたパックが、すでに十数個積まれていた。
「納品先の人間には、余計なこと言うなよ」
そう言って、管理人は笑った。
たぶん、冗談のつもりだったのだろう。
けれど、笑い声には“沈黙を強いる響き”があった。
ヒーターをつけていても、なぜかハンドルを握る指先の冷えは取れなかった。
ナビ通りに山道を下ると、15分ほどで舗装された国道に出た。
川と森に囲まれていた世界から、急に現実に引き戻される。
コンビニ。農協。シャッターの下りたパチンコ屋。
そのどれもが、川辺の“仕事”とつながっているとは思えなかった。
だが、俺はその中に、冷蔵所へ向かう白い軽バンを走らせていた。
冷蔵所は、思ったより“ちゃんとして”いた。
白い外壁。私有地の立て看板。プレハブではなく、冷蔵物流会社の支所らしい建物だった。
扉の前に立つと、自動センサーでシャッターがゆっくり開く。冷気が肌を刺した。
中にいたのは、作業着姿の男だった。無表情で、無言。
パックを渡すと、彼はひとつひとつ中身を確認し、バーコードリーダーで読み取っていく。
「お疲れさん。伝票は、そっちの端末に」
初めて声を発したその瞬間、俺はようやく「人間と喋った」という感覚を思い出した。
端末にサインをすると、数字が浮かぶ。
『回収分:合計¥1,225,000』
…一晩で、百二十万円。
それを運んできたのは、俺ひとりの軽バン。
何も武装もなく。何の監視もなく。
「ありがとうございました」とだけ告げて、俺はバンに乗り込み、川へ戻った。
帰り道、ラジオをつけると、雑音混じりの声が流れてきた。
地元局の天気予報と、夜の漁の話。
「……今日の高知県西部は、曇りのち雨。冷たい雨が降るので、うなぎ漁の方は、注意が必要ですね」
“うなぎ漁の方”。
それが、俺たちのことなのか、それとも正規の漁師たちなのか。わからなかった。
ただ、エンジンの振動がいつもより不安定に思えた。
それが車のせいなのか、自分の鼓動なのかも、もう分からなかった。