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第一話 夜の川に立つ

 川の音は、昼よりも夜の方が大きく聞こえる。


 それは、耳に入る音の種類が減るからだと思っていたけれど、ここに来て三日目、ようやくわかった。


 この川は、夜になると飲み込んできた「誰かの声」で喋り始めるのだ。


 ガサッ、と右手の葦が揺れた。


 小柄な影がこちらに歩いてくる。ヘッドライトに照らされて、濡れた防水ジャケットの光沢が浮かぶ。


「出てたぞ」


 そう言って、ビニールの簡易網を持ち上げたのは“杉田さん”だ。


 本名かどうかはわからない。


「…すげぇ。こっちはゼロっす」


「まあ、最初はな。俺も去年は見えなくて焦った」


 杉田は笑ったが、その目は笑っていなかった。


 30代後半くらい。細身で、顎に傷がある。誰よりも手際がよく、口数が少ない男だった。


 たまにぽつりと「昔の仕事の方がマシだった」と呟く。何の“仕事”なのかは、訊けなかった。


 ビニールの袋の中で、シラスウナギが泳いでいる。


 まるでただの水の揺らぎみたいに、ぬらりとした白い線がうごめく。


 つまようじほどの半透明な稚魚。1匹わずか5グラム。けれど、1キロに達すれば430万円の値がつくこともある。“白いダイヤ”ー誰かが、そう呼んだ。


 …けれど、初めて川に立った夜、その値段のことなんて、頭から抜け落ちていた。


 ただ、寒かった。


 底冷えする水。膝を刺す冷気。胴長のゴムを越えて、じわじわと水が染み込んでくる感覚


「今日、あんまり入ってねぇな」


 後ろから、別の声。


 小柄で猫背の青年。あだ名は“ミャンマー”だった。名乗らなかったせいで、出身地で呼ばれるようになった。


 彼は何も言わずに、静かに水面を見ていた。


 俺は、うなぎの動きよりも、彼の顔を見ていた。


 無表情。でも目だけが、どこか怯えている。


 聞いた話では、ビザが切れてるらしい。密漁がバレると、国外退去。それだけじゃない、罰金、拘留。


 だけど、彼には「ここで稼ぐしかない理由」があった。皆、そうだ。俺も。


 …そんな俺たちを、遠くから照らす光がある。


 中洲の先、車のハイビーム。あれが“管理人”の車だ。


 斡旋会社の社員という触れ込みだが、本当の役職は誰にも分からない。夜の作業はすべて彼を通して始まる。道具の貸し出し、稚魚の回収、報酬の管理。


 俺たちの一歩先にいる存在。


 だが、決して川には入らない。


「伊吹」


 杉田が不意に言った。


「明日は、川じゃなくて“運搬”やれってさ」


「え……運搬?」


「聞いてねぇのか? 採るだけじゃねぇ。回す方もいるんだよ。中継して、冷蔵所まで」


 運搬。つまり、川以外での作業。


 冷たい水からは逃れられる。けれど、それは“次の段階”の入口でもあった。


「大丈夫だ。思ったほど難しくはない」


 杉田は言った。


 そう、きっと“最初は”そうなのだ。


 ただのバイト。期間限定。そう信じていた。


 でも、この川の闇は、少しずつ俺の“境界線”を曖昧にしていった。


 何が仕事で、何が犯罪か。何が正しくて、何が正しくないのか。

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