第九話 出口の話
夜。灯りが落ちると、テントの中に残ったのは、ストーブがときおり薪を割るように弾ける音だけだった。
杉田は缶コーヒーを手に、無言で火を見ていた。俺も黙って隣に腰を下ろした。しばらく、何も言わずに過ぎる時間があった。
やがて杉田が口を開いた。
「…お前、ナギのこと、どう思ってた?」
火の音が少しだけ大きくなったように感じた。
「守りたいとか、思ってたか?」
「…わかりません。でも、見捨てたくはなかった」
杉田は小さくうなずいた。
「まあな。あいつはずっと、見捨てられ続けてきたからな」
「何か、知ってるんですか?」
「あいつが“ここ”に来る前のことを、少しな」
テントの外では、風が小さく唸っていた。
「この川には、出口がある。物理的な話じゃない。“抜け道”だ。制度の外に落ちた人間が生き残るルート」
「…それ、ナギが探してたものですか?」
「あいつは、見つける前に超えちまった」
杉田の口調が、ほんの少しだけ重くなった。
「一線を超えた人間がどうなるか知ってるか?」
俺は首を振った。
「“消される”って思うか? 違う。ここでは、“物にされる”んだよ。ラベルを貼って、管理して、どこかに運ぶ。名前も顔もないやつらがやってる。お前も、俺も、ナギも。名前じゃなく、数字で処理される」
「ここでは、人間を“ラベル付きの荷物”にする。発送待ちの在庫みたいにな」
「“ZX27”ってコードも、ですか?」
「そう。あれは“物流コード”じゃない。“人間の取り扱い指示コード”だよ」
寒気が背骨を這った。
「昔、俺が知る限り一人だけ、この場所から抜けたやつがいた」
「…ほんとですか?」
「ああ。仲間の一人だった。ミャンマーみたいに、技能実習で来て、逃げてきて、ここで“働いて”、そして“逃げた”。奇跡だったよ。…たぶん、誰かが、逃がした」
「杉田さんが逃がしたんですか?」
杉田は答えず、缶を潰してストーブに放り込んだ。
「俺は、“ここに残った”。それが答えだ」
沈黙が落ちた。だが、それは静寂ではなかった。言葉の残骸が、テント内を漂っていた。
「ナギは、死んだと思いますか?」
俺は、問いかけたというより、確認したかった。
杉田は火を見つめたまま言った。
「それは、お前が確かめろ」
「……」
「もしお前がナギに“生きてて欲しい”なら、生きてることにしとけ。そう思ってりゃいい。少なくとも、お前は救われるだろ」
その言葉を聞いたとき、俺はポケットの中の付箋に触れていた。
湿った紙の感触。“GO BACK. PEOPLE NEVER RETURN.”
その言葉の意味が、今になって初めて、ほんの少しだけわかる気がした。