序章
水温、摂氏8.3度。
胴長のゴム越しに、それが膝から染みてくる。冷えた身体は、まず感覚を失い、それから視界がじわじわと暗くなる。
俺は、それを数値で理解していた。
けれど、知識は寒さを防いではくれない。
ヘッドライトの光が、川面で波紋を描いて揺れる。
対岸の茂みから、かすかに笑い声がした。何を笑っているのかは、わからない。
作業が始まって一時間。言葉は少なく、動きは機械的だった。
俺は今、うなぎの稚魚を採っている。
正式名称は「シラスウナギ」。
海で孵化した稚魚が黒潮に乗ってこの川へと辿り着く。透明な体。夜行性。流れに逆らい、川を遡上する。今夜のような朧月の夜が最適らしい。
ここは、高知県四万十市。
大学の先輩から「美味しいバイトがある」と聞いたのは、2週間前だった。画像付きのDMには、こう書かれていた。
《期間限定高額案件》
《内容:うなぎの稚魚の捕獲》
《月収50万円、旅費・交通費支給》
最初は冗談だと思った。
けれど、リンク先にはそれなりの企業名と連絡先。合同説明会の案内もあり、「冬休みだけなら……」と、俺は申し込んだ。
それがどういう意味を持つかなんて、このときはまだ知らなかった。
シラスウナギ。一匹あたり、X円。
単価を聞かされたとき、俺たちは興奮すら覚えた。
けれど、初日の夜、川に立った瞬間、そんな数字は頭から抜け落ちた。
ただ寒かった。
底冷えする水。膝を刺す冷気。ゴム胴長の中に、じわじわと水が染みてきた。
誰も言わなかったが、みんな気づいていた。
「これって……密猟だよな」って。
けれど、口にした瞬間、全てが壊れる気がした。