三振りの太刀
一 千血刀
刃物というものが魔を祓う効力を持つことは誰もが知っている。本邦では草薙剣、海外ではエクスカリバーとか、アーサーの剣だとかも聖剣の類だろうが、一方刃物が魔その物であることも古今東西に共通している。妖刀村正のほかにもいくつか祟る剣がすぐに思い浮かぶ。本来、道具とは生活を便利にする、つまり生きやすくために発明されたはずなのに、刃物から発展した剣は、自分の生のために、相手を殺すということを宿命としている。「千血刀」はまさしく、千人の血を吸った刀で、もはや切れないものは無くなるとあるが、さて、千人も人が切れるであろうか。足利義輝は珍しく、本人自ら刀を振って戦った将軍だが、名刀を何本も地面に差して、人を切ってはその刀を捨て、切っては捨てして戦ったという。名刀で物を切るなど、現代のコレクターにとっては貧血ものだろう。紙でさえ切れば、あの美しい刀身に筋が入る。
まずその「千血刀」だが、出典は何だろう。陰陽道系か、密教系か神道系か。立川流とかイザナギ流とかいくらか、それらしいものが思い浮かぶ。江戸の末期、維新の前に、一時神道が大いに流行り、それと関係があるかないか分からぬが、ある集団が「千血刀」を作ろうと、名刀に各自の血を滴らせ、集団の成員が千人に満たないため、夜な夜な陰に潜んで道行く人の血を求めたらしい。目的は世直しの暗殺か。そんな大義のためだから犠牲も已むを得まいといつもの身勝手な論理だ。
さて、こちらはそんな大義など関係がない。江戸の初期、まだ合戦の余風が吹き已まぬ頃のこと。ある村である男が刀を探していた。続く旱魃で収穫がさっぱりなく、国替えで来た殿様はもともと他所の者だから領民のことなど何とも思っていない。うち続いた戦乱で金がない。生かさぬよう殺さぬように年貢を絞り上げる。その村の代官も国替えの殿についてきた、本来百姓か商人だった男。戦に乗じて金を貯め、その金を殿に貸して士分になった。この男も本来他国の者だからその地の百姓に思いがない。代官とは上から責められ下から突き上げられ、結構苦しい身分だが、この男は旱魃時に金を貸し、その弱みで地の百姓を絞っていた。そんな百姓の一人、吾平は、愛しい女房と子宝に恵まれ、数年前までは貧しいながらも小さな幸せを大切にして生きていたが、ここ数年の不作で金を借り、代官の言いなりになるしかなかった。愛しい女房をしばらく奉公させろと言う。今までの奉公人が流行り病で死に手が足りぬから、新しい奉公人が来るまでの間だというが、村一番の器量良しの女房だ。代官が何を企んでいるか火を見るよりも明らかだ。しかし逆らえない。泣く泣く女房を代官の元にやったが、その夜から吾平の様子がおかしくなった。五つになる上の坊主は父を心配して何かと声をかけるが耳に入らぬよう。三つになる下の娘は母恋しと泣き騒ぐがそれも耳に入らない。虚空を眺めている。二日経ち、三日経ちしてようやく、立ち上がった。村はずれの神社に刀が奉納されていたはずだ。太閤の刀狩りで身分が成った。百姓に刀はいらぬ。すべて拠出させた。続く徳川も踏襲した。何度も何度も事あるごとに家屋を調べ、近くの森、野原まで改める。まだまだ百姓も、ことがあれば刃物を持って馳せ参じた時代を知っていたから。今、身の回りに槍、刀はない。しかし、神器としての刀が神社にあったはず。
数年前原野を開墾していたら、刀が出てきた。錆びて刃こぼれもひどい。しかし、何か不思議な雰囲気を持っている。錆びた刀は鉄屑となる。しかしこの刀はところどころ錆びているが磨けば元に戻りそうだ。また、長い。刀身だけで四尺はありそうだ。こんなもの振り回せるのか。ひとまず神社に奉納した。しかし、その時から、異変が続いた。まず流行り病。他の村にはまったく出ず、この村だけで死人まで出た。やがて井戸に毒を持った者がいるのではないか囁かれるようになった。凶作で食えなくなった長治という身寄りのないはぐれ者が村はずれに住んでいた。それまでは、次はうちかもしれぬと村の者が食べ物やその他、何かと面倒を見てやっていたが、噂が立ってしばらくして様子が変わった。自分一人家を潰して面目ないのを、村人への逆恨みに変えたのではないか。ある夜、深夜に村はずれに向かう数人の村人がいて、翌日長治が川に浮いていた。体に暴行の跡があった。牛馬の死産、虫の大量発生。すべてこの村だけで、城下にまで話が及んだ時、この辺りで名僧と聞こえるお坊様がやってきた。出迎えた名主や庄屋が話しかけても目も合わせず、ひたすらどんどん、村を突き抜け、やがて神社にたどり着いた。神社隣の、祭りに使う小道具を収納してある小屋の戸を開け、片っ端から道具を投げ出し、やがて刀と対面する。数珠を刀の柄にかけ、奉るように両手で差し上げ、隣の寺に入って仏の前に置くと読経を始めた。三日三晩夜に日を継いで加持祈祷をしたのちに、小屋を改め、その刀を晒しでぐるぐる巻きにして、小屋の屋根と壁との四隅からと、地と壁の四隅からと天井の頂上からその真下から計十本の晒し紐で宙に固定し、入り口に、不動明王と馬頭観音の像を置いた。村人を集めて言うことに、この刀は千人近い人の血を吸っている。千とまで行かなくてもそれなりの力の顕現は見たとおりだ。今仏の力を借りて力を収めたがこの平衡が崩れたらどうなるかわかったものではない。触らず、近寄らず、崇め奉れとのこと。何でもこの地の霊と交流したのだそうだ。金は火に作用され、木に作用する。しかし、両辺を土と水で挟まれている。土から産し、水に犯されるわけだが、この地との魔の相性が良かったせいで力が増したのだそうだ。だから宙に浮かせているのだそうだ。その刀のために神社を建て、納めていた小屋は社殿にして、その隣の廃寺を再興した。吾助はそれを思い出した。村はずれの神社に行き、社殿に入った。月が煌々と照り、まるで昼のようだが、社殿奥の蔵の中は暗い。入り口近くで回りの草や枝に火をつけ明るくした。蔵からは侵入を拒否する力を感じたが、強引に構わず入った。晒しでぐるぐる巻きにされ宙に浮いている刀を手にした。背筋に悪寒が走った。力任せに晒を引っ張り刀を解き放つ。鞘から出すと錆はあるもののまだ十分刃物だ。入口横の不動明王と馬頭観音の像を切ってみた。据物斬りだ。像は見事に四つとなった。刀など触ったこともない吾助にしてはうますぎる。このあたりから吾助は取り込まれていたらしい。抜き身のまま家に帰ってまず思ったことは、このまま代官の家に行って見事本願を成就できるか、つまりあの代官を切れるかという事。さっきは見事仏像を真っ二つにできたが、実際生き身の代官を切れるのか。研ぐべきかその必要はないか。もっと試してみないでは分からぬ。三つになる下の嬢の胸を刺し通し、五つになる坊を唐竹割りさながらに真っ向から切り下した。しかし、わずかに右に滑り頭蓋を覆う皮をはいで右耳を削ぎ鎖骨で止まった。吾助は血が足らぬとぶつぶつ言って自分の喉を突き絶命した。翌朝、深夜ただならぬ気配と物音に震えていた近所の男が中を見て、二人の死骸と、頭から血を流して壁にもたれて意識を失っている少年を発見した。二人は丁寧に埋葬され、少年は寺に引き取られた。耳がなく、頭部の右側が皮を剥がれて引き攣れているけれど、寡黙ながら利発そうな小僧さんを村の人々はかわいそうに思い、何かと気にかけてやった。刀を封印した名僧がやってきて、自ら住職となって、刀をまた封印した。この名僧はかつて武士だった。先の最後の合戦で、戦もいよいよ大詰め、門が破られ、天守に殺到する味方の先頭に立って、後に柳生の大太刀と言われたような刀を振り、片端から敵を切り伏せ、前進する。先頭とは言え、名打ての武将、周りは配下の者が固めているが、敵味方、多くの者が犇めき、馬が使えずどちらの者が放つのか、矢が飛んでくる、鉄砲の玉が飛んでくる。そんな中、前へ前へと進んでいく。天守から勝ち鬨の声が上がり、戦が決したようだ。無我夢中で進んできたが、ふと意識が戻り見渡すと死屍累々とはこのことだろう。自分が進んだその後ろには骸が多数転がっている。まさしく地獄だ。初めて茫然自失した。今までずっと一心不乱にしてきたことの意味を、今悟った。一族郎党を引き連れて自陣に帰り、自領に戻り、息子に家督を譲って隠居し、出家した。多くの生死を見てきた、自分の罪を深く自覚している者だからか厳しい修行に自らを置き、やがて名僧と言われるまで日を置かなかった。彼は吾助の息子を我が身の近くに置き、学問を教え、僧として修業をさせた。そして、毎日木刀を千振らせていた。剣を祀っている上は剣の扱いを習熟せねばならんと小僧の修業を始めた吾太に言った。僧侶故人前で剣を振ってはならぬといい、皆が起き出す半刻前に始めよと命じた。千回の太刀振りはおよそ半刻かかる。皆が起き出す頃吾太の身体は温まって汗ばんでいた。
御坊が寺を再建し、吾太を引き取って生活をはじめ、二年が経った。その年の収穫は大豊作で代官は村を周って実りを確認し、年貢を納める日、わざわざやってきて、その日は庄屋の家に泊まることとなった。吾太はいつも通り寺の雑用をこなし、住職に経を習っていたが、心は揺れていた。不思議と父に思いはなかった。あの日の話を聞いた母は実家に戻ってしまい、それについてもさしたる思いはなかった。ただ、まだ十分に話すこともなく、ただ何かと自分の後をついていた妹が不憫だった。まず殺された妹は五逆罪となり、未だに賽の河原をさ迷っているのだろう。親に殺されながら、親より先に死んだということで五逆罪に問われる。まだ物心もつかぬ妹が訳も分からぬままに賽の河原で石を積むさまが見えるようだった。不憫だ。妹を殺した父は死んだ。その原因を作った代官はまだ生きている。妹はかかを探して泣きながら家の中を、周囲を探していた。妹はかかが大好きだった。代官が許せぬ。いつか毎日の太刀振りに力が入っていた。昼間見分を終え、庄屋に接待され、祝宴を始めた。住職も呼ばれていた。彼は殿も一目置く人物だったが、そんな住職を蔑ろにする傍若無人さだった。端に控える住職が目に入らぬとばかり騒ぐ代官の声が聞こえる。吾太は寺を抜け出し、騒がしい奥の間を木の陰からうかがう。手にはあの刀が抜き身である。隣の神社の社殿に入って、宙にある刀を力づくで引き下ろし、鞘を払って駆け付けた。酒を運ぶため襖が慌ただしく開け閉めされ、下男が何度も勝手と座敷を行き来する。襖が閉められるため中の様子が分からない。住職や庄屋が入口近くにおり、他に二人の武士、一番奥に代官が座っている。さっき、襖があいた時、それだけ見えた。今、襖をあけて踏み込んでも一瞬の躊躇のおりに捕らえられるだろう。ここまで来てそれは避けたい。ふと、疑問に思った。この刀は使えるのか? 錆が浮いている。歯がこぼれている。切れるのか? まず試した方がいいのでは。襖があいて和尚が出てきた。好機。元武士の和尚様はさすがにいくらか衰えもあるだろうが、それでも歴戦の武士、骨も太く固い。肉も締まっている。和尚様を切れれば他の者でも大丈夫だ。足を忍び近づく。振り上げようとしたが天井があるので肩に担いだ。和尚は部屋を出て濡れ縁を通り厠へでも進むのだろう。横ざまに払うつもりで飛び出すと同時に襖が開いて下男が出てきた。もう止められない。刀をはらうと首が飛んだ。手応えが無かった。崩れる下男の向こうに代官がいた。刃はちょうど代官を差している。そのまま座敷に押し入り、刃を突き出した。やはり、手応えがない。しかししっかり、代官を串刺しにしている。代官は何があったのかと自分に刺さった剣に目をやる。手首をひねって刃を上に向け、一気に切り上げた。血飛沫が天井まで跳ぶ。その時我に返った家来たちが慌てて吾太に近づこうとした。捕まえるでもなく、取り押さえるでもなく、何の考えもないままただ、近づかねばならぬという一心で足を運んだに過ぎない。一瞬早く和尚が吾太の手を取ろうと腕を伸ばした。しかし、宙を掴んでいた。吾太の手は近づく家来の右銅めがけて袈裟に振り下ろされていた。返す刀でもう一人の家来を切った時、向こうから女の叫び声が聞こえた。偶然通りかかった下女が惨劇を目撃して発したものだった。家中叫びと騒ぎの音で訳の分からぬ状態のまま、家人は一目散に退散し、気が付けば座敷に吾太と和尚の二人きりとなった。絶命した代官は上半身を壁に持たせ、目を剝いている。家来は一人はうつ伏せで倒れ、もう一人はあおむけで全身が痙攣している。吾太は和尚に正対した。
「見たろう。この通り、まだ働けるのだ。うぬは我を野原に打ち捨て省みもせなんだ。若き頃、うぬと我は出会い、何度も死線を共にした。戦の度に我が身は歪み、刃はこぼれ、何度も打ち直し、研いでこの身はこんなに細くなった。しかし見よ。まだ十分に働けるではないか。何故我を捨てた? 」
「やはりお前であったか、この村の怪異を聞き、やって来た時、何やら懐かしい気を感じた。感じるままに進んでいくとやはりお前であった。我が祖父から譲られたお前は名刀とはいえ、もう百年が経っていた。付喪神となる年月だ。それでもいいと思った。わしはお前とこの世を渡っていこうと決心した。四尺からの大刀を振り切ろうと毎日鍛錬した。その甲斐あって初陣では四尺からの大刀が起こす風を魔風と呼び、敵はそれだけで逃げ出した。仁王、魔王、天狗と呼ばれるのに時はかからなかった。わしは、お前を生涯の伴侶として選び、悔いはなかった。しかし、いつからか、心がざわめいた。これは違う。何が違うか分からぬままに、違う、違うと心が騒いでいた。最後の合戦でそれが分かった。お主の求めていたものは、誇りや勇気でなくただ相手の血だった。お前は血を啜りたいがために我と行く方を共にした、そうだろう。」
「わしのおかげでどれほどの勲に恵まれた? この恩知らず、裏切り者め。」
和尚は問われるままに答え、逆に問い返しもしたが、その実、夜明けを待っていた。日の光がすべてを終わらせてくれる。それまで悟られぬよう、相手に打ち負かされていい気にさせ、また言い返して逆上させして刻を稼がねばならぬ。それにしても長い夜であった。
翌朝、奉行は駆け付けた庄屋の真を確かめるため、馬を走らせ配下の者は早駆けさせ、庄屋のうちに来てみれば、確かに代官と家来どもは絶命している。吾太という少年も自ら首に刀の刃を当て引き切りにしたのであろう、壁にもたれたまま死んでいる。仕方なく、庄屋に死体を処理させ、自分は城下に戻って藩の月番所に事実のままを報告した。後のことになるが、代官は今までの所業を問われ、代官の家は絶えた。吾太は亡くなったこもあるし、埋葬構わずとなった。
さて、あの日、朝に村役所の役人が庄屋の家に踏み込んだ時、その部屋には代官とその家来の死体、吾太の死体、廊下に下人の死体はあったが、御坊の姿はどこにも見られず、その後も誰も御坊の姿を見たものはなかった。吾太の凶行を止められず、修行をやり直しているのだという者もいれば、いやいや、怖くなって飛び出し、今更戻れもせぬ故、諸国を周っているのだという者もいる。廻国はそうだが、死んだ者の菩提を弔うためだと言う者もいる。本当のところは誰も分からない。ただ、あの部屋に残った刀を振ると、御坊の経が聞こえると言う者がいる。刀身は錆と血糊でほとんど曇っているがかすかに見える鋼の肌に御坊の叫んでいる姿が見えるという者がいる。いや御坊だけではない、おびただしい人々が見えると言う者がいる。ほとんどは武者だが、妙齢の女性がおびえた顔をしていたり、老婆が米を研いでいる背中が見えたり、小さな女の子が河原で石を積んでいたり、片耳のない少年が少女をじっと眺めていたりと様々らしい。
刀は汚れと錆を落とし、曲がり歪みを矯めて一応研いでみたが、また刀身は細くなり、本来名刀と呼ばれるようなものでもなく、また乱暴な使われ方をしたせいもあって、あまりきれいにはならなかった。透明な輝きではなく、ぼんやりと薄赤い曇りや濁りを纏っているように見える。
また社殿に納められたが、明治の御代になって改めると中は空であったと言うことだ。あの御一新の混乱時に盗まれでもしたのだろう。
二 流星剣
「今年は西風がきついな」と村長は言った。今年あたり北の奴らが来るかもしれないと言外に言っていた。フリツは別にどうでもいいと思った。
西風が強いとこの村は豊作になる。そして北の村は凶作になる。西風は雨を連れてくる。豊富な雨量は川も潤し、滋味に富んだ土も上流から運んできてくれる。だから、豊作になるのは穀物だけではない。草が潤い、家畜も太る。一方、北の村は激しい雨風で穀物が水没し、流され、川の氾濫がすべてを奪っていく。だから西風が吹くと、北の村は徒党を組んで遠征に出る。フリツの村はそのたびに防衛しなければならない。人数では圧倒的に向こうが上だ。一応村の周囲の堀を深くし、柵を建てるが、村を出て外れの荒野で迎え撃つ。周囲に山も森もない以上、ここで踏ん張るしかない。北の首領が物わかり良ければ必要な量のみ強奪して去っていく。根こそぎ奪って村が疲弊し、もし逃散や廃村となったら、次の飢饉で困るのは自分たちだ。だが、もし首領がただ今しか見ない刹那的な者だったら、悲惨だ。
フリツは村の祈祷師の子として生まれた。今年の作柄や、病気の治癒その他、村長の相談係として祈祷師は重要な役割だった。フリツは幼い頃よく夢を見て、それを父に話すと、父が夢解きをして、村の行方に役立てた。フリツの夢はよく当たり村の者は一目置くようになった。十年ほど前、フリツは南から来る商人が大事な物を運んでくることを予言した。十二になったフリツはもう自分の夢が何を伝えているか自分で夢を解けるようになっていた。果たして商人はやってきた。豊作の村に必要なものはあまりなく、人はちょっと、がっかりしたが、フリツだけは違っていた。商人の持っていた自分の背丈に少し足りないほどの黒い棒に目をやった。ただの細い棒だが、真っ黒で持ってみると重い。黒檀という南方の木で重く、固い。細いわりに重く、使い勝手が悪い。これは使えないと言うのを聞かず、フリツは所望した。重い荷で使い方も分からぬもので持て余していた商人は安価で分けてくれた。フリツはそれを持って表に出、振り回そうとしたけれど、とても扱えない。まず、持ち上がらない。胸の辺りまでなら何とかなったが、肩を越して上にあげられない。振りかぶれない。だから天秤棒にもできない。だったらもっと軽いもので充分だ。大体大人が重いという者を子供が持ち上げられるわけがない。その日からフリツはその棒を使いこなそうと一人で悪戦苦闘を始めた。抱き抱えるようにして胸の辺りまで持ち上げ、振り回す。振り回すと重さで自分が振り回される。足の位置、腰の位置を工夫して、自分で制御できないか工夫してみる。やがて何とか持ち上げられるようになり、振りかざせるようになり、振り下ろせるようになる。そしてその年、北の村が侵攻してきた。フリツは大人に混じって黒い棒を持ち戦に参加した。対峙した両軍は荒野の真ん中で激突した。北の村の群れの後ろには板に紐をつけた、道具を運ぶ橇がいくつかある。女も数人いるようだ。遠征のための炊事類、野営用の寝具などが載っている。これを引きずって侵略地まで行き、略奪し、穀物は橇に載せ、その地の男を奴隷にして背負わせ、女をさらい、家畜は歩かせ、国に戻るのだろう。数村の連合だから数は向こうが勝る。遠くからの遠征だから疲労は溜まっているだろうが、目の前の奴らから分捕らなければ残してきた妻や子が飢え死にする。目の前の奴らを倒す。それだけだった。総勢で数百の人数がてんで各々、目の前の敵とぶつかる。武器は棍がほとんどだった。作戦も何もない。ただ、目の前の敵を殴る。それだけ。
フリツはその混戦の中、殴り合いに巻き込まれぬよう足を忍び、腰をかがめて相手軍の奥深くに入っていく。相手が烏合の集とは言え、命令する者がいるはずだ。そんな中心となっている人物を何とかすれば、戦は終わるはずと考えた。小さな子供を相手にするまでもない。目の前の敵を相手にしている者たちはフリツに目をやっても興味を持たないようだ。持ってるのも細い黒い棒でしかない。あれで殴られても大したもんじゃない。
向こうに周囲の者より頭一つ高い、体格もいい、どうやら相手の中心となっているような人物がいる。大きな棍を振り回している。当たれば骨が折れるだろう。頭なら死ぬかもしれない。そうでなくても痛くてしばらくうずくまったまま、動けないだろう。独りで数人を相手にしているその男はうすら笑いを浮かべながら棍を右に左と振り回し、頭上に掲げては振り下ろす。誰も近づけない。棍を振っても向こうの棍に跳ね飛ばされる。フリツは駆けて近づき、男の前に立った。男は最初怪訝な表情を一瞬したが、にやりと笑ってこんな小僧など粉砕してくれるとばかりに棍を振りかざした。周囲の村人はフリツに止めろ、逃げろと言う。怯えと心配の視線を送ったが、フリツは気にしない。しっかり大男を見つめている。大男が棍を振り下ろした瞬間、フリツは大男の懐に飛び込んだ。黒い棒は右の小脇に抱えて、左手でも抑えている。体当たりの要領だが、フリツには黒い棒が突き出ている。振り下ろすより、真っ直ぐ進む方が早い。大男の胸には黒い棒がしっかり刺さっている。先を尖らせているわけではない。この時代黒檀を削れるようなものはない。キメの細かい石でやすりの要領で根気よく削ればできるかもしれない。しかし、この時代、相手を殺すと言う考えはなかった。戦の最中に運悪く死ぬことはあっても相手を殺さなければならないと言う考えはまだない。しかし棍と比べて細い棒の先端だ。男の胸の骨を割り内蔵深く突き刺さった。男はその瞬間意識を失い、前のめりに倒れた。フリツは右に避ける。大地に腹這う大男の上に、振りあげた黒い棒でなんども叩く。一瞬何が起こったか分からぬ全員だったがやがて北の男たちが気づいて大男を助けようと彼の上に被さってフリツの棒からその男を守ろうとした。しかしその棒の痛いこと。石で殴られているようだ。打たれた男は「ギャー」と叫んで打たれたところを中心に弓なりになる。腕で受けようとした男はやはり「ギャー」と叫んで手を下ろしてしまう。その間に数人が大男の脇に手を入れ引きずって戦場から離脱する。気が付けば、さっきまであれほどの叫喚であったのが止んで北の住人は去っていく。どうやら撃退できたらしい。いつかフリツの周りに集まり、それぞれに叫んでいた。今年の戦は勝った。
翌年再びやってきた北の村の略奪者だったが、村長の脇に立つ黒い棒を持つフリツはもう、ひとかどの男になっていた。黒い棒を軽々と振りかざすだけで敵は怖気づいた。そしてさらに翌年の戦を最後にして、十年、他からの侵略は受けずにいた。フリツはもう二十五になっていて、村の重要な中心人物の一人になっていた。
戦を前に、村一番の祈祷師である父はフリツに意見を求めたが、特に何もと答えた。フリツは久しぶりに夢を見たが、それが何を意味するのか分からなかった。北の村の奴らが攻め上ってきて、彼らを迎え撃とうとフリツたちは荒野に集まった。やってきた奴らの様子が少し違っていた。手に持つ武器が棍でなく、腕ほどの長さの、薄い石か土器のようなもの。明らかに作り物である。片手でそれを操る北の奴らは、手を振りかざして向かってきた。振り下ろすそれを棒で受けた村人は次の瞬間、頭を割られていた。棒が真っ二つになっていた。何が起こったか分からぬ村人は一瞬動きが止まり、次に動揺が走った。彼らの持つ得物が分からない。次に今までの戦では人死にがあってもそれは結果であって目的ではない。この戦、あの得物は明らかに相手の死を望んでいる。我々は相手ではなく、奴らの敵なのだ。
フリツもその光景を近くで見て、理解できないままに対処しなければと焦りばかりが募った。と、目の前に大男が立っていた。昔の男ではない。今はこの男が北の村を率いているのだろう。こいつも手を高々と上げて次の瞬間鋭く振り下ろしてきた。フリツは思わず両手を挙げて黒い棒でそれを受けようとした。得物のそのあまりの衝撃に手が下がり、右の鎖骨が折れ、もう少し下まで切り降ろされて、フリツの意識は飛んだ。
気が付くと板に乗せられていた。右手と肩口は布で強く縛られていた。周りに村人の死体が転がっていて、はるか向こうの村からは煙と炎が上がっていた。
生き残った数人に運ばれてフリツは村に戻ったが、そこにもう村はなかった。今まで略奪はあっても、火をかけることなどなかった。そんなことをすれば、来年以降、略奪できない。人を殺したらその村からは収穫できない。今までの戦とは明らかに変わっていた。すべてはあの得物のせいだ。
荒野のくぼ地などに身を潜めていた村人も戻ってきた。三百人ほどだった集落も今では四十人ほどになっていた。後で知ったが、あの得物は青銅という土から作られたものらしい。はるか南の商人が最近扱っているらしく、北の村はそれを近年大量に仕入れて近郊の村を手始めに今でははるか遠くまで遠征して強奪を繰り返していた。すべてが油断だった。この数年の豊作で、周囲の状況に耳を傾けることを怠った。黒い棒を毎日振ることはしても、祈祷師としての鍛錬は忘れていた。棒さえ振って居ればすべては解決する、実際の力が一番のものだと思い、驕っていた。村を滅ぼしたのは自分だとフリツは思った。右手はほとんど動かなかった。筋が切れたのだろうか。胸元で右腕は固定され、指がわずかに動く。略奪を免れたわずかな食糧を皆で分けて食べる。何もできずただ足手まといのフリツも板に寝かされたまま、食事だけはみなと同じに与えられた。村長も父も、村の主だったものはすべて死に、今は老い先短い老人の意見を聞いてまだ年端も行かない少年と、病弱であったり障害があったりで戦に行けなかった数人の男が動かぬ体に鞭打って何とか村を切り盛りしている。食事を断るフリツに彼らは何も言わずただ、体を押さえ、口をこじ開けて粥状のものを流し込む。これはフリツのための物でなく、なけなしの食料を水で溶いて火にかけた村人すべての食べ物だった。燃え残った布を集めてそれでフリツの包帯とした。フリツの黒い棒は北の村の者によって燃える火に投げ込まれたが、焼けないまま残ったのを村の子供が拾って届けてくれた。今はフリツの横にある。じっと眺めても何も思い浮かばない。何もする気にならない。毎日ただ焼け残った板を葺いた天井を眺めていた。やがて死ぬのだろうと思っていたが、どうやら、生き延びてしまったらしい。微塵も動かず上を見て寝ていた。食事は村の者が口に何かの汁を流し込んでくれた。垂れ流した糞尿の世話もしてくれた。申し訳なかったが、何をする気力もなかった。こうなった原因は自分にある。戦にかまけて祈祷という村の行く末を計ることを怠っていた。その時自分のすべきことを見誤っていた。すべては愚かな自分のせいだ。なぜ死ななかった。生きていることがただ辛かった。
フリツは星の落ちる夢を見た。これを父なら、星の落ちた方角の村長など、中心的な人物の死と解釈するだろう。だが、フリツは違った。フリツの夢はいつももっと現実的だった。フリツは動く体の部分を探った。左手と足の先くらいか。左手を使って体を反転させ横向きになり、動かぬ足をじたばたさせ、いざった。匍匐して小屋を出ると子供が見つけ、駆け寄ってきた。床に戻そうとするのを制して、子供につかまって上半身を起こしてもらい、膝を折って立ち上がろうとする。全身の筋肉が落ちていて、とても立つことなどできない。フリツはそれでも立とうとする。ふと気づいて子供は病床に行き、黒い棒を持ってきた。これを杖にするといいと目が言っている。杖に全身をもたせ掛け、前に進むフリツの邪魔をする者は誰もいなかった。死者同然であったフリツが今、何かをしようとしている。それは自分自身のすべてを賭けてもなさねばならない何かであるようだ。それはきっととても大事な事に違いない。フリツの前進を見ただけで、それはみんなに伝わった。しばらくして地面しか見られなかったフリツだったが、顔を上げ周りを見て方向を見定めると、少し向きを修正してまた前進を始めた。どこに向かおうとするのか、恐る恐る聞いてみたがフリツは何も言わずただ、歯を食いしばって杖にもたれるようにして、体を引きずるようにしてただ進む。休まず一歩一歩確実にどこかを目指して進み続ける。生き残った数少ない大人たちは子供にフリツを託して、食料の採集に行く。荒れ果てた田畑を元に戻そうと作業する。子供たちはフリツを遠巻きにしながらも、倒れそうならすぐに駆けより、フリツの目的を達せられるよう手を貸そうとする。やがてその集落の西の端までやってきた。フリツは初めて口を開いた。ただ、長らく話していなかったからうまく口と舌が使えない。不明瞭で消え入るような声で、これから、はるかな先まで行かねばならない。お前たちは戻れと言った。言葉に反してついていくべきか、言いつけどおり戻るべきか、どうしたらいいか分からぬ子供たちだったが、一人利発そうな少年は集落目指して一目散に走りだした。つられて他の子供も走り出す。ただ、最初に走り出した少年は病床にあった、敷布団掛布団替わりのわずかな布と、干してあった食べ物をいくらかまとめて小袋に入れ、それらをもってフリツの元に戻った。集落に到着した子供たちは、引き返す少年を見たが、後を追おうとはしなかった。ただ少年の行動の意図が分からぬまま見送っていた。フリツに追いついた少年はフリツに付き添い一緒に歩いた。フリツも何も言わず、それを許した。最初の夜は全身が引きちぎられるような痛みでとても寝られそうになかった。明け方やっとうつらうつらとできたが、少年の持ってきた乾き物を口にするとまた、一方向目指して歩き始めた。二日目の痛みは初日以上だった。三日目はまたそれ以上。四日目には少年を村に戻した。これ以上進むと少年は一人で村に帰りつけないかもしれない。フリツの足で四日。少年が駆ければ一日半で帰れるだろう。この旅で生きて帰れる保証はない。とても少年を守れない。少年は村の宝だ。特にこんな利発な少年はこれから村にとって是非とも必要になってくる。フリツの言を拒む少年だったが、よく言って聞かせた。少年はフリツの腰に乾き物の小袋を下げ、布は全身に巻いて歩きやすくした。進むフリツを見送ってしばらく佇んでいた少年だったが、くるりと踵を返して村目掛け一心に駆けだした。
全身が痛い。道は進まない。何よりこの先に何があるのか、自分でもわかっていない。夜は眠れず、食べ物は底を突いた。道にある草を口に入れる。毒なのか、激しく嘔吐し、下痢をした。やがて食べられる草が分かった。虫やその他の小動物も口にした。ただ生きねばならなかった。徐々に手足の動きが以前よりましになってきた。まだ右手は十分に動かないが、杖を両手で握れるようになった。杖なしでも歩ける距離が伸びた。夜、眠れるようになった。いよいよ今日、何かが起こる。そんな予感があった。果たして深夜、突然大地が激しく振動した。この世の終わりのような激しさだった。続いて鼓膜を破るほどの轟音と、巨岩も動かすほどの熱風が襲い掛かった。フリツは偶然窪地にいたが、這いつくばって全身ひたすら低くしていたから何とか助かった。すべてが去って周囲に注意しながら立ち上がると、震源と思われるはるか向こうの地平線が真っ赤になり、空に火の粉が吹きあがっている。星が堕ちたのだ。行くべきはあそこだ。フリツは今、行き先を確信した。日が昇る前に出発した。大地に熱が残り、あちらこちらで煙が立っている。すべてが中心地から外の一方向に、まさしくなぎ倒されていた。地肌がむき出しになり、土以外は何もなかった。小動物の焼死体が転がっている。こんな荒野にもこれだけの小動物が生息していたのだとフリツは改めて思った。食料には事欠かなかったが、水は困った。手持ちの分を大事に使った。これだけで五日持たせようと考えた。ならば一日一口だ。どうやら中心地まで二日かかった。次第に下っていく角度が急になる。転がり落ちるほどの斜になった時、中心に棒状のものが刺さっているのが見えた。あれが目的物だ。
それは黒檀の棒に似ていたが少し短い。へその下あたりまでだが、どれほど埋まっているのか、わからない。太さはまさしく黒檀の棒ほどだ。ちょうど親指と人差し指で輪を作ったくらいの太さ。色も黒い。近づいて先端に手をやった。熱い。思わず手を引いた。布で巻いて引き抜こうとした。びくともしない。黒檀の棒の重さの比ではない。とても引き抜けない。押して引いて刺さっている個所にゆとりを作っても引き抜けない。そんな作業を繰り返し、引きずるようにしてその棒を何とか引き抜いた。
隕石には多量の鉄鉱石を含むものがあってそれを鋳鉄して鍛え直し刀にしたものがいくつかある。いわゆる流星剣だ。それは鉄を削れるほどの硬度を持つらしいが、何しろ隕石だ。多量の鉄が取れるものではない。残っているものを見ると、すべて小太刀だ。それが棒状になって刺さっていてなどはにわかに信じられない、降下の最中に蒸発してしまうだろうと思うが、これは伝説だからもう少しお話に付き合っていただく。
さて、その黒い棒の正体も分からぬままに持ち上げることもかなわずフリツは引きずって村まで運んだ。黒檀の棒同様、まず何とか持ち上げるまでに数十日がかかった。以前のようには使えない右手だったが、思うように振れるようになった。約一年かかった。そして木に向かって振り下ろすと、木はいとも簡単に折れた。あまりの手応えのなさに、これでは稽古にならぬと岩を叩いてみると、手に相応の手応えがあり、思わず手を放してしまった。しかし、岩も当たった個所は吹き飛んでいる。そして棒は何ともない。これはすごい。これなら、あの剣を受けられるし、折ることもできる。いや多分当たれば向こうは砕けるだろう。一度手合わせをした経験からそんな確信を得た。ただ返ってくる反応は何とかせねば。握っている棒の部分に布を何重にもして巻いた。すっぽ抜けないように工夫も必要だった。岩を相手に棒を叩きつけ、これならまたやがてやってくる北の奴らに打ち勝てると思った時、フリツは愕然とした。棒は一つ、相手は多数。独りでどうやって相手すべてと戦う? フリツは小屋に戻り、誰にも会わず、閉じ籠った。寝てたフリツが起き上がり、村を出て、やがて元気になって帰ってきて、田畑や飼育の労働もせぬままに荒野に行っては棒を振り回している。それでも見捨てなかった村人は今回も見捨てず心配した。食事を小屋の外に置き、フリツのしたいようにさせた。
しばらく籠っていたフリツだったが、村の子供たちを集めた。旅に従った利発な少年を脇に置いて、彼を長にした。さらに年長で、年下で体も自分より小さい彼の言うことを聞こうとしない者に対してフリツは殴る蹴るの折檻をして力で屈服させた。少年の言うことを聞かねばこうなるという見せしめだった。
フリツはまず少年たちに棒を与えた。その使い方を教え、そして戦い方を教えた。田畑の仕事、畜産の作業の後、ほんのひと時でも毎日集めては続けた。ある程度の成果が表れると成人、壮年を指導し、年端の行かない者についてもそうした。フリツは村人全員を集めて言った。村が立ち直り、また北に風が吹いたら、奴らはやってくる。その時この村はどうするのか。これがフリツの話だった。フリツは言う。その日は近い。
フリツの予言は当たった。北から奴らがやってきた。
村はずれの荒野で北の奴らを迎え撃つ。荒野で両者が対峙した時、北の方から笑い声が漏れ、やがて大笑となった。フリツの陣は、一番前にフリツが立つ。しかしその周囲にはまだ年若い小僧どもしかいない。青年、壮年は後ろにおり、その後ろには女と老人がいる。村総出で、しかしそれでも北の群れの半分にも満たない。
全員地に伏して詫びようと言うのか、どうするつもりか。フリツ達は黙ってこちらを見ている。北の群れは真っ直ぐ進む。警戒の色はない。にやにや笑って見下して進んでいく。フリツ達は動かない。突然北の群れの最前線が崩れた。落とし穴で下には尖らせた木材が仕込んである。足をやられてうずくまる最前線。一瞬沈黙した北の群れだが、起こった出来事を理解して、笑いが憤怒の相に代わる。駆けてフリツ達に向かう北の群れに石礫が飛んでくる。握りこぶし大の石が顔に真っ直ぐ飛んでくる。投げているのは女だ。後方から真っ直ぐ飛んでくる。何度も練習してきたのだろう。狙いは正確で威力もある。北の足が止まった時、フリツの一団が動いた。少年達が突進してきて手の棒で突き立てる。剣は短い。その間合いの外から手を伸ばして北の群れの顔や首を狙って棒を突き出す。思わず剣を落とすと、少年たちの後ろに控えていたさらに年少の少年少女がその剣を拾って自軍に引き、青年壮年にその剣を渡す。礫を避け、少年の突き出す棒を避け、あるいは耐えて剣を落とさなかった者にはすぐ手首を棒で撃つ。大きく持ち上げず、顔の辺りまで持ち上げて、打てるなら顔を、顔を引いていれば手首を撃つ。これも練習してきたのだろう。激しい痛みで手がしびれ剣が落ちると、子供が回収する。そして次の剣を持つ者に向かっていく。顔を突かれ、手首を撃たれ、とがった木を踏み抜いてうずくまった者に対して、剣を持った青年、壮年は首を狙って振り下ろしていく。頭は固いから狙うなと言ってある。それを見て一目散に逃げだす者は追うなと言ってある。剣を投げ捨て逃げ出した者の残した剣を少年少女はやはり回収して回る。
フリツは先頭に立って相手の中心にいる男、ひときわでかい男に真っ直ぐ進んでいく。手には、流星剣がない。いつもの黒檀の棒だ。フリツに向かって来る者に対し、棒で顔を撃ち、突く。流星剣を振ってきたのでことさら軽く感じる。しかし威力は絶大だ。三、四人も倒すと、誰も近づかなくなる。相手の頭目に真っ直ぐ進む。群れが崩れ敗走する者が増え続ける中で、この男はフリツを待つ。この男を倒したら逃げる勢いは治まる。そうすれば、今の守勢から反転して攻撃に出られる。今までの戦から経験したことだ。剣の間合いの外側から突いてくるだろうが、分かっている。じっくり待っていればいい。突き出した棒を避けて踏み込み頭を割る。それだけのことだ。よく見れば数年前にやりやった奴ではないか。懲りない者だ。北の頭目はにやにやと笑った。これは何でもないことだ。そう、味方に知らしめねばならない。余裕を見せる。見てろ、すぐにこの男を叩き伏せてそのまま前進し、村にあるもの全てを奪ってみせる。男はすべて殺し、女は連れ帰る。
進むフリツは止まらない。男の剣の届く位置まで来た。男は一瞬戸惑ったがすぐに気を取り直し、目の前のフリツの頭めがけて剣を振り下ろした。フリツは右手を挙げて剣を受ける。しかし左手は上がっていないので棒は鋭い角度で剣に対している。両手を上げれば剣と棒とは垂直に交わる。これでは水平に近い。棒に当たった剣は棒の上を滑り降りる。受け流した格好になった。勢いつけて振り下ろした剣だから止まらない。地面近くまで剣が振り下ろされた時、フリツは左手を放し、右手の手首を返して棒を高々と頭上に上げ、次の瞬間両手で持った棒を男の頭に力いっぱい振り下ろした。普通の棒なら、棒が折れるだろうが、黒檀だけあって折れることはなかった。男の頭は割れ、体が前のめりに崩れていった。男が全身を地につけた時、北の群れは全員が敗走した。フリツは追撃せぬように指示し。地に落ちている剣を回収させ、残った敵の亡骸でまだ首を取ってないものからはすべて首を切り落とさせ、その首を落とし穴の向こうに並べて晒した。数は少なかったが、村の者で亡くなった者を回収し、傷ついた者には手を貸し、北の者を警戒しながら村に戻った。見張っていたが、北の群れはほどなく撤収して去っていった。
フリツが流星剣を使わず黒檀の棒で北の奴らに向かったのは理由がある。フリツは相手が青銅の剣を使った時、今までとは違うと感じた。今までは飢えを凌ぐため食べ物をいくらか分けてもらう。しかしあまりに量が少なくて出し渋っている相手に力で訴える。だからいざこざであって喧嘩だった。少しでいいからくれないかというだけのことだった。しかし青銅剣は違った。あれは殺し合いだった。小さな村では青銅器は作れない。大掛かりなものを動かすためには大勢がいる。相手を考えていては動けない。無理やりでも従わせる必要がある。大勢を無理やり従わせるには力がいる。自分が一番強くなるには特別の得物が必要だった。その結果、その村が全滅しようとかまわない。力を見せつけて付き従う者にはおこぼれでも恵んでやる。相手からは根こそぎ奪う。逆らうものは容赦なく殺す。得物の質が変わって、今までとは違うことをしなければ生き残れないと悟った。自分一人で対処できない。大掛かりな相手にはこちらも大掛かりになるしかない。しかし数に劣るこちら側なら女子供まで総動員して、なおかつ、その者たちを相手に勝るものにしなければならない。相手の青銅剣を打ち破る得物である流星剣は一つしかない。ならば、今あるもので打ち破る方法を考えねばならない。屈強の男相手に、女子供が得物でも劣る場合、どうするか。青銅剣を無効化するために、その圏外から攻撃する。一度で仕留めるために顔を狙う。無効化を決定づけるために手首、手の甲を破壊する。万一圏内から振り下ろされたら、受けず、受け流す。そんな技や術を考え伝えた。そのためには自らやって見せねばならず、自分だけ優位な流星剣では説得できない。皆と同じ得物で戦う必要があった。フリツの噂は広がり、やがて隣村から村を守る方法を教えてほしいと足を運ぶ者が現れ、その数は増えて言った。フリツは惜しむことなく術理を伝えた。それはやがて村の連合となるだろう。もしもの時はお互い助け合える。
フリツが老いた時、かつてフリツと数日の旅をし、合戦では右腕として戦った利発な少年が代わりに教えを伝えた。かつての少年はもう壮年となり、伝えられた術理は改良され、他の者の知恵も入って緻密でなおかつ成長していく体系となっていった。フリツの死は彼の神格化となり、流星剣は神剣となった。フリツの墓は祠となり神殿となり、神剣が祀られ、黒檀の棒と共に宝物として納められた。どちらも黒光りし、どちらと見分けがつかないほどだったが、流星剣がわずかに短かった。
フリツが神となり創始者となった。フリツを継いだかつての少年も死に、教えは代々継承され、さらに改良、発展し彼の教えは本邦最初、最古の剣術となった。新しい流派も生まれた。そして今日に至っている。
三 霜刃
この地に足を踏み入れた時、安斎は確信した。
外国船が浦賀に現れ、国が開国か鎖国、攘夷かで二分されている今、やがてまた戦が起こるだろう。その燻ぶった火種は容易にあちらこちらで見つけられる。その時、日本刀に出番があるのだろうか。戦になれば鉄砲と大筒だろう。日本刀は家の宝として、武士の印としてあるだけだ。刀鍛冶の家に生まれて、それでいいのか。使われもせず、ただ眺められる太刀。究極の刀とは何か。美しさか、切れ味か。いや違う。武器としての刀、殺傷力だ。その剣に切られたら必ず死ぬ。そんな刀が究極ではないか。鉄砲でも大筒でも不可能な、そんな刀。
安斎は全国を渡り歩き、名刀を拝見させてもらい、玉鋼を吟味し、名人に話を聞いた。刀の釣り合い、握りの吸いつくような感触、切った時の手応えのなさ。違う。そんなことと、人を必ず殺すこととは関係ない。今までになかった剣が私の理想だ。
伝説でしかなかったと思える話に縋ってここ富士の樹海に足を踏み入れ、さらに分け入り、はるか太古の溶岩を掘り、湧き出る水に触れて何かを感じた。溶岩に含まれる鉄は使える、いや使えない。もともと剣を打つ鉄とそこらの鉄ではモノが違う。同じ魚でもイワシと鯛の違いのようなものだ。だが、果たしてイワシより鯛が絶対旨いか。時として鯛を越えるイワシがいるやもしれぬ。鯛に拘っていては新しい料理は作れぬ。敢えて挑まねば。
付き従っていた弟子たちも一人去り、二人去り今では息子のみとなった。富士の裾野、樹海の奥深くに庵を編み、掘っては溶岩に残ったわずかな鉄を集め溶かし、近くを流れる川から水を汲み、濾して使った。片端から溶かしては鍛えてみたが、もろかった。何であれ当たれば刀が砕ける。折れる、曲がるでない、木っ端微塵に砕けるのだ。何度も何本も試してみたがほとんどがそんな中にあってたった一振り、なぜか全く質の違う剣が打てた。いくら磨いても、まるでやすりのように刀身が切った個所を抉ってしまう。鏡のように周囲が映り込むまで磨いても、ものを切ると刃の当たる辺りが抉れる。そして刀身はやがて白く濁ったようになってしまう。しかし切れ味が落ちるわけではない。切りつけ、刀を抜こうと引くと肉がずるっと抉れる。獣で試してみた。するとその抉れた辺りから数日して壊疽し始めて薬など役に立たず、やがて死ぬ。どうやら、溶岩に含まれる鉄とこの辺りに流れる川の成分が結びつくとこんな作用を起こすらしい。さてこれはどう見るべきか。確かにこの剣は相手を必ず死に至らしめる。
安斎自身困惑していた。まるで何かに導かれるように鍛えたが、この剣の価値が彼には計りかねた。ひとまず国元に帰って殿に献上した。刀匠として名うての安斎が帰郷し、太刀を打ってきた。喜んで出迎えた殿は、鞘から抜いた太刀を見て首をひねった。刀身が白い。霜を置いたようだ。雪が積もった白ではない。そっと触れようとした時、安斎が声をかけた。「しばらく。」顔を上げた殿に、触ってはいけないわけを説明した。最初何事かと耳を傾けていた殿だったがやがて顔に赤みが差し、その赤が濃くなって表情が険しくなった。安斎の話が終わると、こんな毒を塗ったような剣は邪剣だ、呪われた剣だと怒ってすぐに下がれと命じた。そして蟄居となった。確かに武士道に悖る剣かもしれない。刀は打ち捨てられ、納戸の奥にでも放り込まれたままやがて忘れられようとしていたが、ある用人がこっそり持ち出した。
彼は、身分は低いが腕の立つちょっと表向きには言えぬ仕事をさせている男を飼っていた。安斎の剣を与えて京へ行けと命ずる。黒船の来航以来世情は激しく移り変わっている。江戸の情報と共に京からも目が離せない。才走った者を京にやっている。彼の警護をせよというのである。安政の大獄の反動で桜田門外の変が起こった。
変わる時代に歯止めをかけようとした浪士たちだったが、そのための殺害として鉄砲を使ったのはどうか。武士の世を守ろうとして、武士の象徴を使う前に、まず、まさしく火蓋を切ったとは。これでは新しい世を認めているようなものではないか。しかし、結果としては、首こそ上げられなかったが、井伊大老は死亡した。
しかし、まだ幕府側は健在だ。井伊の息のかかった者たちもまだ自分たちの天下だと思っている。この機に井伊一派を追い落とし水戸の息のかかった慶喜が実権を握れば世の流れが変わる。大老の元でおいしい思いをしていた者たちを粛正する。国から出てきたその男に、重要な使命を伝えた。
大体、政治を司ろうという者は、反動だ。今の世を良しとして変化してはならないと思っている。大体政治をする者とは、その時代に恵まれていた者たちだ。多分井伊大老は最前線でもう今までの時代では世を支えられないと実感したのだろう。だが、世情の者たちは納得していない。自分たちなら今のままの世を維持できる。大体、次の時代など想像できない。そんなものを操縦できない。しかし世は変わるものだ。それを理解していただけ井伊大老は賢く、攘夷論者はそれほどでもなかったのだろう。あるいは、ただ、今の頂点を倒して代わりに座るための題目だったのか。それでも、変わる世を考えず自分の栄達のみを考えるなら、やはりそれほどでもないのだろう。やがてそんな者にも抗えない時代の変化が認識されるのだが。
大老の元で働いていた、そして金をしこたま蓄えた男たちは誅罰された。幕末、人切りの季節がやってきた。人切りは簡単だ。転向も棄教も隠遁もない。ただ殺して殺される。明治を越えて生き延びた者もいたが結局畳の上で死んだ者は、新選組の永倉と斎藤くらいの者だろうが、彼らは今ここで語っている人斬り(暗殺者)ではない。というわけで話は真っ直ぐ進む。上野寛永寺の決戦だ。佐賀藩のアームストロング砲を池越しに打ち込まれて一日でほぼ壊滅という状態だったが、最後の白兵戦でも、彰義隊は散々だった。頭を割られていたらしい。どうやら振りかぶる敵の刀を受けようとしたらしい。上段から振り下ろす刀を受けるのは道場剣法だ。真剣なら受け流す。江戸の末に流行った竹刀と面胴小手の道場流が本番では使い物にならなかった。逃げ惑う彰義隊を追って片端からなで斬りに切り進む政府軍の中で、夕日を背に長く赤黒い太刀、真黒な太刀、霜を置いたような白い太刀がそれぞれ出番の来たのを喜ぶように、舞うようにひらめき、きらめいていたということだ。