贄姫ならぬ贄メイド?~私は一生独身だってば!~
昔々、誰とも結婚しなかったご当主様がいらっしゃいました。
彼は妻の代わりに、一人のメイドをそばに置いていたそうな。
最期まで、ずっと――。
*
「――セリアと言ったか。私には一切触れるなよ。その醜い面も見せるな。床で寝ろ」
「…………はい?」
私は涙で濡れた顔を上げ、旦那様の美しいご尊顔を睨にらみつけた。
今なんて言ったこいつ。
床で寝ろ?
乙女に向かってそう言ったよな?
村一番の器量良しと謳うたわれた娘……の妹であるこの私に「醜い」って言ったよな?
「……お言葉ですが、旦那様」
私はズビッと洟をすすり、彼を真似して腰に手を当てた。
「お互い触れ合わず顔も見せず私は床で寝て、それでどうやってやるおつもりなのでしょう? まさかやり方というものをご存じないのでは?」
厭味を言ってやったつもりだけれど、フンと鼻を鳴らされただけ。
「品の無い女を抱く趣味は無い。……床は言い過ぎたな。では、そこのカウチと毛布を貸してやろう。下手な真似はするな。俺が唸れば廊下に控えている従者がおまえをつかまえるぞ。どのようなやり方でかは知らんがな」
彼は冷笑とともに、私の足元に毛布を投げつけた。
本当に寝台には上がらせないつもりらしい。
(な……っ)
なんたる仕打ち。
私は拳をわなわなと震わせた。自慢のゴージャスな赤毛も逆立っているに違いない。
しかし、言いつけ通りにするしかないのである。
だって私は、ただの新米メイド。同じ貴族ではあるけれど、旦那様とは天と地ほどの身分の差がある。万が一恋に落ちたとしても、結婚なんてもっての外。
そもそも……。
(私はセリアじゃないんだよ! ぶわあああーか!!)
仕方なくカウチに寝そべり、暗闇にパンチを繰り出した。
右腕に巻いた赤いリボンの裾が、ひらりと揺れる。
*
ことの始まりは、つい最近。
「うおりゃーっ!」
「おい、クラリス!」
私、クラリスは村を囲む秋の森へ分け入り、ウサギを追いかけ回していた。
「待てこのーっ!」
「これっ! クラリス!」
どうしてウサギを追うのかって、もちろん食卓に出すためだ。
「出てこいやあー! ハッ! おじ様っ! 早くこっちへ!」
「クラリス! ウサギはもうよい!」
「はい!? ああっ! 逃げるな●ソー!」
「●ソはよせ、ク●は。よく聞くのじゃ。おまえの姉が逃げた」
「………は、はい!? 逃げた!?」
「駆け落ちじゃ」
「か、駆け落ち!? セリア姉さんが!?」
頭に稲妻が落ちたみたいな衝撃が走る。
セリア姉さんのことだって心配だけど、まあ、あの人のことだ。彼女ならどこにいても器用に生きていくだろう。
そんなことより……。
「困るよ! まだ私の下に二人も妹がいるんだよ? 没落寸前のうえ長女が駆け落ちした家の娘なんて貰い手がつくわけ……」
「妹たちもそうじゃが、まず自分の心配をしろ! おまえももうすぐ十九になるのじゃぞ!」
私は額の汗を拭きふき、息を整える。
「私は一生独身だってば」
淑女らしからず袖をまくって右腕をさらけ出す。包帯のようにぐるぐる巻きにしてあるのは、赤いリボンだ。
「どのみち、貰い手なんてつくわけがない」
おじ様はため息をついた。
森の落ち葉を全て舞い上がらせるんじゃないかってほどの深いため息だ。
「姉ほどではないが、おまえも顔はそこそこ良いのにのお」
「それはわかってるけど」
「自分で言うのか。……とにかく。お前の姉、セリアは奉公に出る予定だったのは知っているな。相手が相手じゃ。穴をあけるわけにはいかん」
「え? つ、つまり?」
「おまえが代わりに奉公に行くのじゃ。クラリスではなくセリアとして、な」
「わ、私が!?」
「さ、明日には出発じゃ。荷物をまとめい」
「明日……。そんな急に。……あー、おじ様! こっちの道から帰っていいかな?」
「おお、そうじゃったな」
彼は足を止めた。
この道を真っ直ぐ行けば、村までの近道となる。でも途中、森で一番高い木が生えているのだ。
森を駆けまわるのは好きだけど、あの高い木には今も近付きたくなかった。
あの事件から十年以上たった今でも。
*
奉公先は、ナスヴェッタ家のお屋敷。
姉の駆け落ちが周囲にバレないよう、姉妹二人で奉公へ向かったということになっている。
当主様はまだ若くとてもハンサムらしい。でも実は、逝去した先代の婚外子とも噂されている。
……そんなわけで、私は馬車に乗せられ村から奉公先のお屋敷まで運ばれた。
クラリスではなく、セリアとして。
*
何日も掛けてようやくたどり着いたお屋敷は、それはそれは立派だった。
庭の芝はきれいに刈られ、夕日が煌めく湖には舟が浮かんでいる。屋敷の天井には神様や聖母様や天使の絵。私の他にも従者がたくさん。
「クラ……、セリアでございます」
女性と初老のメイドに迎えられ、私――セリア扮するクラリス――は恭しくお辞儀した。
「遠路はるばるご苦労。このお方は先代の奥様、エルマンガルド様です」
メイドに紹介され、エルマンガルド様が微笑んで見せる。口元の皺が深くなった。
「よろしく、セリア」
髪を結って品のあるドレスで身を飾って、裕福な貴族の見本といった雰囲気だ。
(上級貴族様がわざわざ出迎えてくださるなんて)
身に余る光栄だ。
しかしエルマンガルド様は気の強そうな眉を顰めている。
「村で一番の器量良しというのは本当なの……?」
顔をまじまじと覗き込まれて、私はぎくりと体を強張らせた。
「こ、この寒さで顔も凍りつきまして。お、おほほ」
「……そう?」
「セリア。私が女中頭のアギャットよ。ついてきなさい」
エルマンガルド様はまだどこか訝しんでいる様子だったけれど、それ以上は追及してこなかった。
……けど、メイドの容姿ってそんなに重要か?
「食後、さっそく仕事を任せますからね」
従者用の食堂で食事をかきこんでいると、女中頭のアギャットが私を見下ろしながら言った。
「さっそく? もうくたくたなんですけど……」
寒空の下、長時間馬車に揺られていたのだ。しかし彼女はフンと笑う。
「倒れながらでもできる仕事よ、セリア」
「へえ、そんな楽な仕事が?」
「ぐふふ!」
背後で笑い声が聞こえて振り返る。
私と同じ年頃のメイドたち三人が耳打ちし合っていた。聞かせられないような話をしているのは明らかだったが、見過ごしてやるような私ではない。
「なーに?」
匙を置いて椅子の背もたれから身を乗り出す。
「言いたいことがあるなら面と向かって言って。先に自己紹介すると、私、喧嘩は大好き」
「あ~ら、ごめんあそばせ? 田舎の訛りがきつくて、なにを言っているのかさっぱりだわぁ!」
真ん中に立つそばかすの少女がわざとらしく首を傾げると、隣にいたメイドが腹を抱えた。
なんだ? こいつら。
「……醜女のくせに」
「なんですって!」
「あーら、ごめんあそばせ! 私の村ではシコメは『だまれ』という意味でしてよ!」
「どっちにしろ悪口でしょうがっ!」
「……ゴホン」
私の頭上でアギャットが咳を一つ。
するとそばかすは唇の端を噛み、仲間二人を引きつれて階段を上っていた。
二人のうち一人が振り返る。黒い髪を三つ編みにした女の子だ。眼鏡を掛けている。
こちらに申し訳なさそうな目線を送ったが、黙って去って行ってしまった。
(陰に隠れておどおどしやがって)
ああいうやつが一番嫌い。
くさくさした心でそんなことを思っていると、また一つ咳ばらいが聞こえた。
「セリア。早く食べてしまって。これから湯あみをするんですからね」
「えっ? い、いいです。寒くて汗なんか一つも掻いてないし、拭いておけば十分だから……」
でも彼女は、どうしても湯あみをしなければないのだと言って聞かない。
食事が終わると、屋敷の裏に建てられた小さな館に通された。
一階の隅の部屋に大きな桶があり、そこに湯が張ってある。
「服は預かるわ。貸しなさい」
「服を脱ぐんですか?」
「脱がないでどうやって湯に浸かるんです」
「そうだけど、いくら同性とはいえ裸を見せるのは……」
「王女様みたいなことを言うのね、セリア。実は一年前、同じことを言って窓から逃げた新米がいたのよ」
「へえ、度胸がありますね、その子。でも私は逃げやしませんよ。……じゃあ、ずっと歌を歌っている。これでいいですか? もし歌が止んだら中へ来て。きっと私、溺れてます」
アギャットはなんとか納得してくれた。扉の前で待っていてくれるという。
彼女が退室した後になって思い出す。自分は歌が下手なんだってことを。
「……ア~アアアア~♪」
歌なんて一つも思い出せなかったけれど、とにかく私は腹から声を出す。アギャットに、「セリアはここにいますよ」と教えるために。
歌いながら服を脱ぎ、腕の赤いリボンもしゅるりと外す。隠していた素肌が現れた。
「……」
たとえ同性であっても、絶対に見せたくない。
この右腕の火傷の痕だけは。
もう十年以上前についた痕だ。痛みも無いし、日常生活に支障をきたすことも無い。ただ肌に瘢痕が残っただけ。
でも。
(……私を嫁になんて、誰がもらう?)
「セリア?」
「……ア~!」
扉の向こうから咳払いが聞こえ、またバカみたいに歌を歌う。「独身の身を嘆く女の歌」だったら練習してもいいかな、なんて、湯を浴びながら思った。
「さあ、まいりましょう。セリア」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! この格好でうろつけっての!?」
湯あみの後には仕事をさせられると聞いていたのに、着替えさせられたのは寝間着だった。
それもなんていうかそのー、……防寒性の無いやつ。
「これでなんの仕事をしろって……、あっ?」
―― 倒れながらでもできる仕事よ。
…………ま、ままま、まさか!?
*
「ひどい。ひどいよ……」
薄着で廊下を歩きながら、私はさめざめと泣いた。
「旦那様のところへ着くまでには泣き止むように。女の涙は殿方を萎えさせるものですよ」
アギャットに窘められたけど、涙は止まる気配が無い。
「だって、ひどいじゃないですか。人を騙して娼婦にさせるだなんて……」
「あなたは娼婦でなくてメイド。ここは娼館ではなくメイド用の家」
「そんなの名目上でしょう!?」
「いいえ。明日から侍女としての仕事を覚えてもらいます。お勉強もしないとね。言葉遣いを正し、お作法を覚えなくては」
「娼婦にさせられるうえ勉強まで!?」
「使いの者が散々説明しましたし納得していたはず。それを今さら蒸し返すだなんてひどいのはどちら?」
「な、納得!? 姉さ……、私が!?」
「『お顔が良いと評判の旦那様の相手なら喜んで』と二つ返事なさったのをお忘れ?」
(セリア姉さんなら言いそう……!)
でも、彼女はそんな話なんてすっかり忘れて駆け落ちしたのだ。奔放すぎる姉を心から呪う。
(ああ、でも)
私は唇を噛む。
(ここで逃げ出したら残った家族全員、村を追い出だされてしまう。きっと)
二人の妹たちの顔を思い浮かべる。セリア姉さんは奔放、私は淑女らしさが皆無。
そんな姉二人を見てきたせいか、彼女たちは慎み深く敬虔だ。
(二人には幸せになってほしい)
私は涙を拭い、覚悟を決めた。
(初めての相手がハンサムということだけが救いだわ)
脚をすくませながらも(名目上の)客室へ入った。アギャットは扉を閉めてしまう。
中は静かだった。屋敷中からかき集めたんじゃないかという数の蝋燭の火が室内を照らしている。天蓋付きの寝台が中央にどんと一つ置かれていた。
その上に人の気配があって、私はまた涙を流し、震えだしてしまう。
蜂も蛇も怖くないのに、人間の男なんかに怯えている自分が情けない。
(えーい、妹たちのためだー!)
意を決して顔を上げる。
「……!」
一人の青年を前に、私は目を丸くさせた。
(か、かっこよすぎ……!)
黒い髪。背は高く胸板は厚く鼻筋も通っている。
もし街で見かけたら、誰しもが彼の足元にハンカチーフを投げるに違いない。(拾ってもらいたいからね)。
(かっこいい、けど)
ハンサムなこと以上に私を驚かせる要素があった。
(こんな出迎え方ってある?)
ナスヴェッタ家の当主様と思しき殿方は、寝台の上で腕組みをして立っていたのだ。自分が一番偉いと誇示するように。
(そりゃあ、偉いのは当たり前だけど、情緒もへったくれも無いな……)
これではまるで決闘だ。夜伽が行われようとしているとはとても思えない。
「旦那様。お初目お目にかかります」
とにかく、私は丁寧に頭を下げておいた。
「セリアと言ったか」
闇の中、彼に睨みつけられたのが分かった。
そしてこいつは、私を散々侮辱しやがったのだった。
*
「……●ソッ、あんにゃろー!」
憎しみを込め、桶の底にリネンを叩きつける。石鹸水が派手にこぼれ、地面を濡らした。(洗濯は私の仕事ではないけれど、むしゃくしゃするのでやらせてもらっている)。
「まあ、力があるのね」
洗濯物にあたる私の隣に、桶を持った一人のメイドがやって来た。
おさげに眼鏡。昨日、意地悪そばかす娘の取り巻きをやっていた子だ。
「昨夜はどうだった?」
彼女も腰を下ろし洗濯を始める。
「えっ!? あ、ああ……」
「醜いと罵られ抱いてもらえなかった」だなんて、恥ずかしくて言えやしない。
「もう腰が痛くて堪らないよ、あ、あはは……」
彼女はくすくす笑い始めた。(お、見かけによらず品の無い話題もいけるか?)と思っていると、
「いいの。私はわかってるのよ。セリア」
「え?」
「私の名前はゾエ。……実はね、あの旦那様は誰とも寝ないのよ」
*
「それって、どういう……」
目をぱちくりさせていると、ゾエは眼鏡のレンズを光らせながら淡々と説明をしてくれた。
「こう見えて私はこの家のメイドになって久しいの。……奥様のエルマンガルド様には挨拶したでしょう? 彼女は由緒正しいお家の出自なのだけれど、この家を牛耳るおつもりなのよ。自分の権力を誇示するための一つがあの娼館。あれを建てる資金は奥様の実家が出したの。妾の子をそこに追いやることによって当主のように振舞っているの」
「旦那様はなにも言わないの?」
「消極的なのよ。他人と関わりたくないのね、きっと」
色々ごたついているんだなと思いながら、私はその話を聞いていた。
「……ねえ、客室で実は何も起きていないってこと、ここの従者たちは皆知っている?」
尋ねると、彼女は静かにかぶりを振る。
「あなたと私と、あと何人かだけ。旦那様の夜のお相手をしていることになっている女の子たちだけよ。エルマンガルド様だって、旦那様が夜伽に現を抜かしていると思ってほくそ笑んでるわ」
彼女はレンズの奥の目を細めた。
「へ、へえ……」
「このことは絶対に言いふらさないでね。そばかすの子には特にばれたくないのよ。実は私がこれっぽっちも特別扱いされていないってことがあの子に知られたら、きっといじめられちゃう」
「わかったよ」
口を噤むことが情報料になるのなら安いもんだ。
「ありがとう、セリア。……あら、素敵なリボンをしているのね。でも濡れてしまっているわ」
「ああ、これ」
私は桶に突っ込んでいた右腕を持ち上げてみせる。裾が濡れてしまっていたが、解くわけにはいかなかった。
「言いふらさないでね。実は古傷があるんだ。昔、火事に遭っちゃって」
「今も痛むの?」
彼女は眉を顰めた。
「ううん。心配されるようなことなんてもう一つも無いよ」
秘密を共有する仲間に嘘をついていないことを証明するため、私は雑な洗濯を再開した。
*
三日後、私はまた湯あみをさせられ、客室にやって来た。旦那様は、今夜もカウチで寝ろと言う。
(高価なカウチなんだろうけど、腰が痛くなるんだよな)
むしゃくしゃしてきて暗闇にパンチを繰り出す。
(……あっ)
拳の先にあるものを見つけ、私は慌ててカウチを下りた。薄い寝間着の裾をはためかせ、ガラスのはめ込まれた窓に近づく。
(また!)
窓枠によって四角にくり抜かれた夜空に、一筋の光が走った。
(もう流星群の季節かあ)
冬の入り口に見られる流星群を、私は毎年心待ちにしている。今年はごたごたしていてうっかり忘れてしまったけれど、こうしてまた拝むことができた。
胸の前で手を組み、星に願い事をする。
(セリア姉さんが元気でやっていますように。妹たちがお嫁に行けますように。……それから、あの男の子が元気でやってますように)
ファーストネームも住んでいる場所も知らない男の子のために願う。
そこではたと気付いた。あれは十年も前の出来事なのだ。彼はもう立派な成人男性になっているはず。
(生きているといいけれど……)
リボンの上から右腕を擦った。生きてくれていたとしても、リボンなんかでは隠しきれないほどの痕が彼の身体に残っているに違いない。
「脱走するのはいいが足を滑らせるなよ」
はっと振り返る。寝台の上で旦那様が上体を起こしたのがわかった。
「も、申し訳ありません。起こしましたか?」
「ああ。すっかり起こされた」
彼はでかでかとため息をついた。
「そろそろ部屋に戻れ。エルマンガルド……、あの女狐ももう寝ただろうから」
「め、女狐……」
「言いつけるか?」
ふ、と短いため息のような音がした。
(わ、笑ったのかな?)
彼は寝台から窓のほうへ身を乗り出す。
「今……?」
「流星群です。私もさっき気付きました。きっと今夜が見頃です」
「もうそんな季節か」
彼は敷物の上に下り立った。夜空を眺めるため私と並ぶ。
蝋燭の明かりに彼の顔が照らされている。野を駆けまわる少年のように目をきらきらさせていた。
「星がお好きですか?」
「母とよく見ていたな」
「……そうですか」
「母」という単語に反応しないよう心掛けた。きっと先代の妾のことだろう。
「私が妾の子どもだという噂は聞いたことがあるか?」
「……」
迷った末、頷く。
「母は今、どこにいるかもわからない」
彼の口ぶりは静かだった。
「ただ、彼女もこうして星を眺めてくれていたら、と思う」
窓枠のずっと向こうに再び光が走った。彼は気付かない。
「……旦那様、よろしければ」
*
「う、ううっ」
「もうちょっとです! 男なんですから根性見せてください!」
私たちは部屋を抜け出し、夜の庭を駆け、……そして、木登りをしていた。
部屋にあったリネンやら毛布やらを身体中に巻き付けてきたけれど、やはり寒い。びゅうっと風が吹きつけると身震いが起きる。
だって、せっかくの流星群だ。部屋から眺めるだけなんて勿体ない。
私は枝を跨ぎ、幹にしがみついている旦那様の手をとろうとした。
―― 私には一切触れるなよ。
耳元で冷たい言葉がよみがえる。
しかし彼は手を取ってくれた。骨ばった、温かい手だった。
「お、おまえ、嫁入り前だろう。いくらなんでもその体勢は……」
彼は手が触れ合ったことよりも、私の大股開きが気になるようだった。
「旦那様に嫁入りするわけではありませんから! あ、星!」
「今は木登りに集中してくれ!」
やっと一番太い枝にたどり着いた。二人で並んで座る。
「下りる時はどうするんだ……」
旦那様は怖気づいている。誤って落ちたら怪我をするどころか、最悪死ぬだろうなという高さだ。
「下じゃなくて、上を見てくださいよ」
「……」
彼は息を呑んだ。夜空に幾筋もの光の線が走っていく。
「お願いし放題ですね。何を願いますか?」
「……醜い顔と言ってしまったことを許してもらえるようにと。……セリア、おまえに要らぬことを言ってしまった。申し訳なく思っている」
「そうですね。『出会った女の中でおまえが一番美しい』と言ってくれたら許しましょうか」
「……オマエガ、イチバン、ウツクシイ」
「棒読みじゃないですか。……ま、いいです」
特別に許してあげることにした。
神様が光を撒くこの空に免じて。
「気になっていたのだが……、そのリボンは?」
「ああ。別に、リボンを巻いて女らしくしたいわけじゃないですよ。……お守りみたいなものです」
「大切なものなのか」
「リボン自体は別に。姉からのお下がりです」
お下がりというのは嘘で、本当は失敬したものだ。
「腕に巻くことに意味があるんですよ」
「そうか……」
「あ、二個も流れましたよ!」
はしゃいだ声を出し、私はまた彼の顔を上に向かせた。
次の日の夜。
侍女としてのお勉強を終え自分の寝台に戻ると、枕元に何か置かれていた。
「……わあ!」
夜空を思わせる濃い青の、上等なリボンだった。
(意外と気が利くんじゃない)
贈り主の顔を思い浮かべ、自然と顔がほころんだ。
また次の日の夕方。
お屋敷のホールをざわつかせる事件が発生した。
「旦那様! エルマンガルド様! セリアは器量は良いようですが、この火傷の痕を隠していました! 旦那様に抱かれるのも拒否したとか!」
おい、まじか? という気持ちで私はゾエの咆哮を聞いていた。
敵を討った後みたいな顔の彼女は、左手で私の右腕を高く持ち上げている。
そして片手には、不意打ちで解かれてしまった青いリボンがぶら下がっていた。
つまり今、私の火傷の痕がさらけ出されている状態だった。
「……!」
エルマンガルド様の横で、旦那様が目を見開く。
*
客室という名目を与えられた部屋の蝋燭は今、一つも灯されていない。
「だ、旦那様。その」
「腕を見せて」
「え……?」
まだ微かに日の差す窓辺に立ち、私はおずおずとリボンの巻かれていない右腕を差し出した。痕の残る素肌を旦那様の手が撫でる。
「……っ」
私は思わず腕を引っ込めてしまった。
「も、申し訳ありません」
無礼を詫びる私に、彼は静かに「痛むのか」と尋ねてくる。
「いいえ」
痛むのは傷跡ではなく、胸のほうだ。
ずっと独りかもしれないと思うと怖くなることがある。
とにかく、器量を買われてこの屋敷に来たのだ。これ以上はここにいられない。
「明日の朝、屋敷を去ります。腕のことを隠していて、申し訳ありませんでした」
深く頭を垂れた。
「どんな罰も受けます」
声が震える。
「ですが、私の家族には容赦して頂けないでしょうか。まだ幼い妹たちがおります。貰い手がなくなることだけは避けたいのです」
「……おまえ、セリアという名前は真か?」
己の耳を疑い、顔を上げた。
「本当はクラリスではないのか?」
「な、なぜそれを」
顔から血の気が引いていく。彼は怒るでも驚くでもなく、ただ私を見返す。
「やはりな。クラリスという名前、赤い髪、火傷……」
二の句が継げずにいると彼は静かに頷いた。
「ずっと探していた。謝らなければならないのはこちらのほうだ」
「探す? 謝るって……?」
「もう十年以上前の夜だ。私は母の元から無理やり引き離され、馬車に乗せられていた。ナスヴェッタ家の屋敷に連れて行かれるためだ」
しかし途中で馬車の車輪の具合が悪くなり、ある村に立ち寄ろうとしていた。
村の名前を聞き、息が止まる。私が暮らしていた場所だった。
「ま、まさか」
旦那様の瞳の中に火の粉がちらついた気がした。
あの日の光景が幻燈のように思い浮かぶ。
*
その日は村の祭りがあり、子どもたちも夜更かしが許されていた。
私は祭りには顔を出さず、闇夜の中で木登りをしていた。よそから来たという美しい男の子をこっそり連れ出して。
彼と一緒に流星群を見ようとしたのだ。
―― なんだろう?
森と村の境目を見下ろすと、やけに明るい。
「星が落ちたのかも」と思って胸をときめかせたが、それは炎だった。男の子は「母さんからの手紙が燃えちゃう」と泣き叫んだ。
二人で木から下り、無我夢中で走った。燃えていたのは、男の子が乗ってきた馬車だった。ランタンが倒れたらしい。
彼は躊躇せず火の中にとび込んだ。私は燃える馬車から彼を引きずり出したところで気絶した。
自分の腕の痛みに気付いたのは目が覚めた後だ。
男の子を救い出した礼として、そして嫁入り前の少女に火傷を負わせてしまった詫びとして、実家は多額の金を受け取ったという。
しかし、彼がどこの誰かという情報は一切教えてもらえなかったそうだ。
*
「あ、あのときの……?」
旦那様は服のボタンを外し始めた。上半身をさらけ出し踵を返す。
「あっ!」
つい口に手を当てた。
自分の右腕と同じ種類の傷痕が彼の大きな背中を覆っていた。私は無意識のうちに手を伸ばしその肌に触れていた。
―― 一切触れるなよ。
―― あの旦那様は誰とも寝ないのよ。
背中を見せてもらった今、彼が他者と触れ合うことを避ける理由が痛いほどにわかる気がした。
「また会いたいと思っていた。会って、直接謝罪をしたいと」
服を直すと彼は再び向き直る。
「妹の嫁入りが心配だと言っていたな。おまえに縁談が来たことは無かったのか?」
「ありませんでした」
「……火傷のせいか?」
「いいえ」
私は明るく笑う。
「男勝りなんです。私は器量はそこそこですが」
「自分で言うのか」
「たとえ嫁に出されたとしても、この性格じゃ三日で追い返されます」
この腕を憂うことがあっても、そう思い込むことにしている。
「では、ずっとここにいればいい」
旦那様は戸惑う私の手を優しく取り、甲に口づけした。
「クラリス。ここにいて」
甘く優しい響きが私の耳朶をくすぐった。
……結局、ナスヴェッタ家のご当主様は生涯誰とも結婚しなかった。勿論お世継ぎも生まれず、遠い遠い親戚が後を継いだという。
天に召されていく彼の傍らには、長年仕えた一人のメイドと彼女の子どもたち、そして孫までいたそうな。
めでたし、めでたし。
了