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ブックレビュー

ブックレビュー1 梨木香歩『西の魔女が死んだ』 

作者: みかげ石

 この本を最初に読んだのはもう二十年も前のことで、そのときはよくある児童文学のひとつだろうとただ通り過ぎた小説でした。もう一度読み直そうと思ったのは、彼女の別の作品に最近深く感銘を受けたのがきっかけで、「きっとあのときの私は何か大切なものを見落としていたはずだ」と思ったからです。

 あのころの私は今の私なんかよりずっと頭がよくて、感受性も豊かで、難しい言葉だって知っていたように思うのですが、どうして彼はこんなに素敵な小説を忘れ去ってしまったのか、不思議に思います。まぁ、私のことはこれくらいで。

 


梨木香歩著 『西の魔女が死んだ』 新潮文庫

おすすめ度 ☆4.5(10段階の9)


あらすじ

 中学校に入ったばかりの五月に学校に行けなくなった少女まいは、母の提案から持病のぜん息の療養もかねて田舎の祖母の家で暮らすことになります。

 若くして日本人の夫に嫁いだ英国人の祖母のもと、豊かな自然だったり、自然と争うことのない生活の知恵に触れながら、彼女の血に由来する「魔女としての生き方」を日々の暮らしの中で教わっていきます。

 どんな出来事が起こっても、決して悪いほうには囚われず、自分がほんとうに聴きたいものの声を聞く。祖母から教わったそんな秘訣を胸に、まいは良い魔女としての修練を始めていきます。


レビュー

 あらすじからも察しはつくでしょうが、この作品は幻想的というよりはむしろ現実的で、どちらかと言えば小さな物語と言えるのかもしれません。それでも実際に読んでみると、まるでそうではなかったと思い知らされます。

 作品が扱うのは、新たな学校生活に挫折した少女が田舎の祖母のもとで過ごすひと月あまりの生活のことです。裏の林から採れた野いちごでジャムをつくったり、洗濯したシーツを清浄なラベンダーの茂みに乾して匂いを染みこませたり、菜園の虫除けにむせ返るほどのすがすがしい草いきれのするミントやセージで作ったハーブティーを庭中に注いでみたりと、そこでは色彩と香りに満ちた美しい日常が描かれていて、まいはまるで季節のただなかで時を忘れたように心を奪われながら日々を過ごしていきます。

 まいの視点を通じて描かれる祖母の日常は、地に足のついた現実的なものでありながら、少女の驚きとしっとりとした情感を忍ばせたどこか幻想的な色味を帯びていますし、その豊かな筆致は最後の場面でまいに訪れる――まいにだけ訪れる、とも言えるでしょう――結末へと確かに繋がりゆくものがあると感じさせられました。


 ずっといたい世界とずっとはいられない世界、ここにいる私と本来あちらにいるべき私、生きなければならない身体を持った私と死んだあとの魂の私、清浄で美しいものと憎悪すべき汚らわしいもの、私の愛する祖母と私を愛する祖母――。

 まいの繊細な感性は何度もふたつのもので揺れ、時にはそれらの極を振り切るようにして読み手の心を強く揺さぶりますが、祖母の死を受け入れるに至るまでのラストを読むと、彼女はこうした二極のものからやがて解き放たれるのだろうと、私はそう信じることができました。


 この作品が描いているのは、少女の心の再生に繋がった祖母とのまばゆいひとときの生活なのではないでしょう。この物語には、そこから歩き出し、また何度でもそこに立ち返るような、自らの人生にかける少女の壮大な野心のようなものが見え隠れしているからです。

 読んでいると自然にそう思わされるだけの少女の決意を滲ませた足音が聞こえてくるようですし、そういう意味でこの小説は、効果的に配置された近景から、そこに開かれてある遠景へとそれとなく視線を誘うといった、巧みな風景画のような構図と射程を忍ばせていると言えるでしょう。 

 そうして、最後までこの作品を読まれた方はおそらく、私と同じ思いを胸にするのだと思います。少女はきっと、すでに魔女としての道を自ら歩み始めていたのだろうと。


 この小説は、私にとって言えば何ひとつ欠くことのない、ほとんど完全な作品と言ってもよいもので、私の求める言葉や情景がそれこそすき間なく描かれています。私にとって梨木香歩という作家はそういう存在になりつつあるのでしょうが、この盲目的な信頼を差し引いても紹介したいという意味で評点は9としておきます。




(以下はネタバレ込みの個人的な感想です。この小説を読んでみようかと思った方はなおのこと読まない方がよいでしょう)




 私が強く惹かれたのは、まいという少女の持つ豊かな感受性とその脆さです。

 まいは大人たちの声にとても敏感です。これまでは彼らが望む道を大過なく歩むことのできた聡明なまいが、登校拒否を宣言した最初の夜にしたことは、ベッドの中で単身赴任のパパへと電話をかけるママの声に耳をそばだてることでした。

 「昔から扱いにくい子」、「生きていきにくいタイプの子」。娘を案ずるママの本音を耳にしたまいは、ショックを受けつつもそうしてひとり呟きます。「それは認めざるをえないわ」と。


 まいという13才の少女は、母の下した評価がけっして不当なものではないと、すでに知っていたのです。そして彼女は母の正当な評価をその身に浴びるために耳をそばだてていた。それも「全身を耳のようにして身動きひとつせず聞いていた」というのです。

 そうやってこの物語は、少女が自らを罰するところから始められます。誰を恨むでもなく、周囲の理解を得られないことを嘆くでもなく、まいは自らの人生に訪れた最初の危機を、自分のものだと深く受け止めるところから旅立つのです。私はそのことに強い共感を覚えましたし、物語が動き始める最初の力を与えるくだりとして、とても説得的なものを感じました。


 たとえ輪郭はおぼろげでも、少女はすでに自らの人格や人間性について確かな感触を得ています。まいが特別なのではありません。彼女のような年頃は普段はあまり語りたがらないというだけで、ひとたびそうしたものを語る手立てを得てしまうと、彼らは驚くほど怜悧で隙のない美しい言葉を、それこそ容赦なく並び立ててみせるものです。

(どの学校にもきっと何人かはいたはずで、私はどういうめぐりあわせか、不思議とそういう人間に引き寄せられては、彼らに親しみを込めて笑われながら学生時代を過ごしたものです。何を理解するにしても、彼らと私の間にはいつも時差がありましたし、「何もないところで躓く理由が分からない」とよく呆れられたものですが、それでも彼らが私の手を離すことはありませんでした。当時はただ不思議でしたが、今になって思えば彼らはきっと手を引いてでも、誰かと同じ景色を分かちたかったのだろうと思います)


 話が逸れました。私が言いたかったのは、彼女たちの世代をけっして見くびってはならないということです。目に映る世界を大人たちの案内に従ってひととおり巡回したところの彼らは、ただこの世界に慣れていくのではありません。自らの見聞と検分によって、この世界が「ほんとうは」どういうものなのか、今度は自らの意思でそれを組み替えていくのです。

 クールに装いたがる彼らの心の中には海が沸き立つほどのエネルギーなり、目に映るものすべてに好悪の裁定を下さずにはおけないほどの豊かな感受性の海が広がっていて、彼らはそうしたものをほとんど抜身のままに振り回しては、きっと一人ひとりが心の内で自らの世界を創造していくのでしょう。世界は本来このようなものでなければならない、というふうに。あるいはこうも言えるでしょう。世界はどうして、私の望むものによって創られてはいないのか、とも。

(私にはそれが、神話が世界の生成を描き出すときのあの途方のない情熱と同根のもののように思えます。もしくはそれがもう少し熱を穏やかにして整形させたときには、物語の端緒と呼べるようなものであるようにも思います)


 そうやって彼らを評価してしまうと、少女が優れた観察眼を持ち、みずみずしく輝かしい文章を紡いだからといって、それが「文学的な要請」によるものと考えることは、おそらくもうできません。むしろ、まいが心を傾けたものが「彼女の要請」に沿って描き出されたと受け取る方がごく自然なふるまいですし、この物語の奥行きだってはるかに広がりゆくように私には思えるからです。そしてそうでなければ、この物語の胸を打つ結末はひとつの美しい奇跡として済まされてしまうことでしょう。すなわちあれは、小説だから起きたことなのだろうと。


 それが悪いことだとは言いませんし、あの結末に触れて「ああ、よかったね、まい」と涙すること以上に誠実な受けとめ方があるはずもありません。

 ですから、私が言いたいのはただ次のことです。あれは小説に許された見目のよい奇跡なのではありません。そうではなくて、あの訪れを予感させるだけの確かな準備をしていた少女の姿に私たちはただ、静かに胸を打たれるのです。

 あの祖母の声は、まいだけが手繰り寄せることのできた、必然なるものの声だったと私は思います。彼女の大好きだったおばあちゃんの言葉を借りれば、「物事の流れに沿った正しい願いが光となって実現していく」その確かな現れだったのでしょう。


 どんな出来事が起こっても、決して悪いほうには囚われず、自分がほんとうに聴きたいものの声を聞く――。

 それはなんて現実的で、幻想的な生き方だろうと私は思います。私だってそんなふうに生きられたならと何だか泣きたくなってしまうような言葉ですが、この小説を読んでいると、もしかすればと思ってしまいます。もしかすれば、私にもそういう生き方が、今からだってできるんじゃないかと。

 まさか。今さらそんなことを、どうやって? おそらくは、まいと同じように信じるのでしょう。自分の薄弱な意志の力を、どこまでも疑り深く、ただただじっと耐えるようにして、そうやって信じていくしかないのでしょう。まいのおばあちゃんは言っています。


「……最初は何も変わらないように思います。それに打ち勝って、ただ黙々と続けるのです。そうして、もう永久に何も変わらないんじゃないかと思われるころ、ようやく、以前の自分とは違う自分を発見するような出来事が起こるでしょう。そしてまた、地道な努力を続ける、退屈な日々の連続で、また、ある日突然、今までの自分とは更に違う自分を見つけることになる。それの繰り返しです」


 最後にはまいに秘蹟を残して去ったおばあちゃんですが、彼女の人生の本領はあくまでこの言葉の内にあったのでしょう。そうしてこの息の長い真実の言葉に適うだけの歩みを、きっとまいは続けていくのです。そうであるのなら、彼女の涙に立ち会うことのできた私たちもまた……。



 すっかり長くなりました。ほかにも書きたいことはあったのですが、最後にひとつだけ。

 この小説にはまいの外見を思わせる描写が(おそらく何ひとつ)描かれていません。『羊と鋼の森』でしたか、あれの外村青年と同じで、どちらの作品も優れて感覚的で豊かな色彩を持ちながら、どうしてか透明感のある肌合いなのは、そういうところからもアプローチができるのかもしれません。

 こうして思うことは尽きませんが、いずれにせよ、私にとってこの作品は、どうすればこの物語を忘れることができるのか、まるで考えもつかないような小説のひとつです。

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