瓢箪の巫女 ~ 真紅の着物
真紅の着物をまとい、背を向けて座った女が、するりと着物を下ろした。
背中の半分ほどがあわらになり、そこへ長い黒髪が流れ落ちる。
(想像以上、だな)
真紅の着物から現れた、華奢で色白な体と、そこに落ちる美しい黒髪。
揺らめく炎の中に浮かび上がる清らかな美しさに、さすがは巫女か、と感心したとき。
女が振り返り、顔の半分をこちらに見せた。
切れ長の目で俺をとらえて微笑を浮かべる。その途端、えもいわれぬ色香が立ち上った。
(これは、いかん)
思わず、息を呑んだ。
誰にも見せぬ、女としての美しさを。
愛しい男だけには見せている、そんな艶かしさ。
齢七十を超え、とうに枯れたはずの情欲が湧き上がる。俺が若い男ならば、我を忘れて女を抱き締めたかもしれない。
「これでよいかの?」
女の声に、我に返った。
「うむ。十分だ。では……しばしそのままで」
俺は大きく息を吸い、気持ちを落ち着けると。
絵筆をとり、久しく忘れていた情欲に突き動かされながら、女の姿を写し始めた。
※ ※ ※
五日前の夕刻。
土砂降りの雨の中、女が一人、訪ねてきた。
行李を背負い、鈴を結わえた大きな瓢箪を持っていた。さて何者かと目を細めたら、旅の巫女だと告げた。
女は、玲と名乗った。
「雨で難儀しておっての。軒先でよいから、休ませてもらえぬか?」
「軒先と言わず、あがってもらってもかまわぬが」
俺は首を傾げた。
三十路手前の、美しい巫女だ。いくらでも泊めてくれる家があるだろう。なぜわざわざ、こんな村外れにある俺の家を訪ねてきたのだろうか。
「春は鬻いでおらぬのでな」
俺の疑念を見て取ったか、玲は肩をすくめた。
旅の巫女には、遊女を兼ね春を鬻ぐ者が多い。だが、この女はそうではないらしい。
「なるほど。それで枯れたジジイの家を選んだか」
「掃除ぐらいなら、やらせていただくがの」
家の中を見て、玲が笑う。男やもめの家は、散らかり放題で眠る場所もない。
「では宿代として、家の片づけでもしてもらおうか」
「承知した」
玲は手際よく片づけを終えると、戸を隔てた奥の部屋を寝床とした。
部屋に入り、しばらく。
玲は、雨で濡れ汚れた着物を脱ぎ、巫女の姿で戻って来た。
静かで、凛とした佇まい。これは絵になるなと、つい目を奪われていたら。
「おぬし、絵を描くのじゃな」
そんなことを尋ねられた。
「あん? ああ」
玲が寝床とした部屋は、俺が絵を描くのに使っていた部屋だった。そういえば筆や顔料が置きっぱなしだ。さぞかし埃をかぶっていることだろう。
「手すさびに、な」
「手すさびというには、かなり本格的なようじゃが」
「少々のめり込んでいた時期があってな。昔のことだ」
「もう描いておらぬのか」
「ああ」
部屋の隅に置かれた、小さな仏壇に目をやる。
「描くものが、いなくなってしまったのでな」
「そうか」
玲はうなずくと、ひざを滑らせ、仏壇の前で手を合わせた。
その祈りの姿に――ゾクリと背が震えた。
本物だった。
時折村を訪れる、旅の巫女たちとはものが違う。これほど自然に、そして静かに祈る姿を見たのは初めてだった。巫女の姿をしているが、この女自身が神か仏ではないかとすら思った。
「神に仕える巫女が、仏壇に手を合わせてよいのか?」
畏れのあまり、言わずもがなのことを口にした。
「死者を悼むのに、神も仏もないじゃろう」
「まあ、そうだな」
「それに、おぬしの妻に挨拶しておかねば祟られそうじゃしの」
「祟る?」
「奥の部屋にあった絵を見たが。女人の、少々艶かしい絵もあった。そなたの妻であろう?」
いかん、そんな物が転がっていたか。
「困っている旅人を助けただけだ。祟るものか」
「さて、どうかの。おぬし、この格好の妾に見惚れておったようじゃが?」
「いや、それは……」
「おぬしの妻に嫉妬されてはかなわぬ。しっかりと祈っておかねばな」
言葉に窮した俺を見て、玲は、クククッ、と喉の奥で笑う。
その笑い方、清らかな巫女というより、男をからかう遊女のようで。
静かな祈りとの落差に、俺は言葉を失った。
春は鬻いでいないと言ってはいたが。
男を知らぬ、というわけではなさそうだった。
※ ※ ※
下絵まで描いたところで、放置していた絵だった。
妻亡き今、この絵を完成させることはできない。このまま俺とともに朽ちていくしかないとあきらめ、半ば強引に記憶の底に沈めていた。
だが、玲と数日を過ごし、なぜかこの絵のことを思い出した。
天気はいっこうに回復せず、やることもない。
俺は埃だらけの桐箱を開き、下絵と真紅の着物を玲に見せた。
「どうだ、ジジイの最後の道楽に、つきあってくれんか」
「これはまた見事な着物じゃな。しかし……」
下絵を見て、玲が静かな眼差しを向けてきた。
「艶かしい姿じゃな。妾にこれを着て、同じ格好をせよと?」
「俺は空想して描くのが苦手でな」
「ふむ」
ひたりと、玲が俺を見据える。
俺の心の奥底を見極めようとするような、そんな目だった。
「つまり、妾にそなたの妻の代わりをせよ、ということじゃな」
「そういうことだ」
「なるほどの……これがそなたの心残りか」
玲がつぶやき、目を閉じる。
ややあって、ため息とともに目を開いた。
「やれやれ。五日も世話になっていては断りにくいの。承知した、着替えてこよう」
真紅の着物を身にまとうと、玲はまた違った美しさを見せた。
まるで高貴な姫君のような、華やかな美しさ。巫女姿とはまるで違う雰囲気に、息を呑むしかない。
「お前、いいとこの出だろう?」
「さて、どうであったかのう」
「ワケありか? まあ、別によいがな」
「その下絵のように、座って背中の中程まで着物を下ろせばよいのじゃな?」
「ああ。できれば、愛しい男だけに見せている、そんなつもりでな」
「愛しい男……のう」
誰を思い浮かべたのか。
玲はやわらかにほほ笑み、背中を向けて座った。
その後、着物を下ろし振り向いたときに見せた艶かしさに動転したが――どうにか気持ちを落ち着け、筆を動かし始めた。
女の美しさ、そして艶かしさ。
その全てを写し取り、描ききらんと、俺は全身全霊を込めた。
腕はすっかりさび付いていた。思うように動かぬ指先をもどかしく思ったが、動かしているうちに勘を取り戻した。
轟々と吹き荒れる嵐が、次第に遠ざかっていく。
あるのは俺と、絵筆と、そしてこの身に滾る情欲のみ。もはや蘇ることはないと思っていた、仄暗さを秘めた男の情欲。それがひとつにまとまり、一本の筋となって俺と絵筆を貫いた。
絵筆を握った手が滑らかに動き始める。
そこからほとばしる情欲が、一幅の絵に化けていく。
「思い出すな」
亡き妻を。
武家の嫡男として生まれながら、絵にうつつを抜かす俺を、笑って許してくれた妻のことを。
「妾は、そなたの妻に似ておるのか?」
「まるで似てないな」
田舎育ちの、野暮ったい女だった。辛抱強く真面目なのが、取り柄と言えば取り柄。
「お前が月なら、妻はスッポンだな」
「ひどい言いようじゃのう」
「だが、心はきれいな女だった」
生涯に一度も、俺を疑わなかった。
俺を信じて、妻として尽くしてくれた。真っすぐに信じてくれる妻がいたから、俺は曲がらずに生きてこれた。
「武士が絵など描くなと、画材一式を父に捨てられたのだがな。妻が、ひそかに拾い集めてこの小屋に隠しておいてくれた」
大っぴらに絵を描くことができなくなった俺は、この小屋で身近な物を描くようになった。
そして、一番近くにいた妻を描くようになった。
――恥ずかしゅうございます。
流行りの美人画を描こうと、妻に着物を崩すよう頼んだ。恥ずかしがしがりながらも応えてくれる妻がかわいらしくて、絵筆を放り投げて抱き締めることもあった。
――絵を描くのでは、ないのですか?
尖らせた口を吸い、情欲に溺れた。その後で、気怠げに恥ずかしがる妻の姿を描いた。
「心がきれいな女の艶姿は、たまらぬものよ」
「おぬしのう。女子相手に語ることではないぞ?」
「おっと失礼。つい、な」
似ても似つかぬというのに、なぜか妻と語らっているような気がして、口が滑ってしまった。
大きく息を吸い、気を取り直す。
筆に絵の具をつけようとして、ふと、部屋の隅に置かれていた瓢箪が目に入った。
「ふむ」
描きかけの絵と、瓢箪を幾度も見比べる。なるほど、いいかもなと、絵筆を置く。
「どうしたのじゃ?」
「少し、物足りない気がしていたのでな」
俺は立ち上がり、瓢箪を手に取った。
瓢箪に結わえられた鈴が、りん、と軽やかに鳴る。
「隣に、置かせてもらうぞ」
瓢箪を玲の傍に置くと、物足りなさが消えた。
俺は再び絵筆を握る。
「ずいぶんと大きな瓢箪だな。重くないのか?」
「慣れておる。それに、あまり小さくては困るのでな」
「困る?」
「死者へ手向ける酒が入っておる。手向けの酒が足りぬとあっては、死者も浮かばれぬであろう?」
「確かに」
瓢箪に、手向けの酒。
その言葉に、記憶がよみがえる。
「そういえば、妻が不思議な話をしていたな」
「どんな話じゃ?」
「古の王と、鎮魂の巫女の伝説だ」
「……ほう」
「この村の東に、大きなイチョウの木が立っていただろう?」
「あったの」
「あのイチョウは樹齢三千年ほどと言われているが……それがまだ若木だった頃の話だ」
その時代、この地には神が跋扈し、人は神の気まぐれに翻弄されるしかなかった。
人の心も、この地も荒れた。それを憂い、人が平和に暮らせる世にせんと、剣を取った男がいた。
そして、同じころ。
名もなき兵士の慰霊のため、美酒が入った瓢箪を手に戦場を渡る巫女がいた。
どこから来てどこへ行くのか、その名すらわからぬ巫女のことを、人々は「瓢箪の巫女」と呼んだ。
「男と巫女は出会い、力を合わせて戦った。巫女の力を借りて荒ぶる神々を鎮めた男は、王となり、この地に平和をもたらしたそうだ」
そして、王は巫女を愛し、王妃にと望んだ。
「だが巫女は王と別れ、長い旅へ出た。神の妻たる者が神に背いた、その罪を償うためらしい。
巫女は、旅の果てに人ならざる身となり、今でも死者の魂を慰める旅を続けているそうだ」
りん、と。
誰も触れていないのに、瓢箪の鈴が鳴った。
「ひょっとして、お前がその『瓢箪の巫女』かい?」
ニヤリと笑って問うた俺に。
玲は「さて、どうかの」と、ふわりと笑うだけだった。
※ ※ ※
最後の一筆を入れ、静かに絵筆を置いた。
「終わったかの」
俺の返事を待たずに、玲が着物を直す。玲が着物を整え終えた頃には、俺の中の情欲も霧散してしまった。
「あまり妾には似ておらぬの」
絵を見た玲が首をかしげた。
「当たり前だ。俺が描く女は、妻だけだ」
「空想して描くのは苦手ではなかったのか?」
「飽きるほど見てきた妻だ。顔だけなら、目を閉じていても描ける」
俺の言葉に、「なるほどの」と玲が笑う。
「妾を通して、亡き妻を思い出していたということか」
「そういうことだ。ま、悪く思わんでくれ」
心から愛した女と出会えた。
心から愛した女が、心から愛してくれた。
そんな女は、生涯一人で十分だ。
「一途な男じゃな」
「お前も、俺と同じではないのか?」
瓢箪を置くために近づいたとき、ちらりと見えた玲の体。
そこには子を産んだ痕があった。
愛してもおらぬ男の子を産むような、そんな女とは思えない。
はたしてどんな男が、玲の心を射止めたのだろうか。
この本物を射止めたのだ、並の男ではあるまい。あるいは本当に玲は「瓢箪の巫女」で、その心を射止めたのは古の王なのかもしれない。
「生涯にただ一人。その想いゆえに苦しみ、迷うことになろうとも、それでいい。そう思わぬか?」
「少々、重いと言われそうじゃがな」
「確かに」
「まあ、その気持ちはわからぬでもないがの」
玲が一度言葉を切り、俺を見据える。
「とはいえ、あまり迷い続けるのはよくないことじゃ」
「ん?」
戸の隙間から光が差し込んでいた。
いつの間にか夜が明け、雨風の音が止まっていた。
「どうやら、嵐は去ったようじゃな」
玲がやわらかな笑顔を浮かべる。
慈愛に満ちた、優しい笑顔。
すべての苦しみを忘れさせてくれるような、穏やかで透き通った笑顔に、俺の心が凪いでいく。
やはり、この女は本物だ。
「さて」
りん、と鈴が鳴る。
玲は、瓢箪を手に取り口を開けると、静かな所作で中身を椀に注いだ。
「心残りであった絵も完成したことじゃ」
注ぎ終えた玲が、俺を見て静かに告げる。
「もう、旅立つがよかろう」
差し出された椀から立ち上るのは、まろやかな酒精の香り。
その香りに、俺はハッとなる。
瓢箪の中身は、死者に手向ける鎮魂の酒。
それを差し出された意味を悟り、俺は、なるほど、とうなずいた。
「生涯ただ一人と決めておるのなら、はよう行っておやり」
「……ああ、そうだな」
俺は椀を手に取り、口に運んだ。
うまい。
するりと喉を通り、胃に落ちて行く。これほどの美酒を飲んだのは初めてだった。
「お気が済みましたか?」
不意に。
懐かしい声に呼ばれた。
もう聞くことはないと思っていた、愛しい声。驚いて顔を上げると、そこにいたのは、玲とは似ても似つかぬ一人の女。
「サヨ……お前、どうして……」
「どうして、ではありません」
ため息を漏らして、妻のサヨが俺の頰をつねる。
「今日来るか、もう来るかと、三途の川のほとりでお待ちしておりましたのに。いつまでも現世をさまようて。このまま悪鬼になってしまうのかと、気が気ではありませんでしたよ」
「すまぬ……あの絵が、心残りでな」
苦労をかけたサヨに礼をしたくて、少々無理をして買い求めた着物だった。
だが着物ができた時、サヨは病を得て寝付いており、着物に袖を通すことができなかった。
そのまま先に逝ってしまったサヨ。
せめて絵の中だけでも着物を着せてやろうと必死で絵筆を動かしたが、どうしても描き上げられなかった。
「だが、ようやく描けた」
「そのお気持ちは、とても嬉しく思います。ですが」
サヨが一呼吸置き、俺の頰をぎゅうぎゅうとつねった。
「うおっ! 痛い、サヨ、痛いぞ!」
「恥ずかしい話をベラベラと。その上、美しい巫女殿に鼻の下を伸ばされて。そうですか、私はスッポンでございますか。どうせ田舎育ちの、垢抜けぬ女でございますよ」
「イタタ。いや、その、だな」
「申し開きは、あちらでお伺いいたします」
サヨが私の手を取り、立ち上がった。
「さあ、参りましょう」
「俺は、お前と同じところへ行けるのか?」
「もちろんです」
サヨが、俺の手を強く握りしめた。
「あの世へ行っても、生まれ変わっても。私を妻にすると約束してくださったではないですか。来ていただかねば困ります」
「そうだったな」
俺は立ち上がり、サヨを抱き寄せた。
慌てた妻を抱き締めて、十数年ぶりに口を吸う。
「あ、あなた。人目がございます」
「よいではないか、夫婦なのだから」
りん、と鈴が鳴る。
振り返ると、静かにほほえむ玲の姿。
「世話になったな……瓢箪の巫女殿」
「もう、迷うでないぞ」
「大丈夫だ。妻が迎えに来てくれたからな。それに」
サヨのいる場所が、俺が目指した場所なのだ。
もう迷うことは、二度とないさ。
◇ ◇ ◇
さまよっていた霊魂を送り、小屋の中を祓い清めたことを伝えると、村長はホッとした表情を浮かべた。
「斉藤様にはお世話になった。無事お送りできてよかった」
「仏壇は、お任せしてよいかの?」
「わかりました。近くの寺に運び、供養してもらいます」
「お布施を求められたら、残された絵と着物を渡せばよい。それで十分であろう」
そう言い残し、私は村を後にした。
「やれやれ、惚気通されてしもうたの」
私を見ながら見ておらず、ただ妻だけを想い続けていた男。その想いゆえに迷うことになったが――あれほど一途に愛されれば、妻の方も本望だっただろう。
雨上がりの、ぬかるんだ山道を一人進む。
顔を上げれば、青い空と、樹齢三千年になろうとするイチョウの大木。
「三千年、か。人も国も、とうに消えて森に飲み込まれたというのに……そなたのことが伝わっておったぞ、多々良」
りん、と瓢箪の鈴が鳴る。
からかうような鈴の音に、私は小さく笑う。
「うむ、そうじゃな。妻としては、誇らしい気分じゃ」
山道は途中で終わっていた。
その先は、獣道すらない深い森。かつてここには王墓へ通じる道があったが、それを知る者はとうの昔にいなくなった。
寂しく思ったこともあった。
だが、あの男が築いたものが、形を変え時を超え、今の人の営みにつながっている。伝説という形で伝わっているのなら、それで十分だ。
「さて、せっかく近くまで来たのじゃ。久方ぶりに、墓参りでもしていこうかの」
りん、と鈴を一つ鳴らして。
私は迷うことなく、愛した男が眠る墓所を目指し、道なき森の中へと足を進めた。