素直になれない令嬢は、記憶がなくなって愛妻家に変身した旦那さまに翻弄されておりまして
「遠乗りに行く日に限って雨だなんて。お陰であなたと屋敷に閉じ込められる羽目になってしまいましたよ、シャーリーさん」
「それはこっちのセリフだわ。ミシェルさんの顔を見てたって、愉快な気持ちになんかならないんだもの」
最悪な天気のその日は、最悪な会話から始まった。
「ああ、どうしてあなたなんかと結婚してしまったんでしょう。家同士が決めたこととは言え、しっかりと反対しなかった過去の自分を恨めしく思いますよ」
「あら、私だって後悔してるのよ。自分だけ被害者面しないでくれる?」
不満げな顔をする夫のミシェルさんを私は睨みつける。
私たちが結婚してもう半年。我が家にはケンカの声が絶えなかった。理由は多分、性格の不一致とかその辺りだろう。
「シャーリーさんは本当に口の減らない人ですね」
ミシェルさんが酷薄に目を細める。
一見すると柔和そうな顔立ちなのに、その中身は冷たくて無愛想で自分勝手。挙式の当日に顔を合わせた私の結婚相手は、事前に聞いていた通りの人柄だった。
「人のこと言えないでしょ」
私は口をすぼめつつ、心の中でため息を吐いた。
本当はいつまでもケンカなんてしたくない。でも、私はお世辞にも従順とは言い難い性格だ。ケンカ腰で来られると、つい意地を張ってしまう。
本当はさっきだって、『あいにくの天気だけど、遠乗りの代わりにダンスでもどう?』って誘おうと思っていたのに……。
「もう行きます。愛してもいない妻と立ち話するほど、僕は暇じゃないんですよ」
「そっちから話しかけてきたくせに!」
私は背を向けて階段を降りていくミシェルさんを罵った。彼が振り向きながら反論する。
「僕はこう言おうと思っただけですよ。こんな雨の日は……」
ミシェルさんの体がぐらりと傾いて、続きの言葉は聞き取れなかった。あっと思った時には、夫は視界から消えている。
「ミシェルさん!」
きっと足を踏み外したんだろう。私はまっ青になって階段を駆け下りた。踊り場で倒れているミシェルさんは、ピクリとも動いていない。
「ミ、ミシェルさん……」
私はその場にへたり込む。まさかこの年で未亡人になるなんて……!
「う……」
でも、心配したようなことは起こらなかった。ミシェルさんが軽く呻いたんだ。どうやら生きているらしい。
「何だ……びっくりさせないでよ……」
ミシェルさんが頭を押さえながら起き上がり、私は胸をなで下ろす。
だけどそんな安心は、ミシェルさんの次の一言で吹き飛んでしまった。
「……どちら様ですか?」
「ちょっと、何言って……」
人の悪いミシェルさんのことだから、こっちをからかっているんだろうと思って私は眉をひそめた。
でも、彼の瞳があんまりにも純真無垢なことに気が付いてしまい、私は口を閉ざす。
「……ミシェルさん?」
「それにここはどこです? 僕は……こんなところで一体何を?」
ミシェルさんは迷子の子どもみたいに落ち着かない様子だった。私の背中を冷や汗が伝う。
私の直感が囁いていた。もしかしたらこれは、すごく厄介な状況なんじゃないの? って。
****
「どうやらミシェル様は記憶喪失になってしまったようですな」
やって来た医師が下した診断に、私は頭を抱えた。
「記憶喪失? 覚えていないってことですか? 何も?」
ここはミシェルさんの部屋の中だ。壁際には困惑した顔の使用人が並び、ベッドのミシェルさんを見ている。
けれど、困っているのは当の本人も同じらしい。上半身をヘッドボードに預け、物珍しさと不安が混じった目で辺りを観察している。自分の家なのに、まるで他人の住まいに連れて来られたみたいな雰囲気である。
いつもの刺々しくて堂々とした態度はどこへやら、だ。医者から説明されなくても、彼の記憶が飛んでしまっているということくらい一目瞭然だった。
「何も、ということはないようです。幼い頃のことは覚えておいでですよ」
「……僕は病気なんですか?」
ミシェルさんがビクビクとした声を出した。こんな自信がなさそうな顔は初めて見た。
「治らなくて死んじゃったりとか……?」
「いえいえ、死にはしませんよ」
蒼白になるミシェルさんをなだめるように、医師が彼の肩に手を置いた。
「きっかけさえあれば、きっとすぐに思い出せます。では、私はこれで……」
医師はさっさと帰っていった。……え? 何これ? さじを投げられた、ってこと?
あのヤブ医者! と私は心の中でなじる。もう二度とこの家の敷居をまたがせるもんか!
「あの……」
私が憤っていると、ミシェルさんが話しかけてくる。医師の言葉で少しは不安も和らいだのか、今度は好奇心が抑えられないって感じの顔になっていた。
「あなた……シャーリーさん、でしたっけ? 僕の奥さんなんですよね?」
「ええ、一応は」
私が頷いてみせると、ミシェルさんは目を輝かせた。……何? この反応。
「すごいです! こんな綺麗な人と結婚できるなんて! 僕って幸せ者ですね!」
ミシェルさんが私の手の甲にキスをした。まさかの行動に使用人たちはどよめき、私もポカンとなってしまう。
私のことを綺麗って言った? あのミシェルさんが? 今まで一度も私を褒めたことのなかったミシェルさんが?
しかも自分を『幸せ者』って? ついさっきまで、『あなたとの結婚を後悔してる』って言ってたのに?
「僕、記憶がなくても夫としての役目をしっかり果たしてみせますから、よろしくお願いしますね、シャーリーさん!」
頭の中にいくつもの疑問符が駆け巡っていく私とは対照的に、ミシェルは邪気のない顔でニコニコしていたのだった。
****
「シャーリーさん、一緒にご飯、食べましょう!」
翌日。食堂で朝食を取っていると、ミシェルさんが元気よく近づいてきた。私の食べているものを見て口元を綻ばせる。
「お豆のサラダ! 美味しそうですね! お好きなんですか?」
「……ええ」
「わあ! 僕と一緒です!」
子犬みたいにはしゃいでいるミシェルさんに、私は戸惑いを隠せない。
……この人、本当にミシェルさんよね?
なんて言うか無邪気過ぎる。私と同い年のはずなのに、年下と接している気分だ。
記憶喪失って、人格にまで影響を与えちゃうの?
「今日の夕食もお豆のメニューにしてもらいましょうね。それから……他に好きなものとかありますか? 僕の力の及ぶ範囲でご用意しますよ!」
「……何でそんなに気を使ってくれるの?」
もはや別人としか思えないミシェルさんに対し、私は薄気味の悪さを覚えていた。いっそのこと、裏があるって分かった方が気が楽になるというものだ。
でも、予想に反してミシェルさんは「それが当然のことだからです」と返す。
「だって僕たち、夫婦でしょう? 夫は奥さんに愛情をいっぱい注ぐものですから。僕の父は母に対して、いつもそうしていましたよ?」
「……そう」
ふと、私はミシェルさんがすでに両親を亡くしていることを思い出した。記憶がない彼は、そのことすらも忘れてしまっているのだろう。そう思うと少し気の毒だった。
「ね、だから遠慮しないでください。……あっ、そうだ! 今日は天気もいいですし、外に遊びに行きませんか? 僕、外出するのが好きなんですよ。シャーリーさんはどうです?」
「……別に好きじゃないわ。家で静かにしていたいの」
さっきまでミシェルさんに同情していたというのに、いつものクセで素っ気ない返事をしてしまった。
しまった、と思っていると、案の定ミシェルさんはしゅんとした顔になる。
だけど、私と話すのを止めようとはしなかった。
「お家で何を?」
「何って言われても……。ダンスの練習とかかしら」
「すごいですね。僕、ダンス下手なんですよ」
「……ふーん」
……ああ、なんて適当な返事! 憎まれ口の応酬以外をミシェルさんとするなんてすごく久しぶりだから、ちゃんとした会話の仕方を忘れちゃってるんだわ!
「じゃあ、今日はシャーリー先生にダンスを教えてもらうことにします!」
でも、焦る私に対し、ミシェルさんは全然落ち込んでいなかった。そのあまりの健気さに、私は素直になれない自分が恥ずかしくなってしまう。
朝食を済ませたミシェルさんは、宣言通りに動きやすそうな服に着替えて私の部屋に押しかけてきた。
「先生、お願いします! まずは基本から!」
ミシェルさんは舞踏曲を口ずさみながらステップを踏み始める。けれど、その動きはあまりにもぎこちないものだった。
そう言えばミシェルさんって、舞踏会に行っても絶対に踊ろうとしなかったっけ。いつも「誰があなたなんかと踊れますか」って言ってたけど、もしかしてダンスが下手だから踊りたくなかっただけだったの?
それならそう言ってくれればよかったのに……。もしかしてミシェルさんって、私以上に素直じゃなかったりする?
「先生、どうですか?」
一通り踊り終えたミシェルさんが、頬を上気させながら尋ねてくる。私は「全然ダメだわ」と正直に言った。
「ミシェルさん、動きが硬いのよ。もっと自然にできないの?」
「自然に……」
「ほら、こんな感じよ」
同じパートを踊ってみせる。と言っても、軽く左右にステップを踏むだけなんだけれど。
でも、ミシェルさんは感心したように「わあ!」と歓声を上げた。
「素敵です! 大きな蝶々が舞ってるみたいですよ!」
「蝶々って……大げさな……」
「本当のことですよ! それに踊っている時のシャーリーさんの顔、すごく楽しそうです! もっと近くで見たくなったので、手取り足取り教えてください!」
言うなり、ミシェルさんは私の腰に手を当てて自分の方ヘと引き寄せた。いきなりミシェルさんの顔が迫ってきて、私は悲鳴を上げそうになる。
「近いわ! 離れて!」
思わずミシェルさんに平手打ちを食らわせてしまった。だって、こんな距離でミシェルさんの顔を見るの、結婚式でキスした時以来なんだもの!
突然の拒絶に、ミシェルさんは赤くなった頬を押さえて呆然としている。謝るべきなんだろうけど素直になれなくて、私はそっぽを向いてしまった。
「……今は一人になりたい気分なの」
私はミシェルさんを置いて部屋を出た。廊下を歩きながら、ふつふつと自己嫌悪が沸いてくるのを感じる。
どうして私はこうなんだろう? 会話を続けることもままならず、ダンスの練習も投げ出してしまうなんて、本当にダメな奴だ。
これまでなら意地悪なミシェルさんのせいにすることもできたけど、今はそんな言い訳は通用しない。私の性格が最悪だから、彼に歩み寄ることができないでいるんだ。
そのせいで、せっかく修復できたかもしれない夫婦仲に、またしてもヒビを入れてしまった。
「シャーリーさん!」
あふれ出そうになる涙を懸命に堪えながら階段を降りていると、背後からミシェルさんの声がした。振り返ると、愕然とした顔の夫と目が合う。
「お願いです! 出て行かないでください! 僕は……!」
私の後を追いかけてきたミシェルさんが階段を踏み外した。そのまま私の横を転がっていき、踊り場に倒れ込む。昨日、ミシェルさんが記憶を失った時とまったく同じ光景がそこに広がっていた。
「ミ、ミシェルさ……」
「……行かないでください」
私は慌ててミシェルさんを助けようとしたけれど、介抱される前にミシェルさんは頭を押さえながら自力で起き上がった。
「記憶がなくなる前の僕は、本当に嫌な奴でしたよね。あなたのことを罵って冷遇して……。最低です」
使用人から聞いたのだろうか。昔の自分について、ミシェルさんは嫌悪をにじませながら話していた。
「そんな人が夫なんですから、シャーリーさんが頑なな態度になってしまうのも分かります。でも、僕は生まれ変わりました。だから……チャンスをくれませんか?」
ミシェルさんは私の手を取って哀願した。
「もう昔の嫌な僕には絶対に戻りません。だから、僕と一緒にいてください。あなたのことが……好きなんです。一目見た時から、ずっと」
あまりにも真摯な告白に息ができなくなりそうだった。記憶がなくなってからのミシェルさんと私が過ごした時間は短かったけれど、彼は確かに私に対して愛情を抱いてくれていたんだ。
どれだけ私がへそ曲がりでも、この真剣さを無下にすることなんてできるわけがなかった。
「……行かないわ」
私はミシェルさんを抱きしめていた。彼の体がこんなにも大きくて温かいことを、この瞬間に初めて知った気がする。
「どこへも行かない。約束する」
情けないけれど、こんな一言を言うためだけに途方もない勇気を振り絞らないといけなかった。
それでもミシェルさんはそんな私をバカにしたりはせず、黙って抱きしめ返してくれる。その優しさが何とも言えずに心地いい。
けれど、まだまだ私の意地っぱりは治りそうにない。だって、今胸の内に湧き出てくるこの温かな感情に、名前をつけるのを拒んでしまったのだから。
****
それ以来、私とミシェルさんの関係は少しだけ変わった。会話は前より長続きするようになったし、ダンスの練習も再開した。
天気のいい日は、二人で少し遠出して野山を散策することもある。ミシェルさんに馬の乗り方を教えてもらってからは、もっと遠くまで行くようになった。
少し前までなら想像すらできなかった楽しい日々だ。そうした時間を過ごす中で、私はいつの間にか「ずっとミシェルさんの記憶が戻りませんように」と願うようになっていた。
だって、またあの冷酷なミシェルさんが私の前に現われて、「今までの僕は全部嘘です。あなたのことなんか大嫌いですよ」なんて言い出したら、きっと耐えられないだろうから。
今まで以上に頑なになってしまうって断言できる。そうなったら私たちの結婚生活はお先真っ暗だ。もう二度とミシェルさんと笑い合えないなんて絶対に嫌だった。
けれどある日、そんな最悪の未来の訪れを予感させる出来事が起きてしまった。
「ようやく帰ったのか、バカ孫が」
遠乗りから戻った私たちは来客の存在を使用人に聞かされ、一緒に客間へと向かった。置いてあったソファーにふんぞり返っていたのは、厳格そうな顔にシワが刻まれた老人だ。
「ええと……こちらは?」
私はミシェルさんの方を見て尋ねた。けれどミシェルさんは目をそらしてしまう。老人は鼻を鳴らした。
「聞いたぞ。記憶がないんだとな。で、ワシの顔も忘れてしまったわけか、この祖父不幸者め! 育ててやった恩を忘れたのか!」
祖父……ってことは、ミシェルさんのおじい様? そう言えばミシェルさんって、ご両親を亡くしてからおじい様のところへ引き取られたって聞いたことがあるような……。
結婚の挨拶は代理人を通じて行ったから、ミシェルさんの家族に直接会うのはこれが初めてだ。
それにしても、何だか怖そうな人。刺のある雰囲気が、記憶がなくなる前のミシェルさんにそっくりだ。ミシェルさん、変なところがおじい様に似てしまったらしい。
「おい、ミシェル。何か言ったらどうなんだ」
おじい様に迫られ、ミシェルさんは床に視線を向けたまま棒立ちになっている。こっそりと盗み見た彼の顔からは血の気が引いていた。
ああ、怯えてるんだわ。
ミシェルさん、記憶がないんだもの。だからおじい様のことも忘れているに違いない。この状況はミシェルさんからすれば、全然面識のない老人に一方的に怒鳴られているってことになる。
だとするならば、戸惑ったり、怖がったりしても不思議はなかった。となれば、ここは私がミシェルさんの恐怖を和らげてあげるべきだ。
だって私は、ミシェルさんの奥さんなんだから。
「おじい様、お初にお目にかかります。ミシェルさんの妻、シャーリーです」
私はさりげなくミシェルさんとおじい様の間に割って入った。
「この度はご足労いただき……」
「黙っていろ。ワシは小娘と話しに来たのではない」
しかし、おじい様は私になんて見向きもしなかった。
「ミシェル、お前は妻に対してどういう教育をしているんだ。大して中身もないようなことをキーキーと……。お前の夫としての威厳が足りないからこうなるのだぞ!」
おじい様はミシェルさんを小突く。その拍子に、彼の頭に飾ってあった花が落ちた。
外出先で立ち寄った草原の花を、私がふざけてミシェルさんの髪に挿したものだ。それに気付いたおじい様の顔が歪む。
「男のくせになんと情けないものを付けとるんだ! この軟弱者! そんなことだから階段から落ちたくらいで記憶が飛ぶんだ! ……どうした。何とか言ってみろ、この意気地なし!」
「ちょっと、おじい様!」
あんまりな言い草に耐えられなくなって、私はおじい様に詰め寄った。
「言っていいことと悪いことがありますよ! ミシェルさんの記憶がなくなったのは彼のせいではありません! ましてや意気地なしだなんて! ミシェルさんはとっても勇気のある人です!」
出て行こうとした私を、必死になって呼び止めたミシェルさんの姿を思い出す。素直になれない私には、絶対にできない勇敢な行為だ。
「シャーリーさん……」
ミシェルさんが初めて声を出した。しかし、それがあまりにも頼りない声色だったためなのか、おじい様は「何が勇気だ」と一蹴する。
「こいつは昔から大の意気地なしだった。こんな腑抜けでは家の跡取りにはなれんと思い、厳しく躾治して少しはマシになったと思ったが……。元に戻ってしまったようだな。誰かさんのせいで」
おじい様は私を睨む。まさか、私のせいだった言うの!?
心当たりがなかった私は反論しようとしたけれど、それよりも早く口を開いたのはミシェルさんだった。
「ま、待ってください、おじい様」
どうやらミシェルさんは私を庇おうとしたらしい。しかし、おじい様に一睨みされて固まってしまう。
「記憶もないくせに『おじい様』などと呼ぶな! お前のようなひ弱な男など、孫ではない! お前の記憶が戻るまでは家の後は継がせんぞ! 分かったら出て行け!」
「ここはミシェルさんの家ですよ! それをおじい様が決める権利はありません! それに跡取りとして認めないなんて……」
「黙れ。ワシは誰の指図も受けん。……ああ、そうだ。この決定に不満があるなら、代わりの条件を提示してやってもいいぞ」
理不尽な物言いにカッとなって私は食ってかかったけれど、おじい様は意に介した様子もない。それどころか、私を見て薄ら笑いを浮かべ始めた。
「愚かなる妻よ。ミシェルと離縁しろ。気付いていないのか? お前が全ての元凶だ。お前がミシェルを甘やかすからこうなったのだ。お前がミシェルを意気地なしに変えた。だから、お前さえいなければ万事解決だ」
何を言われたのか分からなかった。離縁? 私とミシェルさんが?
一度も考えたことのない事態に私は立ち竦む。おじい様が冷淡に吐き捨てた。
「記憶が戻らないのもお前のせいじゃないのか? お前はミシェルの記憶を一度でも熱心に取り戻そうとしたか?」
図星を指されて私はたじろぐ。「ずっとミシェルさんの記憶が戻りませんように」という私の願いを見抜かれた気がした。そして、その根底にある「いつまでも今の優しいミシェルさんのままでいて欲しい」というワガママも。
私はそれをささやかな望みだと思っていた。でも、実は違ったんだ。だって今のミシェルさんは、記憶がないせいで肉親の顔すら覚えていない。そして、下手をすれば何もかも失ってしまうくらいの窮地に立たされているんだから。
「シャーリーさん……」
おじい様がこんなことを言い出すとは思ってもいなかったのか、ミシェルさんは震えていた。
その濡れた瞳が訴えている。「行かないでください」と。かつて私を追いかけてきた時と同じだった。
あの時の温かな感情が鮮やかに再現される。ミシェルさんの愛を感じた瞬間に、唇は自然に笑みの形になっていた。
「ミシェルさん、私、約束したわよね。どこへも行かない、って」
私はあふれてくる温かな気持ちを、そっと胸の奥に押し戻した。
「ごめんなさい。その約束、今から破るわ」
私はおじい様に向き直った。
「私、ミシェルさんと離婚します。その代わり、ちゃんとミシェルさんを跡取りとして認めてあげてください」
きっと、これが私にできる最善の方法だ。私がミシェルさんの記憶が戻る妨げになっているのなら、彼とこれ以上一緒にいるべきじゃないんだから。
あの時、ミシェルさんは勇気を出して私のところへ来てくれた。私はそんな彼を見習うことにしたんだ。私は勇気を出した。そして、ミシェルさんの元から立ち去ることを選んだ。
この選択は、あの時私を呼び止めてくれたミシェルさんへの恩返しだ。
私は二人に背を向ける。短い間だったけど楽しかった。記憶をなくしたミシェルさんに愛され、戸惑って……。でも、そうやって振り回してくれたお陰で、強情だった私も少しは変われたはずだ。
胸がひどく痛むけれど、今はそれでよしとしよう。
「五歳で両親を亡くした後、僕は初めておじい様に会いました」
けれど、部屋から出ようとした私はハッとなる。静かだけれどはっきりとした声で、ミシェルさんが自分の過去を語り始めたからだ。
「こっちを黙って見ているおじい様の目がとても怖くて……。僕は事前に考えていた挨拶を全部忘れてしまい、おじい様に「礼儀知らず」と罵られました」
ミシェルさんはおじい様を見つめていた。堂々として、一歩も引く気のない態度。そこに記憶がなくなる前のミシェルさんの面影を見た私は目を見開いた。
「六歳の頃、昼間に聞いた幽霊の話が怖くてお手洗いに行けず、寝具を汚して叱られました。十歳の時、迷い込んで来た犬に追いかけ回され、庭の木に登って降りられなくなりました。僕は泣きましたが、「男なら自分で何とかしろ」とおじい様は助けてくれませんでした……」
まだ続けますか、とミシェルさんが言った。おじい様は首を振る。
「お前、記憶が戻ったのか」
「戻った? まさか」
ミシェルさんが腕組みした。
「僕がいつ『記憶がない』なんて言いました? 勝手に勘違いしたのはそちらでしょう。そこまで耄碌しているとは思いませんでしたよ、おじい様」
ミシェルさんは、出て行こうとする私の腕を取って自分の方へ抱き寄せた。
「シャーリーさんは僕の妻です。おじい様がどんなに喚いたところで、僕の承諾なしには離縁させることなんてできません。そんなことも分からないんですか」
ミシェルさんはおじい様を強く睨みつけた。私はミシェルさんとピタリと体を密着させながら、唖然とその光景を見ている。
「それにここは僕の家です。つまり、ここでの絶対は僕とその妻であるシャーリーさんです。おじい様は招かれざる客なんですよ。そのことを理解したなら出て行ってください」
おじい様の口元が歪む。怒鳴り声が飛び出すかと思って一瞬身を竦ませた私だったけれど、聞こえてきたのは予想に反して笑い声だった。
「よく言った! さすがワシの孫だ、ミシェル!」
散々罵られたにもかかわらず、おじい様は愉快そうだった。
「その覇気! 胆力! まさに跡継ぎの器だ! 許せよ、小娘。甘やかしていたなど、とんでもない誤解だった! ボケ老人の戯言だな! ミシェルを変えたのは間違いなくお前だ!」
ガハハハ、と笑いながらおじい様は帰っていった。あまりの急展開に、私は何が起きたのかさっぱり理解できずにいる。
不意に私の肩から腕を降ろし、ミシェルさんが床にへたり込んだ。
「こ、怖かった……」
ミシェルさんは今にも泣きそうな顔になっていた。先ほどまで見せていた毅然とした態度など、欠片も残っていない。
私は混乱する頭を整理しながらミシェルさんの傍にかがみ込む。
「……記憶喪失って嘘だったの?」
「嘘じゃないです。……少なくとも、初めは」
ミシェルさんが力なく首を振った。
「その後で、また階段から落ちたでしょう? あの時……全部思い出しました」
「じゃあ、何で記憶がないふりなんか……」
「生まれ変わりたかったからです」
ミシェルさんは額を手で押さえた。
「シャーリーさんも聞いていましたよね? 僕はどうしようもない弱虫だったんです。そのことで祖父から怒られ続けた。だから僕は……身近にいる強い人をお手本にすることにしたんです。……それが祖父でした」
私はおじい様とミシェルさんが似ていると感じたけれど、それはあながち間違いでもなかったみたいだ。
「でも、祖父の仮面を被り続けている内に、僕は以前の自分がどんなのだったかを忘れてしまったんです。結婚してからもそれは同じでした。妻であるシャーリーさんに本当はもっと優しくしたい。それなのに、出てくるのは憎まれ口ばかり。こんなことではいけない、とずっと思っていました」
そこに、記憶喪失というまたとない機会が訪れた。おじい様と会ってからの記憶を失ったミシェルさんは、昔の純真な彼に戻ったんだ。
「永遠にあのままでよかったのに……。記憶を取り戻してしまうなんて、自分で自分が嫌になります。シャーリーさんの大嫌いな僕が蘇ってしまった……。それを隠したくて記憶がないふりをしていたんです」
私を追いかけてきた時と同じように、ミシェルさんは素直に自分の気持ちを語っていた。
どうやらミシェルさんは、自由に仮面の着脱ができるようになったらしい。
けれど、彼はそれを少しも喜んでいなかった。また私に嫌われるんじゃないかと怯えている。
それでも彼は勇気を出したんだ。いわれのない罪から私を守るため、そして、私と離ればなれになりたくなかったから……って解釈してもいいのかしら?
その献身に報いる方法を私は一つしか知らなかった。かつてと同じようにミシェルさんを抱きしめる。そして、囁いた。
「好きよ、ミシェルさん」
それは、あの時言えなかった言葉だった。
胸の中に溜っていたモヤモヤしたものが一気に消え去っていくのが分かる。
ちょっとした勇気で、これほどまで澄み渡った気分になれるなんて驚きだ。素直な気持ちを口にするのがこんなにも気持ちいいだなんて……。
かけられた言葉が意外だったからなのか、私の腕の中でミシェルさんは固まっている。当惑したように「どうしてですか……?」と呟くのが聞こえた。
「だって僕……昔の嫌な僕なんですよ。なのに……」
「違うわ」
私は首を振った。
「今のミシェルさんは昔のあなたとは違う。今のミシェルさんは他人の仮面で武装してないじゃない」
おじい様が満足そうだったのも、きっとそのためだ。彼は孫が真の強さを手に入れたと判断したんだ。
「今のミシェルさんは、昔よりもずっと強くて素敵な私の夫よ」
「シャーリーさん……」
「大好き」
掠れた声のミシェルさんを遮るように、私はまた思いの丈を口に出した。何度だって言える。私はミシェルさんのことが好きだ。すごくすごく好きだ。
「……私の方こそごめんなさい。ミシェルさんのことをよく知ろうともせずに、つっけんどんな態度ばかり取って……」
謝罪の言葉も意外なくらいにあっさりと出てきた。きっと、これも私が生まれ変わった証拠だろう。
「謝らないでください!」
戸惑っていたミシェルさんが、ついに私の背中に手を回してきた。骨が軋むくらいに強く抱きしめられる。
「だって悪いのは僕なのに……ああ……でも……僕もあなたのことが大好きです、シャーリーさん!」
張り合うように言って、ミシェルさんは私の顔を間近で覗き込む。
「今度こそ、どこにも行きませんよね?」
「ええ、もちろんよ」
私はもう自分の気持ちと向き合うことから逃げない。やっと素直になれたんだもの。だったら、これからも幸せな結婚生活を送れるはずだ。
「約束するわ」
今度こそ破られることのない誓いの後で、私は愛おしい夫の胸に頬を埋めたのだった。