六十三話・花鬼
縁側に座り、庭に植えたクチナシの花を眺めつつ団子を食べていた鏑鬼家の長女二鬼は、突然目の前に現れた光り輝く門に、串に刺していた団子を思わず落とした。
弟達がこの庭で門を潜ったのは三日前。
その弟達が二人の嫁を連れ帰った事に驚いたのでは無い、二鬼の目の前に現れた三人が全身濡れ鼠の姿であり、弟に至っては着物は斬られ、怪我を負った酷い有様だった為だ。
「妻問いに行ったと思ってたけど、道場破りでもして来たのかい?見た処、死ぬ程の怪我じゃ無いみたいだけど、医者を呼んであげるから、あんたは自分の部屋で寝てな。」
弟の足元から頭までを一通り眺めた姉に、北辰が慌てて言った。
「姉ちゃん、晶子と、孝子は…」
「分かってるよ。…晶子ちゃんと、孝子ちゃんって言うんだね?まずは、体を温めようか?丁度、お風呂が沸いてるから、案内するよ。ああ、孝子ちゃんは腕を怪我してるじゃないか…って、晶子ちゃんの首のその痕は何だい!?先に診てあげるからこっちにおいで。」
燃える様な赤い髪の美女が眉を顰めて言うのに、晶子と孝子は圧倒されつつ、北辰が頷いたのを見て素直に頭を下げた。
孝子と晶子を診て風呂場から戻った二鬼は、弟がまだその場にいる事に溜息を吐いた。
「寝てなって言っただろう。あの子達が心配なのは分かるけど、別に取って食ったりしないさ。」
「…それも、あるけど、そうじゃなくて。…姉ちゃんに、聞いて欲しい事があるんだ。」
その顔は、嫁を連れ帰ったにしては浮かれる事は無く、酷く神妙な顔であった。
二鬼は訝しく思いながら居間に入ると、弟の話に耳を傾けた。
「…そうだったのかい、あの子がねえ、」
二鬼は弟達の親友である法月の一鬼を思った。
そうして、彼の妹であり、二鬼にとっても可愛い妹弟子である蓮華の事も。
「この事、杜慈さんと柚香さんには…」
「言うんじゃないよ。あの子だって、そんな事望んじゃいないだろう。」
「だけど…」
法月の両親である、杜慈と柚香。
北辰と暁が幼い頃、法月の全身に火傷を負わせた時にも双子を責めず、ただ、双子の身を案じてくれた優しい人達…その人達に法月の事を、いや、自分達が法月を殺めた事を知らせずにおく事が良いのか、北辰には分からなかったのだ。
「この世にはね、知らなくちゃならない事もあるけど、知らなくても良い事だって、たくさんあるんだよ。今回のは、知らなくても良い事さ。…だけど、あんた達だけは、この先も、ずっと覚えておきな。あんた達が出来る事は、それだけさ。」
「…うん、そうだな。」
北辰の目に涙が浮かぶ。
二鬼は弟の隣に座ると、何も言わずにその頭を撫でてやった。
北辰と暁が妻を連れて鬼界へ戻って一カ月が過ぎた。
二鬼の言う様に、死ぬ程の怪我では無いものの、それなりに重傷だった彼らは、体中に包帯を巻かれ、床の上の住人になっていたのだが、それも癒え、やっと本日、外出の許可を得る事が出来た。
その間、晶子も体調を崩し、自分の怪我を放って世話をしたがる北辰の姿があったが、すっかり意気投合した孝子と二鬼に咎められ、床に戻される事、数度。
怪我の事を除けば、穏やかな一カ月であっただろう。
そうして今、北辰は晶子と孝子を連れて、法月の実家である花屋の前に立っていた。
緊張で身を固める夫の手に、そっと触れて晶子が微笑む。
北辰はそれを見て、ふっと肩の力を抜くと、店の中へと足を進めた。
店の中は変わらず、色とりどろの花で溢れていた。
北辰はその光景に目を細める。
ここでは三日しか過ぎていないが、北辰達があちらで過ごしたのは一年以上だ。
懐かしい記憶と共に、つい、居る筈の無い幼馴染の姿を探してしまう。
「いらっしゃいませ…あら、鏑鬼の三鬼君じゃない?お嫁さんを連れ帰ったって聞いたけど、そちらのお嬢さん方がそうかしら?」
店の奥から現れたのは、法月の母である柚香だった。
「ああ、柚香さん、こんにちは。うん、こっちが俺の妻の晶子で、隣が暁の妻の孝子だよ。」
「まあ!四鬼君の真名は暁になったのね。良い名前だわ。」
「俺も、北辰って真名を貰ったよ。良い名だろ?」
「ええ、よく似合ってるわ。そう、北辰君に、暁君ね。可愛いお嫁さんを貰ったわねえ。」
にこにこと笑う柚香に、晶子と孝子も頭を下げる。
「うちのお兄ちゃんは、とうとう帰って来なかったから、あちらでお嫁さんを貰ったんだろうけど、北辰君と暁君のお嫁さんがこんなに可愛い人だって知ったら、驚いたでしょうねえ。」
「…きっと、法月の妻も可愛い人だよ。」
「そうかしら?ううん、きっとそうね。」
柚香が「ふふふ」と微笑んだのに、北辰はそっと目を伏せ頷いた。
そうして、瞳を開けると暁に変り、柚香に今日訪れた理由を話し始めた。
「こんにちは、柚香さん。実は、今日はお別れの挨拶に来たんだ。」
「お別れ?」
首を傾げた柚香に、暁は続ける。
「実は、僕達、ここを出ようと思ってるんだ。ここから山を五つ超えた海の見える村…嘉雁村に引っ越そうって北辰と話してね、晶子さんと孝子も同意してくれたから、近い内に出て行く予定。だから、お別れの挨拶に来たんだ。」
「まあ!そうだったの?…寂しくなるわね。」
子供の頃から知っている双子の顔を、いつもの様に見る事が出来なくなる事がとても残念だと柚香は思った。
この双子と柚香の長男は対の存在でもあり、柚香に取っても、もう一人の息子の様な存在であったから。
「向こうに行っても、また顔を見せに戻るから。…それで、杜慈さんは?」
「ああ、お父さんなら三鬼と一緒に寄り合いに出てるわ。呑んで来るって言ってたから、帰るのはきっと遅くなるわね。」
「そっか、なら、また改めて挨拶に来るよ。」
「悪いわねえ…あ!暁君、お嫁さん達にお花を差し上げるわ!私からの結婚祝い!好きなのを持って行ってちょうだい!」
柚香が片目を瞑って、店内の花々を指さした。
遠慮する孝子と晶子の手を取り、彼女達の好みを聞きながら素早く花束を作った柚香は、嬉しそうに笑って暁達を見送ってくれた。
暁は、花束を持った妻達と並んでゆっくりと家路を歩いた。
孝子の腕には目に鮮やかな黄色い大輪の花が咲き、晶子の腕には小振りで可愛らしい桃色の花を取り巻く様に白い花が咲いている。
「私、海を見るのは初めてなのですが、やはり、こちらの海とあちらでは違うのでしょうか?」
「私も、見た事無いわ。海って凄く大きくて広いんでしょう?」
書物で読み、知識としてしか知らない孝子と晶子は、近々移り住む嘉雁村の海を想像した。
だが、果たして人の世のそれと鬼界のそれは同じであるのかどうか。
首を傾げる二人に、暁は口元を上げて告げる。
「そうだね、少し、武蔵国の穏やかな海と似ているかな…」
三人の影が伸びる帰り道、道の端に咲いたあざみの花が風に揺れて聞いていた。




