六十二話・妻問い
屋根を伝い、ポトリと雫が地面に落ちた。
庭園に植えられた樹々の葉に乗る雨粒も、キラキラと空からの光りを受けて輝いている。
廊下で泡を噴いて倒れる徳祐を置いて、屋敷の中で護符を握っていた宇美も、おずおずと庭に降りて孝子の横に並び立った。
漸く、全ての事に決着がついたのだ。
誰の胸にも大きな痛みを伴って、それでも安堵の溜息を吐いた事であろう。
北辰は人の耳では聞く事の出来ない言葉を紡ぎ、右手で宙に弧を描いた。
空間を裂いて現れたのは光り輝く門だった。
「この門は鬼界に通じている。但し、通れるのは鬼人のみ。俺が門を呼べるのは、これが最後だ。…鬼一、世話になったな。」
法月との約束を果たし「あざみの鬼」は京の都から姿を消した。
これ以上、北辰達がこの場に残る必要も無く、寧ろ、居る事によって厄介な事態に成り兼ねない。
皆が混乱している内に、とっとと鬼界へ戻るに限る。
「ああ、まあ、いいってことよ。…あんた達も元気でな。」
「ああ。」
鬼一が軽く手を上げるのに頷いた北辰は、隣に立つ晶子が姉の手を握り涙を流し、別れの言葉を告げているのを見ていた。
そうして、孝子の顔を見て一つ溜息を吐いた。
「…晶子姫、お別れの処に申し訳無いんだけど、ちょっと僕と代ってくれる?」
いつの間に変ったのか、銀色の瞳を半眼にした四鬼が孝子を真っ直ぐに見つめて立っていた。
晶子は驚いた顔をしたが、直ぐに頷くと一歩下がって、姉と四鬼を見守った。
「孝子、」
「あ、四鬼、あの…色々とありがとう。あなたと北辰のおかげで、晶子も宇美も無事だったわ。その…、晶子のこと、よろしく頼むわね。」
名を呼ばれ、目の前に立った四鬼に孝子は感謝を述べ、妹の事を頼んだ。
四鬼はそんな孝子をじっと見ていたが、ふっと溜息を吐いて言った。
「君が真っ直ぐ僕を見て、別れの言葉を口にしたのなら、僕は何も言わずにこのまま鬼界へ帰ろうと思ってたんだけど、そうじゃなかった。だったら、僕も利用出来るものは利用しても良いよね?」
「…え?利用?」
確かそれは、彼らの父親の座右の銘では無かったか?
孝子は訳が分からず、ぼんやりと四鬼を見上げた。
「孝子、僕の妻になりなよ。鬼界へ来れば、ここから逃げ出せるよ?」
「…っ!」
四鬼の言葉に孝子は顔を強張らせた。
先程まで、微妙に視線を逸らしていた孝子の瞳が、揺れながらも四鬼を見返している。
「僕は君の『家族が大切』って気持ちを利用する。君は、祖母と両親を嫌いであっても大切にして来たね?だけど、きっと、これ以上彼らの側にいれば、君の気持は深い憎しみに変るんじゃないかな?そう、はつの様にね。」
そう告げながら怪しく煌めいた銀色に、孝子は息を呑んだ。
自分の中に沸き起こった不安…いや、確信を、四鬼に全て見通されている。
それは、幼き日よりあった不安。
積み立てたものを、何度崩されても積み直して来たのに…
今日の出来事で、孝子の手は止まろうとしていた
晶子の首を絞めた母親の顔が目に浮かぶ
元より信心深く、誰よりも晶子を忌み嫌っていたが、あそこまでの狂気を身に潜めていたとは思わなかった。
そう、孝子は気付いてしまったのだ。三鬼のついた優しい嘘に。
彼は母は操られていたと言った。
だけど、きっとそうでは無い。正気では無かったかも知れないが、あの狂気こそが、母の真実だったのだろう。
そうして、父が異母姉とその母親にした仕打ち。
全ての発端が、父の所業であった。
勿論、それで「あざみの鬼」が行った全ての事を許せるものでは無いが、ただ、少しでも父に家族を思う情があれば…
いや、その情が無いからこそ、晶子に対しても平気であの様な罵声を浴びせられたのだ。
孝子の中で積み立てたものが崩れそうだった。
だが、崩れた後、果たして孝子は再び積み直す事が出来るだろうか…?
「姫様、鏑木様と共に行って下さいませ。」
「宇美…?」
迷う孝子にそう言ったのは、宇美だった。
子供の頃より孝子の教育係として側に寄り添い、厳しくも、優しく孝子を見守ってくれた大切な女房は、孝子にとっては実の母より母の様な存在で。
「私は、姫様の幸せを願っています。けれど、ここでは姫様は幸せにはなれない…ならば、鏑木様と共に行って下さいませ。」
宇美がしっかりと頷き、孝子の背中を押す。
「…私が、ここからいなくなれば、お父様とお母様は、どう思うかしら?」
「さあ?鬼に魅入られた娘を憐れに思うか、両親を見捨てたと憎むのか、そんなのは分からない。それは彼らの心の在り様だ。だけど、君がここで彼らと暮らせば、何れ君は心に「あざみの鬼」を飼う事になるだろう。…だから、そうなる前に、僕の手を取りな。」
そう言って、手を差し出した四鬼に、孝子の心はまだ揺れる。
だって、それは…
「…利用する、なんて、これじゃあ、逆よ…、私が、あなたを利用する事になるじゃない…っ」
「あくまでアレは父親の座右の銘だからね、父には僕もよく利用されてるよ。」
「…っ、どうして?どうして、そこまで、私に優しくしてくれるの?」
孝子は分からなかった。
確かに、四鬼は出会ったあの日から優しかった。
見ず知らずだった自分を助け、「囮」にするなんて口にしながらも、ずっと孝子達を護ってくれた。
家族を大切にしている事を理解し、それを尊重してくれた事も、孝子は本当に嬉しかったのだ。
だけど、どうしてそこまで優しくしてくれるのか…
「…君、相変わらず、人の話を聞いてないね。」
孝子の躊躇う手を乱暴に引き寄せて、四鬼は少し身を屈め、孝子の揺れる瞳を覗き込んで言った。
「僕は君を妻に欲しいと言ってるんだよ!君の気持を利用してまで、手に入れたいって事!理解してる?」
「え…?」
驚き目を瞠った孝子に、四鬼は呆れた溜息を吐いた。
「やっぱり、分かって無かったんだね。」
「そんなの…分かる訳無いじゃない…、だって、私、あなたから何も言われなかったわ…」
「…っ、それは。」
孝子の正論に、四鬼の言葉が詰まる。
そもそも四鬼とて、先程も言った様に、孝子があんな顔を見せなければ、自分の気持ちを伝えず、別れの言葉を残してこのまま鬼界へ戻るつもりだったのだ。
四鬼の知る孝子は、いつも真っ直ぐに前を向く孝子だ。
決して瞳を逸らさずに、その大きく黒い瞳で四鬼を捉えて離さない。
なのに、視線を逸らし、今にも泣きそうな顔で別れの言葉を口にするから、四鬼は孝子を諦める事を諦めた。
「…君の面白くて、肝が据わってて、根性があって、豪胆で豪気な処が好きだよ。」
「やっぱり馬鹿にしてるんじゃない!」
孝子は怒りながら泣いた。
だけど、その涙に濡れた瞳は、真っ直ぐに四鬼を見つめている。
四鬼の欲しかったものが、そこにはあった。
「それとも、花が無ければ駄目かい?うちの家訓に反した妻問いになってしまったからね。」
四鬼が悪戯っぽく言ったのに、孝子は頭を振って、四鬼の懐から顔を覗かせる花を手に取って言った。
「…花なら、この花をちょうだい。あなたは、出会った時、この花に触れれば私は傷付くと言った。それは間違いでは無かったけど、あなただって傷付いたわ。傷付き、だけどきっと、私達は、この花を忘れる事は無い…私は、その痛みをずっと胸の奥に仕舞って生きて行くわ。」
孝子の手の中であざみが揺れる。
四鬼はその花ごと、孝子をそっと包み込んで告げた。
「孝子、僕に真名を与えて欲しい。僕は君の事が好きだ。」
北辰の黄金色に比べ、冷たい印象を受ける四鬼の銀色の瞳が熱を持ち、孝子の身をじわりと焦がした。
体の中に宿った熱が何であるのか、孝子はもう気付いている。
妹の方が先に知った事を、少しだけ悔しく思いながら、だけど、そんな風に思った自分の心がおかしくて、孝子は笑った。
「私も好きよ…暁」
それは、夜明けを意味する名だ。
まだ陽の昇り切らない、ほの暗い刻。それでも必ず陽は昇るのだと、その時を待ち望む…希望を乗せた名前だった。




