五十九話・覚悟
空を覆っていた黒雲は去り、僅かだが雲の隙間に青空が覗く様になった。
あれ程、冷たく重たかった雨も今は柔らかく肩を濡らすのみだ。
四鬼はぼんやりと足元を見下ろしていた。
砕けて散った氷の欠片は既に消え失せ、法月の存在自体がまるで初めから無かったかの様に思われる。
ふと、視界の端に赤紫の花が映った。
「あれは…」
そこにあったのは、一輪のあざみの花。
鬼一が斬り落とした法月の右腕が、いつの間にかあざみの花に変っていた。
四鬼はそれを拾うと、そっと目を伏せた。
「…終わったの?」
背後で何処か呆然と零された言葉は孝子のもので、四鬼は孝子に向き直ると「ああ、終わったよ」と頷いてみせた。
その答えに強張っていた肩の力を抜いた孝子だったが、未だ顔色の悪い晶子が前に出て四鬼に問い掛けた。
「四鬼様、三鬼様は…三鬼様は本当に無事なのですか?」
四鬼の妖力を取り戻す為、自らの魂を傷付けた三鬼。
法月が…大切な幼馴染が消える瞬間すら姿を見せない等、あの三鬼がするだろうか?
それが出来ない状態と言うのなら…
「…死んでは無いよ。まだ、」
「!?」
四鬼の言葉に晶子は息を呑んだ。
「元々、無茶なやり方だったからね。傷付けられた魂は、確実にその代償を払う事になる。」
「代償とは、どの様なものなのですか?」
「三鬼の寿命だよ…場合によっては鍼を抜いて直ぐに死ぬかも知れない。運が良くて五年、生きれるかどうか…」
「そんなっ!?」
「覚悟の上だよ。…この鍼を抜いた時、三鬼は意識を取り戻す。その先に何があっても、これが三鬼の望んだ道なんだ。」
そう言って、四鬼は己の心の臓に刺さる鍼に触れた。
深々と突き刺さったそれは、肉体では無く、確実に三鬼の魂に傷を付けている。
己の魂に鍼を刺すと決意した三鬼は、四鬼が法月に言った様に、これを犠牲だとは思っていない。
あの時、三鬼は『恰好つけさせろ』と言った。
『法月を止めるのは、おまえがあいつと約束した事だから、おまえがやれ。一番美味しいところを、おまえに譲ってやるんだから、あとの事は全部オレにやらせろ。晶子と約束してるからな、今度こそ絶対護ってやるって。だから、オレにも恰好つけさせろよ。』
普段から、四鬼があれ程に止めろと言い聞かせていたにも関わらず、三鬼は恰好つける事を止めない。
本当に、本当に、馬鹿な兄だ。
「何か…何か、三鬼様を救う方法は無いのですか?」
「無いね。僕達の魂には形が無い。形の無いものに幾ら手を差し伸べても触れる事は出来ないだろう?それと一緒なんだ。」
「魂の形…!」
その言葉に、晶子は弾ける様に頭を上げた。
そうして、四鬼の胸に刺さる鍼をじっと見つめ、ぎゅっと唇を噛み締めると、四鬼に再び問い掛けた。
「私の寿命を三鬼様に御渡しする事は出来ませんか?」
「晶子!?」
突然の妹の発言に、孝子が悲鳴の様な声を上げる。
だが、その声を聞く事無く、晶子は四鬼を真っ直ぐに見つめて続けた。
「確か、鬼人にとって真名とは魂を形付けるものなのですよね?でしたら、私が三鬼様に真名を与え魂を形付けます。それならば、手を差し伸べる事は出来ますよね?…鬼に変った時と人間のままでの寿命ならば、どちらの寿命が長いのでしょうか?」
「鬼に変る方だね。」
「では、私は鬼となります。それで、三鬼様に私の寿命を分け与えます。」
「…例え、あなたが三鬼に寿命を分け与えたとしても、それ程、長くは生きれないと思うよ。せいぜい五年だった命が十年に延命するだけ。それは、果たして三鬼を救ったと言えるのかどうか…しかも、魂に手を差し伸べると言う事は、あなたと三鬼は魂を共有する事になる。三鬼が死ねば、あなたも死んでしまうんだよ?あなたにとって損しかないと思うけど?」
「確かに、五年が十年に伸びた処で、三鬼様を救ったとは言えないかも知れません。…けれど、その十年の間で、他に三鬼様を救う方法が見つかるかも知れない。私は三鬼様を絶対に諦めたくないのです。」
晶子は視線を逸らさない。
彼女もまた、覚悟を決めたのだろう。
「…あなたは強い女だね。」
四鬼は、ふっと笑って口元を上げた。どうやら自分は、こう言う真っ直ぐな目に弱いらしい。
「ちなみに、真名を与えて鬼に変るって事は三鬼の妻になるって事だけど、それでも本当に良いの?止めるなら今の内だよ?」
悪戯気に細められた四鬼の瞳に、晶子は自分の意見が聞き届けられた事を理解した。
「では…っ」
「うん、三鬼の魂まで案内するよ。」
本来ならば、四鬼の魂を三鬼に分け与えたかった。
ただ、それが出来ない理由は、彼らが未だに真名を与えられていない為だ。
幾ら双子と言えども、その魂に確固とした形が無いのでは、触れる事すら出来ない。
その魂を傷付けた三鬼の鍼だって、三鬼自身が己に使った為だ。
ただ例外として、妻問いの際に真名を与えられ、漸く形になった魂だけが、互いの種族の寿命を合わせる事が出来るのである。
伴侶が人であり、その者が鬼人になる場合に魂の交接が行われる。
傷付いた三鬼の魂に唯一触れる事の出来る者は、彼の妻以外に在り得ないのだ。
「…とは言え、これは後で三鬼に確実に怒られるな。まあ、仕方ないか、」
四鬼はそう零し、横で成り行きを見守っていた鬼一に「おまえも手伝え」と指図した。
「…以前から思ってたけど、あんた達って本当に人使いが荒いよな。」
「うちの父親の座右の銘が『利用できるものは利用しろ』なんだよ。」
「…そりゃ、立派な父親だ。」
鬼一が頬を引き攣らせたのを丸っと無視して、四鬼は晶子に説明を始めた。
「今から君には、僕達の深層…三鬼の魂がいる場所へ精神体となって行って貰う。僕の妖力は元々、三鬼の魂に宿っていたから僕が手を離せば自然と三鬼の魂に戻る筈だ。だから、その妖力に乗せて君の精神を飛ばす。体はこちらで無防備になってしまうから、そこは鬼一に護って貰う。だから、安心して。」
空の器に入り込もうとする者は多い。
特に黒雲が去ったとは言え、不浄の気を纏う者が活性化している今の状況下では、隙を見て晶子の体を狙って来る者もいるだろう。
その為に、鬼一の守護が必要だった。
四鬼は晶子の手を取り、心の臓に刺さる鍼を握らせた。
「この鍼を媒介にして、君を送る。三鬼に真名を与えたら、鍼を抜いて。」
「はい、分かりました。」
晶子はしっかりと頷いて、鍼を握る手に力を込めた。
そうして、晶子が意を決した時、晶子の背から自分を呼ぶ姉の声を聞いた。
晶子は振り返り、蒼い顔の姉を見つめて笑った。
「お姉様、いつかのお姉様の仰った言葉…胸を熱くする事、恋焦がれる事…今なら、私にも分かる気がするのです。」
「晶子…」
生憎と自慢の文字で恋文を綴る事は出来ないけれど。
晶子がそう恥ずかし気に微笑んだのを見て、孝子はもう何も言えなくなった。
思えば、幼い頃、初めて会った時の晶子もそうだった。
忌み子と蔑まれた人形の様な子供であったが、覚悟を決めてから晶子は変わった。
己の境遇をありのままに受け入れつつも、その中で最善を選び真っ直ぐに生きている。
それは孝子には持ち得ない強さだ。
「そう…では、目一杯、楽しんで来なさい!恋とは楽しむものだと宇美が言ってたわ!」
孝子の大きな声で名を呼ばれ、屋敷の中で未だ護符を握り締めていた宇美は泡を噴いて卒倒しそうになり、あまりの能天気さ、極論に四鬼も呆れた溜息を吐いた。
それでも、晶子と孝子は笑い合う。
そう、恋とは楽しむものなのだから。
「はい!必ず、三鬼様と一緒に戻って参ります!」
それを合図に四鬼は己の妖力を使い、晶子の精神を三鬼の元へと導いた。




