四十八話・怨嗟の雨
再び雷鳴が轟いた。
雨の庭園の中、三鬼ははつを注意深く見ながら続けた。
「俺達にとって真名は喉から手が出る程、欲しいものだ。だから、伴侶に真名を与えられたなら、仮名は必要無い。初め、俺達に名乗るのに「法月」の名が必要だったとしても、鬼界にいた頃と同じ様に法月と呼んでくれなんて、法月が言う筈が無いんだ。」
鬼人にとって真名は魂を形付けるものである。
真名を与えられて、漸く、自分が何者であるのかを自覚出来るのである。
無論、鬼人の中には生涯を独りで生きる者もいて、その者を殊更に憐れむ事も差別する事も無い。
他の者がどう見るかでは無く、本人がどう思うかが重要なのである。
「今一度、問う。おまえは何者だ?」
三鬼は目を細めてはつに問うた。
「……ふふっ」
「…何がおかしい?」
「逆に三鬼様に問いましょう。三鬼様の目には私はどう映っていますか?」
能面を張り付けた様であったはつは、静かに笑うと口元を上げて三鬼を見やった。
その表情は、先程までくるくると変わっていたものとも、能面の様なそれとも違う、凪いだ湖面の様な表情であった。
「…そうだな、少なくとも真っ当な人間の娘には見えないな。」
「まあ、酷い仰り様ですこと!」
はつはそう言うと、再び右手を上げて傀儡を招いた。
緑色の巨大な蔓は三鬼の足元の地面を割って這い出ると、その足元を狙ったが、三鬼は直ぐにそれを躱し、地面を蹴った勢いのままに、はつの元へと向かった。
三鬼の鍼がはつの右手を狙って投げられる。
しかし、鍼がはつの右手に届く前に傀儡がはつを守り、鍼は蔓に当たって焼失した。
「ちっ、酷いのはどっちだよ!まだ俺の質問に答えて無いだろうが!」
「ふふふっ、三鬼様があまりにも意地悪な事を仰るので、つい。」
はつが再び笑顔を浮かべるが、三鬼の目には最早、その笑顔は作り物の様にしか見えない。
三鬼は襲い来る傀儡を飛び越え、はつへ目掛けて鍼を飛ばす。
炎を纏った鍼は、けれど、はつへ届く前に炎が消え、はつの足元に落ちた。
「なっ!?俺の鍼がっ!」
「あらあら、とうとう結界の綻びの影響が出ましたわね。」
はつは雨空を見上げて笑った。
三鬼の炎は、通常の炎とは違って水に濡れたからと言って消えたりはしない。
けれど、結界が消え、不浄の気で覆われた空から降り続ける雨は怨嗟の雫だ。
正確に言えば、三鬼の操る妖術は都を護る陰陽師達の使うものとは違うので、結界が消えた処で大した影響は無い筈なのだが、今回の件に法月が関わっている事から、彼が何かしらの策を練って、鬼の操る妖術にも影響を与えたものと思われる。
「三鬼様が得意なのは炎を使った妖術でしたわよね?この降り頻る雨は、私と旦那様の憎しみの涙で御座います。全てを呪い、全てに絶望した私達の涙が怨嗟となって降らせているのです。それを前にすれば、あなたの炎等、忽ちに消え失せてしまうでしょうね。」
はつは両手を天に掲げ、空からの雨に身を任せた。
稲妻が走り黒雲が雷鳴で光る中、はつはうっとりと己の濡れた腕を眺めて手を上げた。
それを合図に三鬼の背後から傀儡が襲い掛かる。だが、三鬼はそれを横に躱して空を蹴った。
空中に跳んだ三鬼目掛けて次々と傀儡が地面を突き破って来るのを、それを足場にして三鬼ははつへと一直線に駆けて行く。
「お前達の怨嗟の雨で俺の炎が消えちまうんなら、直接刺して体の中から炎を流してやるまでだ!」
三鬼の鍼がはつの腕を貫こうとした瞬間、はつの指先は男らしい節の通った指先に変化すると、そこから松の実を取り出して三鬼へと放った。
松の実は三鬼に触れると、勢い良く爆ぜ、三鬼の体を吹き飛ばす。
三鬼は強かに体を地面に打ち付け、呻きながらも面を上げたが、目の前に立ったソレに目を瞠った。
「三鬼、駄目だよ、私の妻に傷を付けるなんて。例え、相手がおまえでも、許す事は出来ないよ。」
ソレは黄金色の目を細めて、うっそりと笑っている。
「お、おまえ…、その姿は…っ」
三鬼は自分の唇が震えているのを自覚した。
目の前に立つソレの右頬には、確かに見覚えのある火傷の痕があった。
柔和な顔立ちに、落ち着いた低温の声色。
間違いなく、自分達の知る幼馴染の姿がそこにはあったのだ。
但し、右側だけの姿であったが。




