四十三話・穢れ
未一刻を報せる八つの太鼓が全て鳴り終わった。
天文博士が選び雲一つ無い快晴の元、行われた怨霊払いであったが、今は黒く重たい雲が空を覆い、儀式が無事に終わったにしては、何とも不安になる天気に変わっている。
それでも羅城門の扉が開いた事により、都の外で待機していた者達はそっと胸を撫で下ろした。
漸く都の中へ入れるのだと、列が動いた時、中にいた役人がそれを止めた。
中で何事かあったのか、待機列から口々に疑問や不満が上がる中、役人の一人が利久の元へと駆け寄り告げた。
「利久、正孝様が御呼びだ。急ぎ、戻れ!」
利久は兄の典久と共に、怨霊払いの進行を見守っていた上司の突然の招集に首を傾げた。
予定では、利久はこのまま羅城門の外で申一刻まで御役目を全うする筈である。正孝の招集は予定外だった。
利久は急いで羅城門を潜り、怨霊払いの行われた祈祷場所へと走った。
初めに目にしたのは、人垣だった。その中で、誰かが言い争いをしている。
利久が不審に思い、その人垣へ足を向けた時、彼の肩を誰かが掴んだ。
「利久!おまえは正孝様の元へ行け。こっちは俺達が何とかする。」
振り返って見れば、同僚が利久を見やり、正孝のいる場所を示している。
それを確認した利久は、正孝の元で血を流して倒れている兄の姿に目を瞠った。
「兄上っ!」
利久が叫び、駆け寄ったのを正孝は眉を寄せて告げた。
「儀式が始まる前から様子がおかしかったんだが…本人は何でも無いと言い張って仕事に戻ってしまった。儀式中、隠れて倒れてる処を見つけたんだが、既に手遅れだった…」
正孝の言葉に、利久は兄の姿を見下ろした。
青白い顔に目は伏せられているものの、その顔にはありありと苦悶の表情が浮かんでいる。
「典久殿は、何処か患っていたのか?」
「いえ、その様な話は聞いておりません。」
「そうか…」
ふと、兄の首元が血で汚れている事に利久が気が付いた。
「兄上の襟元の血…これは一体?」
「ああ、俺も気になってな。典久殿に尋ねた処、虫にでも食われたのだろうと言っていたよ。引っ掻き過ぎて爪で皮膚を裂いたらしい。」
「引っかき傷ですか…」
確かに兄の血に濡れた首元には、爪の痕がくっきりと残っている。
流石に、この傷が死因だとは思えないが、それにしては妙に気になる傷跡だった。
「首元の引っ搔き傷以外、外傷は見当たらない。原因は不明だが誰かに殺害されたとかでは無い様だ。兄が死に、おまえには気の毒な話だが、これ以外にも面倒な事が起こっている。」
正孝は利久の肩を叩くと、先程の人垣を顎でしゃくった。
「儀式は神聖なものでなくてはならない。だが、始まる前から少し問題があってな、典久殿が祈祷場所で野良犬を斬り殺してしまったんだ。それでも、何とか場を整えて祈祷を始めたが、穢れの混じった儀式と言う事で、また陰陽師達が騒いでると言う訳だ。」
「穢れ…」
「ああ、その上、祈祷中に死人まで出てしまった。残念だが儀式は失敗だ。この事を報告すれば、朝廷も民衆も荒れるだろうな。だが、報告しない訳にもいかん。…理不尽に思うやも知れんが、大事な儀式の最中に穢れを出したとして、おまえの一家も何かしらの御咎めを受けるだろう。とにかく、沙汰が出るまでは典久殿の遺体と共に、家に帰って謹慎をしておけ。」
「はい。」
正孝が言うのに素直に頷いた利久が顔を上げた、その時、利久の目を先程の壺装束の女の姿が掠めた。
羅城門の外で待機している者達は、未だ、外の警備の者達が押し留めている筈だ。それなのに、何故か女は平然と都の中に足を踏み入れている。
「おい…」
利久は女の姿に思わず声を掛けたが、人垣の向こうから悲鳴が上がった事に後ろを振り返った。
「何だ、あれはっ!?」
正孝が息を呑んだのが分かった。
利久もその光景に喉を鳴らした。
人垣の向こう、未だ燃える護摩木を囲んでいた二人の陰陽師の体から、緑色の茨が現れたのだ。
陰陽師達の目は虚ろで、役人の大声も届いていない様子。
ただ、その唇に呪を乗せると茨が炎を纏った鞭へと変わり、次々と集まった者達を襲って行った。
「ちっ、お前達!怯むな!剣を持て!」
正孝が腰の剣を抜刀すると、兵士に号令した。
利久も正孝に続こうとしたのを、当の正孝に止められる。
「おまえは典久殿の遺体を、この場から遠のけろ!俺は陰陽道に詳しい訳では無いが、流石に穢れと成り得る遺体をこのままここに置いておくのが不味い事位は分かる。」
今目の前で起こっている怪異が、儀式が失敗した事で起こっているとするのならば、その失敗の原因は穢れ…典久の死である。
利久は鞘から手を離すと、正孝の命令に従い兄の遺体を背負って走り出した。
「そうだ、利久!出来るだけ、ここから離れろ!」
正孝の声と兵士の悲鳴を背中で聞きながら、利久は夢中で走った。
朱雀大路を真っ直ぐに進まず、角を曲がり、橋を渡って己の屋敷への最短距離をひた走る。
だが、橋の上で背中に負ぶった兄の遺体がピクリと動いた事に気付き、利久は足を止めた。
「兄上…?」
思わず名を呼んでみたものの、背中に感じるのは冷たく重たい遺体のそれで。
気のせいかと、ゆっくり息を吐いて呼吸を正した利久は、しかし、兄の口から醜悪な触手の塊が這い出た事で、慌てて遺体を背中から降ろした。
「な、何だ?!」
俯せになった典久の遺体から、もぞりと姿を現したのは緑色の蔓だった。
その蔓は利久の目の前で、みるみる内に長く巨大な触手の塊へと変貌する。
利久は鞘から剣を抜くと「やあ!」と声を上げて勢い良く触手へと刀を振るった。
だが、利久の刀は幾つもある触手の、たった一本の手で簡単に払われ、弾き飛ばされる。
利久が思わず飛ばされた刀を追い、触手から目を離したのを触手は好機と捉えたのだろう、利久の体に蔓を巻き付け動きを封じた。
絞め殺されると思った利久であったが、触手が利久を傷付ける事は無かった。
「これは一体…?」
呆気に取られた利久であったが、だからと言って、この状況が良いものだとは思えない。
何とか逃れようと身を捩った時、
「だから、おまえには剣は向いて無いって言ったんだよ!」
利久の体に巻き付いた蔓を閃光が両断した。
体が解放され、利久の目の前で刀を構えた男の姿に、利久はまたもや呆気に取られる。
いつもの遊び女姿では無い。
烏帽子こそ被ってはいないが、狩衣を纏った鬼一法眼が口をへの字にして立っていた。




