三話・晶子と三鬼
その時、晶子が手習いの手を止めたのは、外で聞こえていた筈の虫の音が消えたからである。
だが、筆を置き、耳を澄ませど、誰ぞがこちらにやって来る気配は無い。
では、どうして虫達は音を消したのかと小首を傾げて、御簾越しに庭を眺めると、いつの間にか暗がりの廊下に一輪のあざみの花が置かれていた。
晶子は眉を顰めると、その赤紫の花を見つめた。
「悪戯だとしたら、随分と性質の悪い悪戯だこと…」
今、京の都で噂される鬼による惨劇は、晶子の耳にも届いていた。
当然、その鬼が残したと言われるあざみの花の事も知っている。
晶子は立ち上がると、女房である伊豆を呼ぶ為に口を開いたが、その口を何処から現れたのか無数の緑色をした蔓が塞ぎ、瞬く間に晶子の体を縛り付けたのである。
噂に聞いた怪異と全く同じ事が我が身に起き、晶子は必死に首に巻き付いた蔓に爪を立てた。
けれど、晶子に巻き付いた蔓は欠片程も傷つく事は無く、逆に、何十とあったそれは、太い一つの蔓に変化すると、晶子の体を一層強く締め上げた。
「…っ、あっ…、だ、だれか…」
喉元を絞められ、掠れた言葉が必死に助けを求めるも、誰一人この場に駆け付ける者は居らず、晶子の意識は次第に遠のいて行く。
もう駄目だと思ったその時、晶子の前に黄金色の星が煌めいた。
彼は胸元から幾つかの鍼を取り出すと、何事か呟いて、晶子に巻き付いた蔓を目掛けて鋭く投げ放った。
鍼は蔓に刺さると、まるで意志を持っているかの様に、自ら蔓の中に潜り始め、
晶子に巻き付いていた緑色の蔓は、次第にその色を変え始める。
やがて、茶色となった蔓が枯れると、鍼を残して、晶子を苦しめた緑の魔物は幻の様に消え失せた。
拘束を解かれた晶子が咳き込みながら倒れる瞬間、彼は晶子の腰を抱いてその体を支えると、晶子の顔を覗き込んだ。
「おいおい、大丈夫か…って、おまえ、孝子か!?何やってんだ、こんな所で」
晶子を助けた彼は、目を瞠り、驚いた顔で晶子を見ている。
荒くなった呼吸を整えながら、晶子は驚きたいのは自分の方だと思っていた。
何故なら自分を助けた彼の姿が、巷で噂の鬼の姿をしているのだから。
後ろで一つに纏められた黒く真っ直ぐな髪、さらりと風に揺れたその頭上には白銀の二本の角があった。
そうして、その耳は天を向く様に尖り、孝子を真っ直ぐに見つめるその瞳は、黄金色に輝いている。
人に非ざるその容姿は、まさに鬼と呼ばれるものだった。
けれど、晶子にはその異形の容姿よりも気になる事があった。
彼が口にした名、それは…
「孝子お姉様を知っているのですか?」
「お姉様?」
「孝子と言う女性が私と同じ顔をしていたのなら、それは私の双子の姉の事です。」
晶子の言葉に目を丸くした彼は、しげしげと晶子を見下ろした。
その不躾な視線に晶子は眉を顰めたが、彼は気にする事なく、晶子の頭に手をやって彼女の腰を引き寄せると、黄金色の瞳を細めてにんまりと笑った。
「確かに、孝子よりおまえの方が背は小さいかも知れないな。それに、体も細い。もう少し肉がついてる方が、俺は好みだぞ?」
「なっ…!」
そのあまりにも無礼な言動に、晶子は彼の腕から逃れると、きっと男を睨み据えた。
異形の者を前にした恐怖では無く、羞恥と怒りで体が震えている。
「あなたの好み等、聞いておりません!そもそも、あなたは何者なのですか!?どうして孝子お姉様を知っているのです?それに、あの蔓は何なのですか!?」
「ははっ!確かに、おまえは孝子と双子だな。顔もそうだが、俺を見ても悲鳴を上げて逃げ出さず、逆に突っかかって来る。孝子とそっくりだ。」
彼は声を上げて笑うと両手を上げて晶子を宥めた。
「俺は鏑鬼の三鬼と言う。孝子の事は俺の双子の弟、四鬼から聞いて知ってるだけだ。孝子もおまえと同じ様にさっきの蔓に襲われてな、それを四鬼が助けた事で知り合ったんだと。」
「孝子お姉様も襲われたのですか!?お姉様に怪我は?無事なのですか!?」
「ああ、ちょいと首を締め上げられたようだが、四鬼に食って掛かる位には元気だったぞ。」
けらけらと笑って告げた三鬼に、晶子は安心して良いのか迷う処であったが、それでも姉の命に別状は無いのだろうと、そっと胸を撫で下ろす事にした。




