三十五話・伊豆
巳三刻を報せる一つ目の太鼓を聞きながら、伊豆は孝子が供も連れずに晶子の部屋へと向かうのを物陰から見ていた。
見れば見る程、孝子と晶子はそっくりだ。
成程、双子と言う者は、こう言う者を言うのか。
だが、これ程そっくりだと言うのに、孝子と晶子の境遇はまるで違う。
同じ顔の者に仕える女房なのに、伊豆と宇美の境遇が違うのと同じ様に。
…正確に言えば、伊豆は木通御前の女房であり、晶子に仕えている訳では無く、寧ろ主に従い、晶子には必要最低限の事しか関わらなかったのだが、そんな事実も伊豆の中では無かった事になっていた。
今、伊豆の中にあるのは、宇美に対する嫉妬だ。
木通御前の供として、初めて橘邸を訪れた伊豆は、木通御前の屋敷とは比べ物にならぬ豪華な屋敷に圧倒された。
木通御前の義息子である橘徳祐は、今でこそ中務省の権大輔を務めているが、元は下級貴族の出自であり、若い頃は与度津から船に乗って東の海へ赴き、財を成した人物だ。
海を渡っての商いと言えば、西国や摂津国福原にある大輪田泊での宋国との交易が主である中、徳祐は東に商機を見出し、これに成功した。
橘一族は嘗ては公卿を輩出する由緒ある家柄であったのだが、ある時を境に次第にその勢力は衰え、中下流貴族の身分にまで落ちると一族の中には都を離れて地方に土着する者まで現れる様になった。
そんな中で、徳祐は東の海で成した財を足掛かりに出世し、五年前には従五位を贈位されて後に、現在の権大輔に任命されている。
当時、都に起こった大火事が原因で、大内裏では朝堂院が焼失する等、朝廷に大きな被害を及ぼした。
朝廷はこれ以降、財政難に苦しむ事になるのだが、そこに付け入ったのが金を持っている徳祐であった。
そんな徳祐の屋敷であるのだからして、伊豆が圧倒されるのは当然の事だと言えるだろう。
「ああ、私の主が孝子姫様なら良かったのに…。」
伊豆は呟くと、庭先に降りて古木に刺してある銀色に煌めく鍼を見下ろした。
初めは気のせいだと思ったのだ。
木通御前の屋敷、晶子の部屋から見える庭先の老木に、これと同じ鍼が刺してあった。
下男が言うには、運気を上げる為の呪いとして晶子が施していたのだと。
晶子がこちらの屋敷に移って直ぐに、木通御前の命により鍼は抜かれる事になったのだが、鍼を抜いてから不思議と伊豆に幸運が巡って来る様になった。
晶子がいなくなった事により、主の機嫌も良く、それによって伊豆の仕事も随分と楽なものへと変わった。
また、怨霊払いまで木通御前の質素で侘しい屋敷とは比べ物にもならない煌びやかな橘邸に、主の供としてだが訪れる事となった。
確かに、あの鍼は運気を上げる呪いが掛かっていたのだろう。
「…だったら、この鍼を抜いたら、もっと、もっと、幸せになれるのかしら?」
そうだ、きっと、宇美の代わりに伊豆が孝子姫の女房となり、ずっとこの屋敷で暮らす事が出来る筈だ、この鍼を抜けば…
伊豆はうっそり笑うと、老木にある鍼へと手を伸ばした。




